三度目の変態を迎える前、村上アキラは養父である文彦を前に元気よく宣言した。 「ぱぁぱ。アキラおとなになったら、ぱぁぱのお嫁さんになってあげる」  数日前まで赤子だっただけに、無邪気な笑顔である。悪意も他意もあるはずがない。 「あしたには、おとなになるからね。そしたらアキラ、ぱぁぱのお嫁さんだね」 「駄目っすよアキラさん」  外見十四歳の少女の宣言を即座に否定するように、ベル七枝が割り込んでくる。 「お師匠はワシントン条約で規制されるような方ですからね、いかにアキラさんが迂闊に結婚宣言しても、お師匠の子種汁だけでもいいから高値で取引したがっている国際機関が黙っちゃいないんですよ。だから国際法上問題のある結婚宣言よりも、世界貢献に多少は繋がるかもしれない肉奴隷の方がステキです」 「わかった。じゃあアキラ、ぱぁぱのにくどれいになるね」  十四歳程度の少女は恥ずかしげもなく、それどころか誇らしげに胸を張る。 「ベルおねえちゃんも、ぱぁぱのにくどれい?」 「どちらかといえば、お師匠がわたしの肉奴隷」  ベッドの上で喘ぐお師匠ったら普段からは想像もできないくらい可愛い声なんですよ、と真顔で少々頬染めながら詳細を説明するベル。わかっているのかわかっていないのか、どきどきしながら何度も頷くアキラ。 「アキラもぱぁぱにまけないくらいかわいいこえであえぐね」  数分後、前後の事情を知らずアキラの屈託のない発言のみを耳にした三課犬上支局の女性有志数名が、血涙を流して突っ伏している文彦を袋叩きにした。教唆した立場であるベルが私刑執行人としてちゃっかり加わっていたとの報告もあるが、文彦が被った心身の傷の大きさを考えれば誤差の範囲と言えた。  影法師村上文彦 A−KILLER  告死行進曲が鳴り響く。  銃声、悲鳴、絶叫、そして生命が肉塊と成り果てていく過程に生じるありとあらゆる種類の音が複雑に絡み合い、無慈悲な静寂へと収束していく。  いいや。  違和感があった。生あるものがないはずの空間に、動くものがある。折り重なった亡骸の山が少しだけ崩れた。最初それは単なる崩落にも思えたが、二度三度の振動を経て、屍の塊がごそりと動く。  風船。  最初の数秒は、そんな印象さえあった。屍を取り込みつつ無制限に膨張を始める肉塊。かつて神楽と呼ばれた男がそうだったように、肉塊は膨らみ続けた。違いがあるとすれば、その拡大が神楽の時よりも数段速いことだった。僅か数瞬で音の壁を越え、なお勢いは止まることもなく、増殖は加速し続けていく。  肉海は縦にも横にも広がり、無数の絶叫と怨嗟を生み出していく。膨張する先端は空気との摩擦で灼熱の津波となり、衝撃波と共に空陸海に存在するありとあらゆるものを破壊して飲み込み、同化する。  最初の虐殺を行った連中など、既に肉片と化して取り込まれている。殺された者たちの国も、殺した者たちの国も、今や一片の土くれさえ残ってはいない。肉塊は海であろうと山であろうとお構いなしに拡張し、そこに存在する全てを飲み込む。音の速さを越えて既に数秒、その勢いは人類が目にするものの内では二番目に早いものとなっている。既に人類の全ては肉海に飲み込まれ、その拠り所となるべき大地も消えていた。直径三十八万キロの球形惑星は中心核に到るまでが侵食した肉の海に飲み込まれて同化している。  今や肉海は衛星軌道上に存在した無数の人工物や隕石小惑星を取り込み始め、双子のように回転し続けていた月さえも数瞬で飲み込んでいる。  加速する増殖。  限りなく光速に近しい勢いを獲得し、それでも勢いは止まらない。物理学者が生きていれば絶叫を上げたに違いない。肉海は、影法師が以前マノウォルトと呼んだ存在は、世界の律より外れていた。それどころか肉海が膨らむごとに、世界は世界であるための律を失い、単なる混沌に還ろうとしていた。その混沌もまた膨れ上がる肉海の如く増殖を始め、やがて世界そのものが、肉塊と同化した。  時間も空間も意味を喪失した世界、その中心に小さな小さな結晶があった。  緑青にもにた色彩の、握りこぶしほどの結晶体。世界を肉海で満たし、初めて得られた小さな結晶。  因素。  究極にまで圧縮されたエーテルの結晶。魔力の絶縁体にして究極の増幅物。肉海が全てを満たした世界の中で、その結晶が唯一無二の異物だった。  凛。  空間が歪む。因素の周囲の空間が陽炎のようにゆらめき、あるはずの無い人間の手が虚空より伸びて因素の結晶を掴もうとする。  凛。  空間の歪みは拡大する、腕だけではなく上半身も現れたそれは、彫刻や絵画に遺されるものに酷似していた。違いがあるとすれば、それはあまりにも生々しい人としての感情をむき出しにし、我欲を隠そうともしていない様にある。  神。  なにかが叫んだ。  膨張することしか知らぬはずの肉海ではない、別のなにかが叫んだのだ。なるほど、それは確かに神の造作に酷似してはいる。神と呼ばれたものは驚きはするが、因素の結晶を手にするや用済みといわんばかりに空間の歪みを閉じて消えた。残されたなにかは神の名を呪い、絶叫した。  それは絶望と絶叫に我を失いながら、世界そのものと肉海を消滅させると三つに分かれて消えた。 「――ッ!」  視界が反転する。  夏の暑さとは別の汗が、全身からふき出している。  月明かりで濁った夜の闇、星と満月の光が差し込む窓の灯りに、自分ともう一人の影が浮かぶ。 「……夢、なんかじゃない」  せめて額に浮かぶ汗だけでも拭おうと、村上アキラは手の甲を己の顔に押し当てた。  拭うより先に汗の粒が流れ落ちる。夏の暑さが厳しい土地とはいえ、彼女が父と共に眠る部屋は不快な暑さが無い。  エアコンを好まないという文彦が部屋の中に施した仕掛けがあるらしいが、それがどのような仕組みでいかなる術式を用いているのか、アキラにはわからないのだ。  寝苦しい熱帯夜のはずなのに、この部屋だけは春の野原にいるかのような心地好さで満たされている。五行の律を少しでも理解していれば簡単にできる術式だと父は言うが、五行の術式に通じた者はそれほど多くはないし、通じている術者に聞けば「馬鹿馬鹿しくも贅沢な使い方だよ」との返事が来る。  結界を生み出す術式の一種、限定された空間内部の五行を操り最も好ましい環境を生み出した。言葉を並べるのであれば、それだけの話だ。しかし限定的とはいえ世界を創造するに等しい術式の存在に、アキラは驚愕していた。「彼女の持ち込んできた知識」にある限り、規模の大小あれどそのような真似ができるのは神性に連なるものだけである。  