第十三話 あまつかぜ  世界は平等ではない。  安東直弘は、海外赴任の数年間でそれを痛感した。フェアプレイの精神とは相手を圧倒する力を持っていて初めて生まれる余裕であり、生死のかかった現場では誰もが利己的になる。たとえ自他を厳しく律する宗教に生涯を縛られていようとも、生まれ育った環境が環境ならば相手を出し抜き盗み蹴落とすことを誰も躊躇したりしない。  彼の携わったプロジェクトは、そういう人間の厳しさに打ちのめされることで始まった。自分が何者であるのか、そういう概念の根本から崩壊しそうになった直弘らは、自己の存在を仕事以外の部分に求めざるを得なかったのだ。多くの同僚は、それを家族に求めた。間違った選択ではない、しかし直弘は既に棄ててしまった解だ。  苦悩。  後悔という言葉の意味を直弘は嫌というほど思い知った。疎んじていた娘、仕事のために関係を清算したはずの元妻との冷たかった生活でさえ今では輝いて見えた。今の自分なら、決して妻と娘をないがしろにはしない、そういう気持ちさえあった。だが現実は残酷である。妻は既に再婚し、娘は…… 「えりか」  その名を口にして、ようやく直弘は己が意識を失っていたことに気がついた。そこは学園長の部屋ではなく、保健室の清潔なベッドの上だった。 「なによ」  ぶすっとしてふてくされた声が、直弘のすぐ横から聞こえた。  佐伯えりか。直弘の実娘である。勢いとはいえ直弘を蹴り飛ばし昏倒させた彼女は、助けたはずの義兄である隆にこっぴどく叱られたのだ。 「……こんな回りくどいことしなくたって、今ならメールとか電話とかでも色々できるでしょ」  学園長から穏便な形で事情説明を受けたえりかは頬を膨らませる。父娘の感動の再会は、最初の瞬間で既に台無しになっているし、えりかの方で直弘に対する印象が最悪のままだったのだから仕方ない。隆の命令に等しい要請が無ければ、顔も見たくなかったというのが本音だ。 「君が心配だったんだ。合わせる顔などないと分かってはいたが」 「おにいちゃんを怪我させてたら、本気で許さなかった」  怒っている。  この野郎てめえ今更のこのこ出てきて父親面するんじゃねえ女子高生なめんなよと、表情がすべて物語っている。そういう表情の浮かべ方は、自慢できない程度の絆とはいえ父娘である。 「おにいちゃんが許せっていうから、許す」 「隆君が」 「そうよ」  短い返答に、直弘は娘がいかに隆に対して信頼を寄せているのかを痛感した。えりかが抱え込んでいた寂しさ隠していた哀しさを、隆は自然と受け止めたのだろう。直弘が、そして彼女の母である万理が果たすべき家族としての責務を、見ず知らずの間柄に等しい隆が代わりに背負ってくれたのだ。  起き上がる気力さえ失せ、直弘は息を吐く。 「えりかは、隆君のことが好きかい」  返答は数秒後。 「……強敵がいるから、これがなかなか」 「父さん、えりかを応援するぞ」  真っ白な天井を見つめながら、直弘は呟いた。視線の片隅のえりかは少しだけ動揺していた。 「父さん、離婚してようやく分かったんだけどな。好きな人にはしっかり『好きだ』って伝え続けないと駄目だ、一回や二回なんて数の内にも入らないぞ」 「ふーん」 「それとな」 「うん」 「君はとても綺麗だから、自信を持ちなさい。父さんが言えるのは、とりあえずそれだけだ」      直弘の様子を見に訪れた学園長は、保健室の入り口に立つ隆と校医の姿を目にして「あら」と首をかしげた。隆は既に外套を羽織り、学園を出て行く準備を整えていた。 「もうお帰りになられるのですか」 「ええ、まあ」  保健室の扉は少しばかり開いており、そこから義妹のすすりなく声などを耳にしながら、隆は罰の悪そうな顔で軽く会釈した。 「夕御飯の支度、早めに済ませないといけないので」  今日は三人分なので。  困ったような楽しいような隆の笑顔。学園長と校医は、えりかが義兄に惹かれる理由を少しだけ理解した。