第九話 ほととぎす  佐伯隆の父が再婚する少し前の話である。      おそらく数年は語り継がれるであろう騒々しい文化祭が終わり、お湯を注いだばかりの即席カップルが校舎の内外に溢れていた。  祭りは人の心を少しばかり刺激し、規則で縛られている学生生活に変化をもたせる。意外な一面に驚く者、閉ざしていた心を開く者、秘めたる想いを告げる者、なんとなく良い雰囲気を醸し出すもののそこから先に進めない者。己が趣味に生きる者も、もちろん多い。 「兵どもが夢のあと、とでも申しましょうか」  樽のように膨れた畠山智幸が模擬店の残骸を眺めつつ、そんな言葉を漏らした。  激烈究極魔術的驚愕印度料理店・影法師。  どこまで本気か分からない二年C組の出し物は、カレー屋の息子である同級生を飛び越えて彼の実家と結託して仕組まれた企画だった。本職の料理人が調理指導を行い、どこから仕入れたのか伝統衣装サリーをウェイトレスの制服に選び、彼らの企画はごく一部の犠牲を払いつつも好評の内に終わった。 「流浪の少年料理人とか謎の陶芸家が乱入してきた時にはどうなる事かとも思いましたが、いやはや無事に終わってよかったですよ」 「……無事?」  模擬店を片付けていた隆は、智幸の言葉に頬を引きつらせた。 「青蘭女子の集団とか謎の虚無僧集団とか謎の黒服サングラス米国人集団とか、そういうのが大挙して押し寄せてきたのは、些細なことかい」 「カレーは完売しましたし、学園祭にはつきもののヤンキーにいちゃんは一人も来なかったではありませんか」  真顔で返す智幸。  確かに、この種の祭騒ぎが好きそうな血の気の多い若者の姿が今年の文化祭では見られなかった。周辺市町村はおろか他県より来る事さえあるというのに、今年に限ってはそういう集団は全くいなかった。もっとも、それを上回る傍迷惑な連中が押しかけてきたのだから、無事なはずがない。 「騒動の中心人物はまとめて校長室で説教喰らってるし、後夜祭ももうじき始まるのに片付けに誰も来ないし」 「片付けは明日ですから、今ここでやる必要などありませんよ」  使用済みの紙皿や使い捨ての容器などをゴミ袋に放り込み、智幸は頭を動かし首を鳴らした。達観しているのか総てを諦めているのか分からない細い目が、模擬店の外でわいわいと騒ぐ生徒たちに向けられる。 「後夜祭のフォークダンス、あと少しで始まりますしね。そろそろ佐伯君もパートナーを見つけられたらどうですか」 「そういう畠山はどうなのさ」 「私は」少しばかり間が空いた「放送部と写真部を掛け持ちしているので、フォークダンスでは裏方ですよ。いや本当に」  今まさに思いついたような理由を口にして智幸は巨体を揺らし、それじゃあ後ほど、と呑気そうに手を振って智幸は模擬店から消えた。残された隆は、一人ではどうしようもないガラクタの山を前に溜息をつき、さてどうしたものかと手近な椅子に腰掛けた。いつもは一緒に行動する前方忠以は、今日は家庭教師の教え子が遊びに来ているとかでその案内に出かけている。 (……ほんと、何処も彼処もカップルばっか)  もう一度、溜息。  まばたきすれば、十七歳にしては長めのまつ毛が揺れる。私服登校が許されている文化祭で学生服姿なのは、生徒会の役員を含めても数えるほどしかいないだろう。 (イヤになっちゃうな)  数時間前の出来事を思い出し、そんな言葉を漏らす。  文化祭を振り返ってみれば、隆は不運だった。前夜祭にて行われたミスコンに「模擬店の宣伝にもなるから」と同級生一同の陰謀により女装して出場させられ、ぶっちぎりでグランプリに輝いてしまったこと。女生徒と同じサリー姿で接客したこと、それを写真に撮られ父親にも目撃されたこと。迷子の子供たちを案内所に連れて行けば「おねえちゃん、ありがとう」と呼ばれ、たまたま遊びに来ていた従姉妹には「あたしたちより綺麗かも」と本気で嫉妬された。