だが、この地では違う。  異形と呼ばれるものたちは獲物を捕らえるために結界と呼ばれる閉鎖空間を創造するし、術師の中にもこの結界を術式に応用して異形を封じ込めるものが少なからず存在している。  そして世界を満たす死と怨嗟の濃密さ。  新聞を読みテレビを見て、父の勉強部屋に並ぶ教科書や雑誌書籍に目を通して、それだけでは物足りずに父の記憶の一部さえ覗き見る破廉恥なことさえして理解した、この世界の有様。  なんという、死に祝福された世界。  彼女の知る他の世界と同列ならば、おそらく数千年前に滅んでいても不思議ではない。  彼女を驚かせたものは他にもある。養父文彦がアキラに魔力を供給するために絶えず身につけている黄泉道反剣、三叉山の霊脈より溢れ出る魔力を収束制御できる法具である。緑青にも似た色彩を持つ古式の直剣は、まごう事なき因素の剣だった。魔力の絶縁体であり同時に究極的な増幅装置でもある因素は、マノウォルトと密接な関係がある。アキラは、因素がどれほど珍しいものなのかを理解している。わずか拳大ほどの因素結晶を獲得するために世界をひとつ、躊躇なく滅ぼす輩を知っている。  黄泉道反剣は、とても純度が高く、どても量の多い因素結晶だ。これだけの因素を他で集めようとすればどれだけの世界が犠牲になるだろう。どれほどの世界がマノウォルトに飲み込まれなければいけないのだろう。アキラは、父の枕元に置いてある剣を手にした。彼が、かつて思いを寄せた女性より託されたという、その武具。因素という特性を考えれば武器である必要などどこにもない、それなのに黄泉道反剣は殺傷道具としての機能を十分に考慮された造りをしていた。  刺す、突く、薙ぐ。  古式ではあるが、人が振るうには頑丈すぎるきらいもある。切り裂くには刃は分厚くて、下手な鉈よりも大きい。人間の膂力では刃の鋭さのみで皮膚一枚切り裂くのも難しいだろう。人によっては鈍器と表現することさえできる、突き刺すか薙ぎ払う以外に使い道の無い刀剣。  だが人間の規格を超えた者が振るうならば、人間の規格に当てはまらないモノに対して振るうのであれば、意味を持つのかもしれない刃。そもそも魔力の絶縁体である因素をこのような形状に加工する技術さえ、アキラは知らない。  いったい誰がこの剣を鍛えたのだろうか。  父の記憶より知れたのは、所有者に関する記憶だけである。文彦より引き出した記憶も、彼の全てではない。  彼自身あるいは何者かの手によるものなのか、文彦の記憶や精神は術式によって幾重にも封印が施されていた。人間の術師として生活する上では十分だったが、魔人と呼ばれる彼が犬上の街で村上文彦として生きるためには必要な処置なのだろう。半身喪失を強いられているのは想像を絶する苦痛だろうに、文彦はそれを顔に出そうとはしない。  仙位を許されたほどの術師。  かの華門は父をそう評価していたではないか。規格外の術師だからこそ因素剣の所有者として認められ、無尽蔵に等しい霊脈の力を引き出してアキラに与えてくれたのだろう。普通の場所であれば彼女は必要とする精気を得られずに自滅するか、そこに住まうあらゆる生命の気を奪いつくす鬼と成り果てていた。彼女にとって村上文彦という術師に拾われ精を受けたのは、この上ない幸運といえた。  幸せなる偶然。  本当にそうだろうか? 彼女が、数分前まで村上アキラだった少女は、明らかに何者かの意思を受けて今の身体を手に入れた。導かれ、こちらが抵抗する暇などなく、彼女は村上アキラとして誕生していたのだ。人間でありながら人間を超越したヒルコの肉体、それは彼女が望む性能を十分に発揮できる素晴らしい身体だった。普通の人間の精神ならば身体能力に振り回されて破滅するだろうが、彼女は元々内面こそが規格外だった。  普通の人間に転じていれば、長ずるにつれて脳死していたか、己の魔力に押しつぶされていたに違いない。今の身体に導いたもの、そして養い親として村上文彦を指定したもの、それこそが全てを知り彼女を現在に導いたものではないのか。 (だとすれば、彼は私が何者なのかを理解した上で、その力が育つのを待った)  仙位を許された術師を敵に廻すことさえ躊躇せずにだ。  華門と父が呼んだ男。  彼女から見てもバケモノとしか言いようのないものが存在しているのだ、この世界がもつ許容量は底が見えない。死に祝福され何度もマノウォルトが生まれながら今もこうして続いている世界、なんと不安定でなんと逞しいのか。人間が生み出す欲望と衝動が幾度となく物質的な形となっていながら、それに飲み込まれもせず今日に到った世界。この世界と彼女の知っている世界との間には何処になんの差があるというのだ。  もう少し余裕があれば、彼女は真実を知るために努力することもできただろう。  しかし既に時は来ていた。三度目の変態を前に、彼女は先に精神と記憶が整ってしまった。術師が近親交配により生み出したヒルコという生物兵器ではなく、影法師に育てられた村上アキラという少女でもない、別の存在としての精神と記憶だ。もちろんアキラとしての記憶や人格も残した上での覚醒ではあるが、以前のように振舞うことは無理だ。 「……おとうさん、因素の剣を少しの間だけ借ります」  わずか数日とはいえ父より受けた御恩、生涯忘れません。  いまだ眠る父の枕元で膝をつき、心底申し訳なさそうに彼女は頭を下げた。かすれるように搾り出した声は半日前までの無邪気なものではなく、低く唸るようだ。彼女は立ち上がると寝間着を捨て、黄泉道反剣を握り住めると闇にとけるように姿を消した。  凛。  空間が軋む、鈴のような音色。  ひとりしかいない部屋に鳴り響き、しばらくして文彦は閉じていたまぶたを開いた。 「お父さん、か」  アキラのそれは追い詰められた声だった。  それでも父を巻き込むまいと決意する声だった。 「お父さん、だもんな」  凛。  再び鈴のような音が響き、文彦もまた闇に消えた。  三狭山。  その遺跡は犬上の街で交叉する霊脈を制御するために建てられたというのが術師たちの共通認識である。その認識は大方の意味で正しく、別の意味で違っている。  三狭山よりもたらされる霊脈の力は、犬上の街の異形たちに安定した精気を供給し、同時に市街地での感知魔術をある程度妨げている。 (なるほど、特異点都市と呼ばれるだけはある)  かつて犬上の地を訪れた誰かがそう評した。  人が住まう上で可能な限りの影響を排し、それでいて異形たちに安住の地となりうるよう配慮された霊脈の要。