第五話 たまのをよ  その日の朝、佐伯えりかは頭痛と悪寒によって目が覚めた。 「三十八度三分」  デジタル式の体温計を手に、隆は告げた。既にえりかの額には吸熱シートが貼り付けられ、来客用の布団がえりかの布団の上に重ねられている。アメリカンクラブサンドのごとく布団に押し潰されたえりかは手足を動かすことも難しく、熱っぽい目を天井に向けるので精一杯だ。呼吸もひどく荒い。 「学校には連絡しておいたから、今日は安静にしているんだよ」 「……うん」  常備している感冒薬は既に飲ませており、その上でこの高熱である。えりかには知らせていないが、隆は実家の義母に電話して彼女の病歴についてある程度の話も聞いていた。アレルギー症状もなく重い病気に苦しんだこともないと、えりかの母は電話の向こうで語っていた。新婚家庭を邪魔するようで気が引けたのだが、義妹が苦しんでいることを考えれば遠慮するわけにもいかない。 「無理して動き回って熱が上がったら、問答無用で病院連れて行くよ」  解熱剤の注射は尻というのが相場だ。小さい頃に病院で打たれた注射がトラウマになっているえりかは露骨にいやいやと首を振り、潤んだ瞳で隆を見る。 「病院はイヤ」 「だったら熱下げなきゃ。帰りに桃缶買ってくるから」 「プリンも食べたいよ、おにいちゃん」  ぶんぶんと首を振るが、勢いは普段の半分もない。それどころか首を振っただけで目眩を起こし、意識を失ってしまう。  ただの風邪だろうが、熱の高さは無視できない。単に体調を崩したというよりも、色々なストレスが溜まっていた可能性もある。いずれにせよ医師ならぬ隆にえりかの体調などわかるはずもなく、後ろ髪を引かれる思いで隆は登校した。  午後。少し遅めの昼食を無理に摂り、隆が用意した錠剤を飲む。身体の熱っぽさは相変わらずで、上体を起こすのも難しい。テレビを見る気力さえ残らず、使い物にならなくなった吸熱シートを張り替え、わきの下と背中の汗を適当に拭いてから彼女は再び横になる。  固めに炊いた粥が胃に残るのを感じながら、それでも薬が効き始めたのか程なく意識が途切れ、  えりかは夢を見た。  夢の中で幼いえりかは幼い隆と一緒に暮らし、ふたりは血のつながった正真正銘の兄妹だった。 (うう、勿体ない)  それが夢だとえりかは自覚していたが、夢の中の隆は現実のそれより二割り増しで優しく、いつも一緒にいてくれた。父と母が仕事に出かけたとき、独りで待っていた冷たい家の中に隆が一緒にいてくれた。  一緒に絵を描いて、本を読んで、おままごとの相手にもなってくれて。幼いえりかは、寂しかった時間を隆との思い出に置き換える。父と母が別れた日も、幼い隆がえりかを守ってくれる。寂しくて寂しくて、それでも虚空を掴むしかなかった彼女の手を握ってくれるのだ。 (……ずっと一緒に)  ありえない話だと分かっていても、えりかはそれにすがりたかった。現実の隆と出逢ったのは数ヶ月前で、それまでえりかは母と娘という家庭だった。寂しかった頃に、誰もいない部屋に彼女と共に暮らした隆は幻影に過ぎない。  わかっていた。  過去は決して覆されることはない。隆は学校に出かけている、そこにはガールフレンドの夏木紅葉もいる。義兄を独占できるのは、自分ではない。その現実を認めるのが嫌で、えりかは涙を流す。 「隆……おにいちゃん」 「うん」  熱にうなされて出た言葉に、即座に返って来る言葉。虚空を掴んでいたはずの手が、ぎゅっと握られる。 「おにい、ちゃん?」 「悪い。起こしちゃったかな」  声は直ぐ耳元に。  重く貼りついていたまぶたを開くと、隆の顔が直ぐそばに。正確に言えば、えりかは隆の腕枕で眠っていた。上半身も下半身も二人の身体は触れ、えりかの発熱が隆の身体に触れることで吸い取られるような、そんな錯覚もあった。人肌の温もりが、熱に冒されたえりかの身体を癒すようでもある。 「ど、どどどどど」  どうして?  寸前までの朦朧とした意識など吹き飛んで、えりかは同じ布団の中の義兄を見た。隆は、今更ながらに己のした事の大胆さに恥ずかしくなったのか視線を逸らせつつ、わざとらしく咳払いなどしてみせる。 「ひどい熱の時はさ、こうやって添い寝してもらったんだ……僕の場合だけどね。小さい頃はさ、夜中に気持ち悪くなって吐いたりしたし、汗をこまめに拭く必要もあったんで父さんが一緒に……だから、注射とか座薬とか使う前に。その、何にもしてないから」 「……それはそれで、屈辱だよ。こんな可愛い子が据え膳状態で寝込んでるのに何もしないなんて」  熱のせいか、あるいは恥ずかしかったのか。真っ赤になった顔を隆の胸元に埋めるえりか。とりあえず、隆を拒む意思はない。あるはずがない。 「熱も下がってきたみたいだし、今日はもう大丈夫かな」  呼吸がすっかり落ち着いたのを見て、隆は布団から出ようとした。ここまで来れば添い寝する必要もないし、夕食を食べさせた方がいいと判断したからだ。  が。  えりかの手が、それに脚が、隆の身体に絡みついたまま動かない。ほぼ無意識にえりかは密着姿勢となり、隆を逃すまいとする。病人の筋力故に解くのは困難ではないが、邪険に扱えるような隆ではない。 「あのー、えりかさん」 「寒くなるから、いや」 「桃缶買ってきたんだけど」 「こっちの方がいい」  ぎう、と。  身体の全てを押し付けるように、えりかは隆の存在を感じ取って、その感触に安心する。すうすうと寝息を立てる義妹に隆は安堵の息を漏らすものの、身体中に押し付けられる柔らかなえりかの感触に、隆は眠れぬ夜を過ごす破目になった。