第八話 しのぶれど  人間は意識と認識の生き物でもある。  今まで生きてきた人生経験と学習内容に基づいて、事態を予測し行動する。未知なるものに触れた時、これまでに蓄積した情報を武器に対応する。世界というのは理不尽であっても人間の予測で補える範囲の現象が多く、だからこそ人は絶望せずに生きていける。  だが言い返せば、人間は予測外の事態には弱い。  暗闇の中、そこに階段が続いているとばかりに思って宙を踏み抜くように。  小学校の頃から喧嘩ばかりしていた悪友同然の女子に突然泣きながら告白された時のように。 (うう)  佐伯隆は己が受けた衝撃の大きさに意識を失いそうになった。  ある平凡な夕食の風景。  たまにはわたしが御飯を作るねと、義妹の佐伯えりかが料理書片手に悪戦苦闘していたのまでは覚えている。制服の上にエプロンを着て、台所をぱたぱたと駆け回りながら彼女はなにやら作っていた。「手伝おうか」と声をかけても、断られてしまう。 「隆おにいちゃんはいつも頑張ってるんだから、今日くらいはわたしに作らせてよ」  とまあ、腕まくりしつつえりかは隆を居間に押し込めた。  そうして目の前には、シチューに似たものがスープ皿に盛り付けられていた。冷凍野菜を使っているのか、シチューの具材は彩り豊かである。 「ビーフストロガノフなの。どうぞめしあがれ」  えりかは笑顔で、しかし出来具合を確認するべく隆の顔をぢっと見つめていた。凝視と呼んでも構わないほどの観察眼を駆使し、義兄の反応を探ろうとしている。隆は緊張の面持ちを崩さず、スプーンでひと匙ほど口に含み。  何事もなく隆はスプーンを動かし、スープ皿の中身を口の中に運んだ。表情をまるで変えず、スプーンを動かす早さも変わらない。世間話を交えながら、えりかは料理の説明を楽しそうに話す。自分が作った料理を隆が食べてくれる様子を、これ以上ないほど幸せそうに眺めている。 「ごちそうさま」  隆は少し恥ずかしそうに微笑んで、手を合わせた。 「……隆おにいちゃん、おいしかった?」 「えりかさんらしい味でした」 「わたしらしい味」 「はい」  それがどういうものか理解できず、えりかは皿にわずかに残ったシチューを指ですくいとって口に運ぶ。  一秒経過。  二秒経過。  三秒経過。  五秒目にして彼女は咳き込みつつ台所に駆け込み、水を流しながら唾混じりのシチューを吐き出した。何度も何度もうがいをして、それから物凄い勢いで隆の前に戻る。非難するような、心配するような涙目で義兄を見つめる。 「隆おにいちゃんのバカっ、こんなの無理して食べる必要なんてなかったのに!」 「個性的な味だったよ」  渋茶をすすりながら、ぎこちない笑みを浮かべる隆。 (ストロガノフっていうよりはカタストロフって感じだったけどね)  その言葉だけは口にせず、隆は涙ぐむ義妹の頭をぽんぽんと優しく撫でるのだった。