この地にいる限り、たとえ影法師でも異形や術師の居場所を探ることは難しい。 (その中でも三狭山はもっとも魔力の密度が高く、安定している)  三狭山の中腹にある巨石を組んだ遺跡の前で、村上アキラは立っていた。  ウェットスーツに似た、身体に張り付くような衣服で首から下を包んでいる。金属光沢さえ帯びている布地は、月明かりに真紅の輝きを返していた。因素の直剣は同じ材質の腰帯に差し、アキラの力に反応してか淡い光を帯びている。 「力を」  呪でも願いでもなく、アキラはその言葉を口にした。術式ですらない単純な呼びかけだったが剣は反応し、三狭山を交点として収束する霊脈の力が彼女の内部に炸裂した。生身の人間であれば一瞬で魔族と変え、制御したとしても身体構造の変化は避けられないほどの量である。  凛。  身体が変化を始める。  中学生程度だった小柄な骨格は成人女性のそれとなり、身の丈も頭一つ分だけ高くなる。背中まで伸びていた髪は膝に触れるほどにまで伸びる。普通の人間でさえ成長期には骨の軋みや筋肉の伸長で苦痛を訴える者が多い、まして数年分の身体変化を僅かな時間で完了させようというのであれば、全身を襲う激痛は常人に想像できるものではない。成長痛は誰しもが経験するものではあるが、これほど激しくもない。己自身を抱きしめるように腕を廻し、かきむしるように爪を立て膝をつく。膨大な量の魔力が物質化して、細胞増殖の糧となり、あるいは細胞そのものを模していく。  変化に要した時間は、ほんの数分。  一秒でさえ正気を失いかねないほどの激痛だから、意識が残っていたのは驚愕に値する。精神の糸をつなぎとめていたのは、蛭子としての素体の強靭さと、アキラがアキラであるための記憶。霊媒の類でさえ公には認めようとしない前世なるものに近しい情報が、今を生きるはずのアキラの精神と肉体に影響を及ぼしているのだ。  執念。  いやさ、怨念とも呼ぶべきもの。  彼女を彼女たらしめているもの、村上アキラとしての情報に干渉するように存在する、滅びた世界の記憶。マノウォルトに飲み込まれた世界、それを救うこともできず滅ぼすことしかできなかった世界での記憶。ひとりのものではない、数え切れないほどの知性体が怨嗟の声となって彼女の心へと強力に訴えかけているのだ。  殺せ。  神々を殺せと。  果たしてそれが本当に神々なのか確かめる術など彼女にはない、しかし世界に滅びをもたらした者は間違いなく神々の名を口にして、それに近しい姿で現れたではないか。ならば本物であろうと偽物であろうと、全てを滅ぼせばいい。怨嗟の声は彼女の内面で繰り返し叫んでいる。 (全てを滅ぼせだと)  ぎょっとしてアキラは我に返る。未だに身体を蝕む激痛さえ忘れて上体を起こし再び立ち上がれば、虚空へ向かって吼えた。 「私を愚弄するか! 赤帝が一柱たる、この私を!」  凛。  吹き上がる魔力が風となり、風が撫でたもの全てが結晶と化す。金剛石にも似た結晶は内側より眩く輝き、そこに潜んでいたものを浮かび上がらせた。 『侮っていたことは認めよう』  凛。  羽音が三狭山に響く。銀灰色の光沢を帯びた、漆黒の翼。それを背負った美丈夫がひとり、ダヴィンチの絵画より飛び出してきたかのように神々しい雰囲気を漂わせている。濃い藍色の甲冑が上半身を覆い、ゆるいウェーブを帯びた金色の髪が流れている。腰に差す長剣は十字の紋章が誇らしげに刻み込まれ、信心深いものであれば跪きその足に接吻していたとしても不思議ではない。  天の御使い。  半端に知識あるものならば、涙を流し歓喜の叫びを上げたに違いない。しかし御使いを睨みつけるアキラを支配するのは憤怒の激情であり、因素剣を杖代わりにして立つ身とは思えぬほどだ。視線に毒があるのならば、その毒をもって息の根を止めている。そういわんばかりの敵意を御使いに向けている。 『我が犯した過ちは三つ』  剣の届かぬ間合いに降り立ち、御使いは金髪をかき上げるようにして首を振り周囲を一瞥する。御使いにとっても初めて訪れた地のようで、様々な感情――好奇心と憐憫の情――をほんの少しの間だけ浮かべて後に、やはり慈悲の塊とも言うべき柔和な笑みに戻る。 『一つは、貴様達の魂がこの世界に召喚されたのを察知するのに、予想外の時間をかけてしまったこと』  召喚という言葉に、アキラが反応する。  御使いは薄目を開けて興味深くアキラの様子を眺めるが、それだけだった。 『二つ目の誤算。それは貴様達の成長が尋常ならざる速度で果たされたこと』  前の世界では二十余年の歳月をかけてなお今よりも育つことはなかった。  懐かしむように御使いは呟き、鞘より金色の長剣を引き抜く。刀身は赤色の電光を帯び爆ぜる音が夜の三狭山に吸い込まれる。引きずるように地面を切っ先が走れば、軌跡に沿って土くれも小石もまとめて溶岩状に熔けた。人肌に触れれば痛みを感じる間もなく灰と化す高温を、金色の剣は発している。 『三つ目の誤算、すなわち貴様達が招かれた世界が我々の捜し求めていた古戦場のひとつだったことよ。おかげでおびただしい量の因素を埋蔵していながら、マノウォルトを仕掛けて全てを奪いつくすことが困難だ。侵略する価値ある大地ではあるが、その存在自体を我らは認めぬよ……貴様の手で破滅させたかったのだが仕方あるまい。貴様を始末した後、ゆっくりと世界に裁きを与えよう』 「神の眷属を自称するだけの異界人が」  不安定な膝に力を込め、アキラは因素剣を構える。  凛。  再び空間が軋み、赤色金色の輝きが闇に生まれる。その数、実に百と八。御使いの姿によく似てはいるが、羽根は白く、身につけている鎧は皮革をなめし固めたものである。剣の意匠もまた大量生産されたものなのか、鍔や柄の造作に到るまで画一的な仕様で、だからこそ赤色の電光を発する金色剣が恐ろしく思えた。  因素剣はアキラに魔力を供給するが、周囲の魔力を絶縁することはない。絶縁されてしまえば紅雷を止めることは可能だろうが、代わりに金色の剣がアキラの全身に突き刺さる。その様を見て御使いは恭しく剣を掲げ、宣言した。 『我ら天軍を貶める発言、それだけでも万死に値する』  黒翼の御使いではない、控えていた白翼の御使いが三体、スズメバチのような羽音を立てて突進する。腰だめに構えた金色剣は猛毒の針を思わせ、螺旋を描きながら三方より迫るため翼を持たないアキラには逃げ路がない。  アキラは驚かず退きもせず、因素剣を逆手に握り直し、空いた左手をもって虚空を切る。