智幸の話が正しければ、ミスコン時の写真は既にプレミア価格つきで出回っているという……模擬店の破壊と同時に隆が女装をやめ制服に着替えた時には、各所から残念そうな声が上がったのはいうまでもない。  女っぽいというのは、昔から言われていたことだ。  中学に入る以前はそれを気にしたこともあったが、友人である忠以らは「別に関係ないだろ」と普通に接してくれたし、記憶に残っていない母親との数少ない絆なのだと考えてからは、吹っ切れたつもりだった。それでも隆が落ち込んだのは女装が恐ろしいほど似合ってしまった自身の容姿であり、衣装を手配し化粧を施してくれた相手が夏木紅葉だったという点にある。 「……女の敵ね」  メイクが終わった時、紅葉が羨ましそうに呟いたのを隆は聞き逃さなかった。  以前より憎からず想っていた相手である。しかも己の美に誇りを持つタイプの紅葉の言葉だから、冗談には聞こえない。 (夏木さんに嫌われちゃった)  営業スマイルを浮かべつつも、隆はそんなことを考えて文化祭を過ごした。そして後夜祭を迎えるに至り、今まで溜まった絶望感に打ちのめされたのである。ああ、カップルが憎い。即席の恋人達が憎い。修学旅行の時と同じように賞味期限が短そうなのに幸せを満喫していそうな男と女が羨ましい。自分はきっとこのまま男とも女ともつかないイロモノ高校生として全校生徒のさらし者になり、ガールフレンドもできずに卒業して就職して独身生活を迎えるのだろう。なんとも悲惨な未来像が隆の脳裏に浮かんでは消え、さながら走馬灯のようにぐるぐると展開する。 「駄目だ、駄目だ」  うっかり女装したことで自分の運命が大きく変わってしまったのか。 「……情けないよ。本当だったら文化祭の時に夏木さんに」 「私に?」  独白が中断される。  背中越しに聞こえたのは、隆が顔を合わせたくない当人の声だ。己の総てに対して自身と責任を持つ、そんな人間だけが持つ張りのある声だ。あまりに真っ直ぐすぎる声なので、鬱屈とした思いを抱える隆は振り向くことさえできない。 「文化祭という学校行事を利用して私に何か用事でもありましたか。出席番号九番、佐伯隆君。ついでに本年度ミス北高コンテスト優勝者さん?」  事務的な口調で紅葉は続ける。感情の抑揚をおさえた声は、ぐさぐさと隆の背中に突き刺さる。 「きちんと言いたいこと言わないと、私、変に期待したまま帰っちゃうわよ?」 「へ、変に期待って?」  慌てて立ち上がり振り返ろうとするも、声はうわずり、己が腰掛けていた椅子の足に爪先を引っかけて転んでしまう隆。 「いたたた」 「あの……佐伯君、大丈夫?」  声の主、紅葉がしゃがみこんで隆を不安そうに見る。無論隆は無事なのだが、腕立て伏せの要領で上体を起こすと、鼻先数センチの距離に紅葉の顔があった。下手に勢いをつけていたので他に向きを変えられず、視線も合っているので顔を逸らすこともできない。紅葉はこれ以上ないほど楽しそうに、狼狽する隆の顔を見つめている。 「どういうわけか一緒に踊る人まだ決めてないの。後夜祭まで時間ないし」 「う、うん」  にこにこと。  紅葉は隆を見ている。笑顔には違いないが「とっとと白黒はっきりつけんかい」というオーラを全身より発しながら。  文化祭という特異的な空気も後押しし。  隆は口の中がひどく渇くのを自覚しながら、自身が求め彼女が望む言葉を 「……ははあ。隆おにいちゃんって、勢いに流されてうっかり告白しちゃったんだ」  ちゃぶ台に頬杖をつきながら、佐伯えりかは面倒くさそうに呟いた。部屋の片隅では義兄の隆が壁に向かってうずくまっており、紅葉は楽しそうに一枚のディスクを取り出した。 「それで、これが一部始終を畠山に頼んで隠し撮りさせた記録」 「おおー」 「しくしくしくしくしく」  自慢げに微笑む紅葉。えりかは敵ながら天晴れと感心し、隆はがっくりと力尽きた。