凛という音が鳴れば、百合の紋章にも似た紋様が宙に四つ浮いてアキラを中心に三角錐を形成する。突っ込んだ御使いたちは三角錐の面に触れるや全身より紅雷を発し、悲鳴を上げる間もなく消滅した。 「忘れたか、私は赤帝が一柱。私が生み出す赤帝の盾は、獣の王より加護なくば突き破ることは不可能――マノウォルトの侵蝕さえ防ぐと」 『赤帝本体より魔力を得なければ発動できぬと思っていたが、地脈の力を吸い上げて代わりに充てたか。幽鬼王の暇潰しにしては、小癪な真似をする』  赤帝の盾。  それが村上アキラの身中に宿るものの正体だった。人間ではなく、生命という規格にさえ当てはまらない存在。その出自を問いただすのであれば、いま彼女が掲げる黄泉道反剣と同質とも言える。霊的な格を得てしまった法具。文彦たちがマノウォルトと呼ぶ存在を狩るために生み出された武具、赤帝の一柱。本体を構成する法具としての本質は喪われて久しく、人間の魂と同化することで霊的な力としてかつての能力を発揮する。もっとも、三柱ある赤帝武具がひとつに集わなければ、その機能は発揮されないはずだった。 「定まった形を失い武具としての性能は劣るかもしれないが、人としての生を得たことで私は進歩することができる」 『人としては、そうかもしれんな』  呆れているのか感心しているのか、御使いは攻めも退きもせず間合いを維持している。背後に控えている御使いたちも同様だ。少なくともアキラ個人を襲い打ち滅ぼすのは、御使いたちの実力では難しいと理解できたのだろう。  だから、彼らは灼熱の剣を全ての方位に向けた。金色剣より放たれるであろう紅雷は街を焼き払い、住まう人々を熱と光で苦しめて殺す。一息に命を奪うのではなく、決して助からないものの、時間をかけて絶望怨嗟の四文字を心身に叩き込むのだ。たとえ一撃でマノウォルトを生み出せずとも、強力な欲求や衝動がおびただしい量の魔力に触れれば、両者の交わりが最悪の結果をもたらすこともある。 『いかに完全体に近しくなり圧倒的な量の魔力の供給を得ているとはいえ、近隣全てを守れるほどの能力は発揮できまい? ならば、まずは貴様に絶望を与えてやろう』  初めて、感情が生まれた。  超越したものとして御使いが浮かべていた微笑が、ひどく残酷でひどく醜悪な歪みとして。  アキラはすかさず踏み込んで、自らの持てる力の限りを剣に込めた。棒杖を振り回すように薙げば、人間の限界のはるか先に存在する圧倒的な筋力が分厚い刃に強烈な負荷を与える。人の力では鈍器でしかない角度の刃が、わずか数瞬で、空気を切り裂く速度が音のそれに達し、圧縮され逃げ場を失った空気が灼熱する瞬間に強烈な鋭さと爆発力を獲得する。そして音速の突破。  衝撃波と共に放たれる剣圧は、視界にある二十の御使いを爆風もろとも吹き飛ばす。御使いを殺傷するには到らないが、構えていた金色剣を取り落とさせ、軽微ではない負傷を与えるには十分すぎる威力の一撃。行き場を失った紅雷は放たれることなく剣と共に消滅する。こうして地面を削るような勢いで繰り出す斬撃が、繰り返されること三度。  三度の斬撃が、一呼吸で打ち出された。  紅雷で犬上の街を焼き払おうとしていた天使は、半分以上の武器をあっという間に喪った。しかし残り半分は健在である。これが戦場であれば全滅と称して引き返すこともあるが、敵は神を自称するものの眷属である。残り五十八で目的が達成できるのならば、その犠牲を省みる必要もない。  それでも御使いは大げさに驚いてみせた。 『ほう』  あるいは賞賛の言葉か。 『力任せという以外に説明のつかぬ粗野な攻撃、しかし芸術的な域に達している。貴様の力も、その剣も。どのように鍛えれば、そのような無茶な扱いに耐えるというのだね』  因素の剣は、黄泉道反剣は無事だった。  そう扱うことが本来の目的であるかのように、刀身は輝いてさえいる。因素剣を通じて流れ込む圧倒的な魔力が、単なる衝撃波にさえ物理限界を突破する「律」が組み込まれているのかもしれない。 『個人の決闘ならば、貴様の勝ちだ』  評価は正当なものだ。  もしも個人に狙いを、黒翼の御使いに限って斬撃を集中していれば、その威力は御使いを根本より消滅させていた。人が鍛え磨いた技術の及ばぬ領域で生み出された、ある意味で野獣のそれと変わらぬ闘争の一撃は不死性を宿した異形にさえ滅びを与えうるものだ。  個人と個人の戦いであれば。 『しかし我らは戦争をしているのだ、はるかな昔からな。一兵でも生き残り目的を果たせば、それが我らの勝利だ』  理解していた。  敵も、アキラも。これは騎士道に乗っ取った正々堂々たる決闘ではない。どんな手段を講じようと生き残り目的を果たすための戦闘である。より大きな意味で考えれば領土を拡充し資源を貪るための侵略戦争であり、そこに外交という言葉が関与する余地はない。相容れぬ主義主張を抱えたモノ同士による殲滅戦ですらない。  きわめて原始的で、きわめて単純で、きわめて明快で、だからこそ救いようのない理由と衝動に基づいて、御使い達は数え切れぬ世界に送り込まれている。誰が御使いに命令を下しているのか、それさえアキラは知らない。彼女は赤帝の一柱として様々な世界をわたり戦っていたが、彼女の戦う場所――世界が肉海に飲み込まれつつある場所に神々を自称する連中が現れたことはない。 『あと三撃。一呼吸の内にあと三度の斬撃を生み出せれば、貴様の勝利だった。勝てぬまでも、相討ちに持ち込むことはできただろうな。貴様が赤帝盾ではなく赤帝剣であれば、確実に我らは敗北していた。  これが天命だ。  貴様は己が生まれ育った場所を喪失し、その上で我ら天軍に討ち滅ぼされる。神々の裁定に逆らうものに生の祝福などありえない』  数十の御使いたちは紅雷を帯びた金色剣を街に向けて振り下ろし、  次の瞬間、  跡形もなく、  木っ端微塵に、  吹き飛んだ。  黒翼の御使いは見た。  最初に訪れたのは、閃光を帯びた弾丸だった。高速回転と共に撃ち出された弾丸は細長く硬質で、表面には術式を施された石英が埋め込まれていた。光の軌跡が螺旋を描けば複雑な術式文字が宙に生まれ、それが弾丸の速度を倍化させる。さながら電磁加速された粒子のように、発射された五発の弾丸はそれぞれ御使いの眉間を打ち抜いた。  次に訪れたのは、風だった。音よりも早く訪れる破壊の風が十の御使いを飲み込んで塵に還した。風は紅雷の全てを飲み込み、金色の剣もろとも虚無の中に取り込んで消滅した。黒翼の御使いは己の翼を大きく広げて風を起こし立ち向かおうとしたが、訪れる風は御使いの羽ばたきをすり抜けてゆく。 (虚無に至る風だとっ!?)  それの意味するところを知り、黒翼の御使いは叫ぼうとした。次の攻撃が来たのは、その直前だった。  地を這う雷。  そう表現するより他にないものが、三狭山の斜面を駆け上がり十五の御使いを飲み込んだ。帯電は僅かな時間だったろうに、御使いたちを構成するもの全てが蒼い雷に飲み込まれて消える。  音は、まだ訪れない。  最後に現れたのは、火の玉だった。無数の小火球を衛星のように周囲に従えた人間サイズの流星が突っ込んでくる。残る御使いたちが羽ばたいて逃れるよりも早く、炎は紅雷を吹き飛ばし、小火球群は御使いたちの胸板を貫いていく。爆音は、それら全てが訪れてから三狭山に響いた。  轟音としか形容できないもの。  熱風を伴い木々を山を震わせる音は、魔力収束による鈴にも似た音色をかき消すに十分な量を持っている。空間を越えて呼び寄せた百八の眷族を喪失した黒翼の御使いは、自己を保護するために持てる力を集中させたため、アキラの周囲に生じた気配を察知するのに数秒の時間を要した。反響する轟音。あれほどの雷や炎であれば三狭山の木々全てを焼き払っても不思議ではないが、灰燼に帰したのは御使いの眷属だけである。  凛。  黒翼の御使いは吼えた。  戦いは数である。  そこに圧倒的な実力差があれば、確かに能力は数を圧倒できる。ロケット花火を何万本発射しても戦車を破壊できないように、多くの世界において御使い達の能力は絶対的な威を発揮していた。しかしながら純粋な存在意義を考えれば兵隊であり、物量をもって作戦を組み立て侵略するものである。真に敵対する相手を見出した時、たとえば彼らの仇敵であり最終攻略対象である「獣の王」の前では御使いたちは消耗品でしかない。  黒翼の御使いは吼えた。  たとえ有象無象に扱われる下級の眷属たちとはいえ、この世界においては数の論理を覆す力を秘めているはずだ。どれほどの魔術文明が発達していようとも、神の僕たる自分達を簡単に倒す術はない。不完全体とはいえ仮にも赤帝武具の一つが全力を尽くしても滅ぼしきれなかったではないか。  それが。  それが。  それが!  黒翼の御使いは吼えた、自身の尊厳と存在を守るために。絶叫が術式となり、百八の数倍に達する眷族を虚空より呼び出す。彼が配下として抱えている眷族全てを率い、その威をもって敵対するものを倒すのだ。獣の王を相手にする時でさえ、自分達は数の論理で立ち向かうことができるではないか。ならば、どのような相手であろうとも数の暴力で対抗できぬはずはない。夜空を埋め尽くすほどの配下を召喚した黒翼の御使いは、絶叫の果てに号令を下す。  いまだ姿も定まらぬ敵を討ち滅ぼせと。あぶり出すために街のすべてを焼き払えと叫ぶにいたり、それらは黒翼の御使いの前で姿を見せた。  紅と蒼。  それらは人という形を保ってはいたが、人にあらざる部分を多々有していた。紅の異形は猛禽の翼を背より生やし、鉤爪を連想させる手甲足甲を装着している。いや、装甲は全身に及ぶ。炎よりなお赤い紅の衣服を覆うように、光沢のない深紅の装甲がある。目元を隠すバイザーと頬当ては半透明で、猛禽の意匠が施されていた。ポニーテールに結い上げた金茶の髪が、僅かに揺れる。 『我は東方魔王が一臣、紅きハヤテ』  僅かに落としていた膝は、跳躍のための屈伸であった。ベル七枝の身体を素体としながら融合を果たした猛禽の異形は、素体が持つ炎の元素魔術に己の風を組み合わせ、互いの力を幾倍にも増幅している。折りたたまれた翼は蓄えた力の大きさを示し、一瞬後の跳躍に伴い生じた炎の竜巻は密集した御使い達を巻き込んで燃え広がっていく。  凛。  そこに留まる蒼は、雷を帯びた狼だった。いや、それも違う。ハヤテがそうであるように、そこにいる娘もまた狼のごとき甲冑を身に帯びている。  甲冑?  それも違う。黒翼の御使いは理解している、あれは人と異形の交わった姿なのだ。一つの生命として解け合うのであれば戻ることも出来ず、融合した人格は遠からず崩壊を導く。異形を取り込みつつ、あくまでも独立した力として存在するために、あの姿は存在するのだ。 『同じく東方魔王が一臣、蒼きジンライ』  凛。  桐山沙穂を素体として出現したジンライの手には、長銃身の得物が抱えられていた。術式処理を施されたそれは、並の銃ではない。形こそ対物狙撃銃に似ていたが、その素材からして別物だった。  金鉄。  彼ら神の眷属が、因素と並び求め続けている素材である。そして撃ち出される白色の弾丸は、彼ら御使いにとって致命的な「律」を直接叩き込む代物だ。この世界の住人を攻撃する上では意味を持たず、異界からの来訪者にのみ致命打を与える武装。それが雷と闇を伴って次々と撃ち込まれていく。照準から発射までの時間は瞬く間ほどもなく、この重く長い狙撃銃を振り回し高速で駆けながらも、照準は一切乱れない。  わかっていた。  黒翼の御使いは理解していた。  これは、この世界独自の術式ではない。この術式は外よりもたらされたものであり、それがこの世界で発展したものであると。御使いは、これに似た存在を知っている。 (恐るべき獣、その王者。あるいは眷属が、この世界に既に来訪しているのか)  もはや疑念ではなく確証である。ハヤテとジンライの力は、異界から来訪するものを討つために特化した力ではないか。そのままでは世界の何割かを滅ぼしかねない力は、出現したマノウォルトを瞬時に処理するための力でもある。ただでさえ発生し難いものに対して、迅速に対処できる世界としての防御機構か。 『……数では、勝てん!』  黒翼の御使いは即座に己の失策を理解した。ほんの数秒、ぎりぎり致命打とならぬ時間である。躊躇はしなかったが、見渡す間に百を越える配下の下級御使いたちが消滅していた。ほんの数秒である。一呼吸でどれほどの部下が倒されるのか数えることもできない。 『一つとなれ、世界を飲み込む暴獣と化せ!』  怒号。  御使い達の反応は早い。彼らは空間跳躍を繰り返して一点に集まり、混沌とした肉塊となって融合していく。ハヤテとジンライは力を解放してそれを崩そうとするが、盾となる御使い達を吹き飛ばすだけに留まった。ふた呼吸の後、混沌とした肉塊は別の姿を得た。翼を持った凶暴なる鯨、その顔は猛獣のものであり鋭い牙を無数に生やしている。黒翼の御使いは転移すると巨獣の頭に乗り、その威をもって三狭山ごと全てを飲み込んでしまおうとした。  その時になって察する。時間にすれば十秒かそこら、人であれば一度の打ち込みを経て呼吸を整えるまでの僅かな時間である。その間に現れたハヤテとジンライの威に御使いは恐怖して力を整えたが、彼らが本来相対すべきものは別にある。本命、すなわち赤帝盾の化身であるアキラの姿がどこにも見当たらないではないか。 『ようやく気付いたか』  雷を発し雲を蹴り、ジンライが吼える。 『我らの力でも十分蹴散らせるが、それが主命ではないのでな』 『まずは時間を稼がせていただいた』  両翼より深紅の炎を噴出しながら、ハヤテが並ぶ。  黒翼の御使いは歯軋りをして悔しがり、剣を突き出して巨獣を暴れさせた。  命令は至極単純なものだった。 「五十秒でいい、あいつらを引き付けてくれ」  雲霞の如く湧き出る御使い達を遠くより示しつつ、村上文彦は当たり前のように無茶を言った。  相手は己の弟子であるベル七枝と、単なるクラスメイトでは飽き足らない関係らしい桐山沙穂である。二人は前日に新しい配属先――今度は存在自体を疑われている一課である――に転属する旨を告げられて、それが文彦の子育てに悪影響を及ぼさぬためだと知って少々不貞腐れていた。アキラそのものへの敵意はないし、文彦に対する人間的な好意は今もある。失せ気味なのは異性としての認識であり、しかしそれは気持ちが落ち着いたという表現の方が正しい。思慕の情というよりも、生死をかけた状況での連帯感に満足する時もある。なにより術師という稼業に手を染めていては、恋愛を楽しみ悩む余裕はあまりない。  だから、返事もそっけなく行った。  できうる限り感情を排して、ひとりの術師として影法師の要請に返答した。 「無理無理」「中身はどうあれ、見た目は天使じゃないっすか」  二人の返事ももっともである。  その上で文彦は、もう一度言った。 「アレは天使の姿をしているけど、ただのコスプレだから。在来の異形じゃないから三課じゃあ正式には動けないけど、一課だったら十分に排除対象なんだ」 「……お師匠、そもそも一課ってナニをするんですか」  地元の警察が野次馬やマスコミを必死に押さえ込もうと駆け回る対策本部の片隅に、彼らはいた。時折聞こえてくる歓喜の声と悲鳴は、噂を聞きつけた敬虔な基督教徒かもしれないが、そうであってほしくないと願う沙穂とベルである。安物の缶ジュースを半分ほど残して文彦はベルを見て、それから沙穂を見た。彼女もまた同じ質問を抱えていると察すると、しばし考えたふりをして真顔で答える。 「一課が対処するのは、惑星外とか別次元からの侵入侵略者だ。んで、あれが別世界の侵略先遣隊」  間が空いた。  ひっきりなしに鳴り続けるサイレン音が、どこか他人事のように聞こえてくる。沙穂は握っていた缶を思わず潰し、ベルは口に含んでいた液体をそのまま痴呆老人か赤子のように力なく吐き出した。 「うちうじん?」  吉本新喜劇の脱力系コメディアンもかくやという投げやりな発音で、沙穂はうめいた。やはり真面目にうなずく文彦。 「もっとも惑星外の知的生命体と遭遇したことは俺もねえな」 「じゃあ異次元人とはあるっていうのっ!?」  正気を疑うような発言に首を振る沙穂。 「バケモノも宇宙人も大差ねえだろ」 「大ありよ! 旧支配者だってアウターゴッズだって、もう少し世間体を気遣った登場の仕方をするわっ!」  宗教画に描かれる黙示録の最終戦争もかくやという様相を呈した三狭山上空を指差しながら、珍しくも沙穂はヒステリックに叫んだ。 「仮にあれがバケモノだとしても、わたしと七枝の二人で対処できる数じゃないでしょ。しかも相手は空飛んで謎の怪光線を撒き散らすような規格外の連中じゃないのっ!」 「てい」  説得を諦めたのか面倒くさくなっただけなのか、文彦手刀を一閃して沙穂の脳天に直撃させた。伸長が一気に数センチ縮むのではないかという威力は彼女の意識を綺麗に奪い、仰向けに倒れそうになった身体を背後より現れたジンライが支える。 「お師匠、今日は……過激っすね」  さしものベルも、今日この時の文彦の言い知れぬ迫力にはたじろぐばかりである。 「一課の仕事なんて、どれも似たようなもんだ。力仕事ばっかで救いがねえ」  再び手刀一閃。  中途半端に逃げようとしていたベルを文彦は逃さず、これまた転がりそうな彼女をルディが支えた。 「陰陽合一法、術式は既に仕込んでいるから手間は取らないはずだ。三十秒でもいい、アキラをなんとかするだけの時間を稼いでくれ」 『御意』 「――武装や能力制限も限定的に解除してあるんだ、初っ端で派手にやったら後は生き残るのを最優先にしろ」 『我らで彼奴を倒してはいけないのですか』  ジンライが短く問う。文彦はしばし考え、 「その辺は任せる。限界を感じたら、迷わずに退け。むしろ二人が正気に返った後が怖い」  御意。  その言葉と共に、二体の異形は二人の少女と共に姿を消した。  爆発と衝撃。  それがずいぶん遠くより感じられたことにアキラは違和感を抱いた。見上げれば、はるかな上空で黒翼の御使いが巨獣と共に得体の知れないものと戦っている。  炎と風、雷と影。  相反せずとも異質なる力が一つに交わり、それが互いを増幅させている。それに近しい存在を彼女は赤帝武具として知っていたが、それらの力は彼女の知識下にあるものに比べれば微弱とも言えた。 (でも、あの天軍を押し切るだけの力と勢いはある。たった二騎で御使いと巨獣を相手にできるなど、今まで渡った世界では見たこともない)  凛。  思考に介入するように、聞き慣れた音と共にアキラの前に「それ」が現れた。果たして彼女は、その出現を予測できただろうか。戦闘の緊張に引きつる貌からそれを読み取る術はない。  一振りの大剣。一両の甲冑。一枚の盾。  いずれも深紅の地金が夜の闇に輝き、地金よりなお濃い結晶がいたるところにはめ込まれている。女性用の武具にも見えるが、全身を覆う過剰装飾の武具防具は、人間の筋力では着用することも手足や剣を振り回すこともできそうにない。いや、この甲冑は、中身が空洞ですらない! 「――赤帝の、武具」  かすれた声を絞り出すように、呻くアキラ。喪失したはずの彼女の本体が目の前にある、人間外の存在が着用して振るうための武具が、マノウォルトを討ち滅ぼすために鍛えられた武具が。人という依り代を得て現出した赤帝盾たるアキラはここにいる、目の前にある赤帝の武具には、あるべき力が宿っていない。 「抜け殻の状態で発見されたのは、数年前。場所は石杜。経緯は省略するけど、機能は生きている」 「おとうさん……そっか、最初から知っていたんですか」 「理解したのは少し前かな」  武具一式と共に転移した文彦は、成長したアキラの姿に驚くこともなく、今までと変わらぬ口調で続けた。 「村上アキラとして生きることも今ならできるぞ」  アキラは首を振った。辛そうに、力なく振った。 「思い出しちゃったんです、いろんなこと」  滅びた世界のこと。世界を滅ぼしたもののこと。自分がどのような想いにより生み出されたかということ。そしてこの世界のこと。 「おとうさん、ずるいです。私が最初から覚悟を決めてたのを知ってて、赤帝の武具を目の前に置いて、それで『自分の娘として生きるかい』だなんて。ひどいです、そんなの……答えなんて一つしか出せない」 「アキラは、どんな時でも同じ答えを出すと思うぞ」  文彦にしては優しく、しかし凛とした声。 「はい」短く、強く頷くアキラ「私は赤帝が一柱。あなたの娘である以上に、この赤帝盾の化身です」 「そうか。じゃあ、これ一式持っていけよ」  ほんの少しの間。 「おとうさん、わたしが赤帝盾と同化したら――武具の使用者を必要とします。でも、赤帝の力に耐えられる女の人は、ここにはいません。だから、因素剣をいましばらくお借りします」 「盾として、刃を振るう業に耐えられるのかい」  短い指摘。首を振るアキラの表情は辛そうだ。 「決して楽ではありません。私はあくまでも守護を担うものであり、牙や刃を弾き折るための力を行使するのが本質です。ですから、仮に赤帝武具がすべて完全な状態に戻っても」 「武具に見合った力の持ち主でなければ意味がないと」 「ええ。しかも赤帝は女性専用の――」 「だったら問題はすべて解決している」 「へ」  きょとんとするアキラの手を握り、文彦は小さく息を吐いた。 「赤帝の力を行使できる者はいる。赤帝剣も赤帝鎧も、その本質たる力もある……覚悟を決めているのなら、躊躇するな。黄泉道反剣の能力を開放できないおまえには天使もどきは片付けられても、あの暴獣は倒せない。」  真実だった。  ハヤテやジンライと戦っている巨獣は凄まじい破壊力を秘めており、因素剣のみでそれを滅ぼすのは困難だ。逡巡の後、アキラは父の手を強く握り返した。 「力を、貸してください……おとうさん」 「おうよ」  もはや自分より大人びてみえる少女の懇願に、文彦は精一杯の笑顔で強く頷いてみせた。  意識の回復は、文彦の予測より早かった。  自我を取り戻すと共に、宙を舞う二人の少女は正気に返った。自分の置かれた立場、正面で暴れる巨獣と黒翼の天使、それと人間の規格を突破してしまった肉体。この状況で正気を取り戻すのは、もはや喜劇である。 『な、ななななな』『なんじゃぁあああこりゃああああっ!』  松田優作ばりのドスの効いた声で叫んだのは沙穂である。しばらく前に友人である柄口鳴美の部屋で強引に見せられた刑事物ドラマの影響かもしれない。 『とにかく落ち着いてください沙穂殿っ』 『これでも落ち着いているわよっ』脳内で響くジンライの声に絶叫で返す沙穂『十秒で整える、サポート任せるからね!』  意識は混濁しない。  沙穂は徹底したリアリストだ、それが現実ならば非常識なものをそれとして受け止める度量がある。十秒で混乱より回復すると言ったからには、間違いなく彼女は回復する。  その一方で。 『ふれいむ・らんすわぁああああああっ! ブレェェェェェェェェィイク!』 『そんな術式ありませんよぉおおおっ!?』 『いま思いついたのぉぉぉおおおおっ!』  絶叫しながらベルは巨獣に突撃していた。普段の倍以上に噴出す炎を風の力で収束し、突撃槍のように構えて突き進んでいる。術式としては組み立て方も滅茶苦茶で、圧倒的な出力に任せて強引に形にしているに過ぎない。彼女の奥義とも云うべきエーテルとフロギストンを変換する炎術ではなく、圧倒的な魔力により生み出された炎で全てを焼き尽くそうというのだ。  無茶である。  ベルは混乱したまま、まとまりのない意識を闘争本能に転化することを選んだのだ。勢いは先刻の倍に近いが、隙は大きい。ジンライとハヤテで連携していた緻密な攻撃が、ここにきて大きく変化した。ジンライいや沙穂は動きを僅かな時間であるものの硬直させ、ベルは絶え間なく攻撃を仕掛けているがむらがある。  好機。  御使いは躊躇しない。なぜなら彼らは常に正しいという矛盾めいた信念に基づいて行動しているからだ。疑えば自身の存在さえ不安定なものにする、隙が生じればすかさず反撃するのが彼らの生き方だ。御使いの意を受けて、暴獣は大きく顎を開いて体内より最大級の紅雷を吐き出す。今までは放つ余裕さえなく攻撃を受けていたが、今は違う。僅か数秒の隙ではあるが、眼下の都市を破壊して霊脈そのものを消失させてしまえば赤帝盾たるアキラは無力だ。今こうして襲ってきている者たちも、特異点の恩恵を受けているのは間違いない。  轟。  空気を震わせるように紅雷の巨大な光球は真下に向けて放たれた。攻撃に圧倒的な力を発揮しているハヤテとジンライだが、広範囲を防御する術式はそれほどでもないと既に判っている。しかもジンライはいまだ反応できていない。  勝った。  素直に御使いは確信した。これほどの使い手が他にいることも考えられたが、今放った紅雷は大地に到達すれば連鎖的に破壊の炎を拡大していく。魔術的な炎は水に触れても消えず、人間の力では消しきれぬ量の炎が生まれるだろう。時間をかければ確実に世界を滅ぼせる、そういう代物だ。  が。  凛。  今までよりひときわ大きな音が周囲より響いた。  百合にも似た赤帝の紋章が、三狭山はおろか犬上の街そのものを覆うほどの巨大な紋章が出現し、ハヤテとジンライの間をすり抜けて落下した紅雷の巨大光球を受け止め――即座に消滅させた。街には、大地にはなんの損傷もない。 「待たせたわね」  風が吹いた。  あるいは雷だったのかもしれない。  戦闘により張り詰めていた三狭山上空の空気が、一気に変化した。特異点より噴き出す精気の力により普通ならば感じ取ることの難しい『力』が、それら全てを押しのけて辺りを支配している。おそらく犬上一帯の術師や異形たちも感じ取っているに違いない、明らかに異質な、桁違いの力。 『……赤帝!』 「叫ばなくとも、肯いてやろう」  声。  どこか悪戯っぽく、余裕さえある女の声。少女ではない、しかし成熟にはまだ遠い女の声。凛として張り詰めて、この場の雰囲気に合っている――支配者としての資質に満ち溢れた威厳ある声。  その声は、御使いのはるか頭上から聞こえた。 「我は赤帝」短く、啖呵を切るべく発する言葉「幽鬼王により生み出され、外法外道を討つべく鍛えられた三種の武具の化身。だが、我にはもう一つの名がある!」  御使いが、沙穂とベルが見上げる。  視界に飛び込むのは、三対六枚の翼。羽毛ではなく、無数の鋭い刃で構成された鋼の翼が深紅の輝きを帯びながら夜空に向けて大きく開かれている。左手に掲げる盾もまた深紅の輝きを帯び、赤帝の紋章を浮かべている。身を包む鎧は洋の東西を問うことも難しい代物で、形状を問えばハヤテと融合を果たしたベルの装甲に近い。普通に鎧として着込むのであれば、ありえない方向へと手足が自在に動いている。実用性に乏しい飾り兜より覗くのは鎧の色よりなお強く輝く紅の瞳。  なるほど、故に赤帝と。  非常時でありながら、沙穂はその姿に見とれた。御使いと巨獣は狂ったように雷を赤帝へと放つが、掲げた盾に防がれて霧散消失する。 『何故だ!』  悲鳴を上げ自己消滅につながりかねない言葉を発する、黒翼の御使い。 『赤帝とは武装の名、主体を持たぬ力ではないか!』 「そうよ」  冷たく赤帝は返した。空いた右手に武器はない、それなのに御使いも巨獣も威圧され逃げることもできない。 「赤帝とは単に武装の総称、武装を行使する者の別称に過ぎないわ……でも言ったでしょう? 我には別の名があると」  飾り兜が展開収納され、赤帝の顔が露出する。  紅の瞳、そして夜風に流れる紅の長い髪。鋭く、冷たく、美しい貌。御使いのような神聖さとは趣を別にする、畏怖を伴う美。それはアキラの顔とはまるで違うものだった。 「我の名はSe-Ra」  短く告げる。聞き取れるようで、精確には再現できぬ名前。 「我は赤帝Se-Ra、今この時よりあらゆる世界に存在の種子を宿す」  凛。  鋼の翼を折りたたみ、赤帝は急降下する。自由落下にも等しい、緩慢な動き。優雅とさえいえる、絵画のような場面。相対するのが神々しい御使いでなければ、さぞや映えただろう。 『我が神は、貴様の存在など認めない!』  激昂し、黄金剣を引き抜き御使いは跳ぶ。  交叉は一瞬。  音はしない。  夜空にあって御使いと巨獣は微動だにせず、赤帝はそのまま三狭山の地に降りる。 『……なにをやったの』 『単純なことでござる――単純にしてもっとも恐ろしいものを受けたでござるよ』  動かぬ御使いを睨みつつ自問する沙穂に答えるジンライ。 『赤帝の剣は、奴らの存在根源を断ったでござる。この世界ではない、どこにいるとも知れぬ奴らの親玉とも云うべき「神」そのものを消滅させたのでござる』  ぐらり、と。  夜空にある御使いと巨獣が姿を消した。最初からそこに存在していなかったかのように、塵一つ残すことなく。あまりにも静かで、あまりにもあっけない終わり方に、沙穂もベルも動けず、しばしの時が流れることになった。  三狭山の中腹。  霊脈の要とも云うべき巨石の前に、彼はいた。  最初に現れた時のように正式の法衣を身につけた青年、華門である。 「やあやあ、おつかれさまでした」  恐ろしいほどの力を発する赤帝を出迎えてなお涼しい顔で、華門は声をかける。 「期待以上の働きです。出力、制御、親和性……このままでいて欲しいくらいですよ、赤帝さん」 「冗談は大概にしてくれ」  と。  赤帝はわしゃわしゃと己の髪を面倒くさそうにかき上げながら、ぶっきらぼうに答えた。 「三位一体の武具に、それぞれ半端じゃない御霊をくっつけてるんだ。あんたのサポートで辛うじてまとめたけど、これ以上は空間構造に悪影響を及ぼすのは目に見えてるから解除するからな」 「なんだ勿体無い」心底詰まらなさそうに、華門「せっかくの美人なのに」 「知るか」  凛。  言うや赤帝は光に包まれ、直後、四つの姿に分かれた。ひとりは赤帝盾たるアキラ、ひとりは赤帝剣の化身たる小柄な少女、ひとりは赤帝鎧の化身たる元気そうな少女。いずれも背格好や容姿に差はあるが、似た年頃の娘である。  そして残るひとりは、これは鎧兜を外しただけで元の赤帝とさほど変わらぬ少女がいた。いや、鎧を外すことにより均整の取れた肢体が露となり、実に魅力的だ。 「……なんで髪とか目の色が戻らねえんだ!?」  手鏡を握り締め、少女は悲鳴に近い叫びを上げる。 「そりゃあ」愉快そうに説明する華門「赤帝の力が残留しているからだろう。女性体のままでいれば自然と放出されるよ」 「どれくらいで」 「計算が正しければ百五十年くらい」 「そんなに待てるか!」  少女は叫び、即座に印を結ぶ。  直後、少女は小柄な少年に戻った。髪の色も目の色も、すっかり元通りである。 「おとうさん!」  抱きついてくるのはアキラだ。己の性別について陰陽を反転させていた少年、文彦は不意打ちに等しい抱擁に戸惑いつつも、優しく背中を抱いた。男女のやましさではなく、親子としての抱擁のつもりだった。 「これで、ほんとうにおわかれなんですね」 「石杜には時々行く用事があるから、今生の別れでもねえよ。逢いたくなったら、いつでも逢える。アキラは、自分の役目を果たせ」 「はい」  抱擁を解いたのは文彦が先だった。  名残惜しそうにアキラもまた離れ、本来の仲間である二人の少女のそばに戻る。 「泣かせたらコロス」 「赤帝の盾をぶちやぶれるいじめっ子なんていませんよ」  声を潜め会話する文彦と華門。 「学園の結界なら、外の世界の連中も迂闊に手は出せないでしょ。飲み込みも早いし、あっという間に一人前になりますって」  名門綾代の一族にあって数々の実力ある術師を育ててきた華門が、そう太鼓判を押す。そういわれた以上は文彦としても彼を信用するしかない。 「とにかく、頑張れよ」 「はい」短く強く頷くアキラ「全部片付けたら、絶対におとうさんのにくどれいになるから、それまで待っててくださいね!」 「――ちょっと待」  云い終わらぬうちに、華門は赤帝武具の化身たる三名の娘と共に転移して消えた。  残されたのは唖然呆然としている文彦と、 『へぇ、あんな可愛い娘を肉奴隷にしちゃうんだ』 『モテモテっすねえ、師匠』  臨戦態勢出力無限大で怒りの矛先をこちらに向けようとしている沙穂とベルだけだった。  これよりしばらくの後、文彦は約束通りアキラと再会することになる。そしてそれが、文彦やアキラにとって一生を左右する大事件となることを彼らは未だ知らない。 【To be continued to the episode EX 'ShadowMaster in Cepland 〜 Nicorous vs Fumihiko'】