世界は不公平だ。  村上文彦が知る限り、全ての人間に等しく与えられ等しく奪われるものはたった一つしか存在しない。  生命。  そのなんと理不尽なことか。人間の営みは生命をいかに永らえ、いかに奪い、いかに広め、いかに遺すか。たった一つの平等なもののために、世界は不公平に満ち溢れている。平等であるがゆえになんぴとたりとも逃れ得ない残酷な運命に誰もが恐怖し、苦悩する。 「もしも、もしもですよ」  ベッドに横たわる老婦人は、視力が既に喪われた瞳を天井に向けたまま呟いた。 「私の身体を蝕むもの全てを取り除いたとして、私はあとどれくらいの年月を過ごすことができるのでしょうか」  老婦人は嘆息する。  生きていることが驚愕に値するほど、彼女の身体は悪性の腫瘍に冒されている。法的に認められぬ手段で文彦に接触してきた集団は、文彦の持てる力で彼女の身体を修繕してほしいと願い出ていた。  提示された報酬額は、標準の数倍。口止め料という以上に、集団が彼女を活かしたがっている事実を物語っている。 「まあ、次の百年は難しいかと」 「このまま放置したら?」 「百日はなんとか」  そう、と老婦人は微笑んだ。楽しそうに、詩を歌うように喉を震わせる。 「百年の年月に勝る百日を送ってみせるのも、悪くはないわね。  ねえ魔法使いさん。  あなたは、こんなおばあちゃんの悪あがきをどう思うのかしら」 「多くの人が、あんたに生きてほしいと思ってるらしい。  病巣を取り除いたところで老衰は避けられないんだから、階段から転げ落ちたって死ぬときは死ぬ。あんたは、それを理解している。長く生きてしまうことの苦しみも知ってて、遠くない将来に死んでしまうことへの恐怖も知ってて、その上で笑っている。  正直言えば、おれはそういう人間が嫌いじゃない。だから、報酬とは関係なしで、あんたの気持ちを尊重したい。あんたが七十歳若かったら間違いなく声かけてた。おれの友人なら、今のあんたでも本気で口説くだろうけど」  嘘偽りのない、文彦の言葉。それが楽しくて嬉しくて、老婦人は声を出して笑っていた。楽しそうに楽しそうに、笑っていた。  影法師村上文彦 あきら      術師の仕事は多岐に渡る。  異形の討伐と封印は、国家および国際機関で定められた術師の存在意義であり、術師が人並みの扱いを受けるための義務に近しい。たとえ国家や組織に忠誠を誓わなくとも術師は例外なく異形の引き起こすトラブルに巻き込まれ、あるいはトラブルを生活の糧として暮らしていくしかない。  だが、術師がその中で副次的に発揮する様々な才能や技術が、非公式に様々な注目を集めているのもまた事実である。傷病の治癒回復技術は程度の差こそあれ、生物が本来持っている自己治癒力や免疫力を極限にまで引き出すものが多く、現代医療で絶望視されるような患者に限って処置されることもある。  それが生死の選択という概念や、医療技術者に対する冒涜それに医療保険の適用を認めるかどうかという論争は、今のところ解決の目処が立っていない。再生術を使える術師が限られていること、彼らが必ずしも基本的な医療技術を知っているわけではないこと、彼らの多くが医師や看護士に対してきわめて協力的であり自身の処置による違法性を十分に理解した上で再生術を施していること……玉虫色の決着さえ出せず、なし崩しで人々はきまぐれな術師の温情に期待している。 「まるで贖罪だな」  先刻まで人間だった男は、そして人間であることをやめた肉塊はそう言って事切れた。小刻みに震えていた蛞蝓のごとき蝕腕は崩れ、壊死のごとき身体の崩壊が全身に及ぶまで数秒も要さなかった。  骨さえ腐り落ちる、生命の死。  同じ運命を迎えている肉塊がいたるところに存在していた。あるものは玉砂利に埋もれるように、あるものは分厚い門扉に叩きつけられて。文彦に向かい肋骨のような棘を伸ばしたまま絶命しているものもある。  共通しているのは、それらが人の規格を外れていながら、それでも人間より生み出た生き物ということ。異形と呼ぶには、あまりにも混沌とした生物。魔族とてここまでのおぞましき姿を持つものは少ない。異形が奇しき姿を持ったとしても、それは森羅万象が求めこれに応じる形で形得る肉体である。  だが、この肉塊たちにはそれがない。始原の海より生み出でる原初の粘液生命さえ連想してしまうような、生命としての不快感さえ伴う。 「たった一つの成功例を生み出すために、どれほどの罪を重ねてきたか。  わかるか、魔人よ。  人の身で貴様や華門に抗するものを生み出すために、我らは己の血を陵辱し続けてきた」  別の一人が、数少ない生き残りが弱弱しく吼える。  一時は名家のひとつに挙げられたほどの家系。大門家の没落の原因を文彦は知らない。わかっているのは、彼らが術師名家としての地位を取り戻すためにしでかしたことだ。 「蛭子の呪法か」  短く、激しい憎悪を込めて文彦は死にかけの男を睨んだ。 「そうだ」  魔人と呼ばれ生死の倫理が壊れている影法師に憎しみを抱かせたのが、よほど痛快だったのだろう。折れた黒松の枝に刺し貫かれていた男は哄笑と共に内臓の断片を吐き出している。 「術師としての血の濃縮! 魔人である貴様なら理解できるだろう、この意味と無意味さを! 我らは母子の交わりより生まれ、また母を犯して子を産ませ……何度これを繰り返した。術式により代謝を加速させられ十日あまりで成人し、狂ったように生みの親を犯し続ける我らの業は何によって報われるというのだ!  たった一人、華門や魔人に並ぶ術師を生み出すために我らが母は、己の子を慈しみ会陰の傷癒えぬ前に交わりを強要されたのだ。人としての形さえ保てぬ子を次々と産み、それに種付けされるたびに我らが母の心は砕けていった!」  罵りではない。  これは哀願だ。  人として生まれてくることを許されなかった男の、生命を賭した願いだ。おそらくは腐り消えた落とし子たち全てが、同じ願いを抱いていたのかもしれない。 「蛭子の呪法は、あまりにも苛烈で多くの犠牲を強いる。だから綾代でなくとも、それを使うことを禁じたほどの外法だ。三課は大門家の処罰を決定し、おれが派遣された」  人の法で裁けぬ術師にも禁忌と呼ぶべきものはある。蛭子の名で呼ばれる呪法は、その中でもとびきりの一つだ。成功すれば絶大な力を得るが、失うものは大きい。なにより禁忌として扱われているのだから、実行すれば文彦のような術師が派遣されるのは確実だ。最悪、綾代の一族を敵に廻すこともあるのだから、文彦が知る限り術師の家系でこの呪法を用いた話は聞いたことがなかった。  それが。 「極界の法に触れ綾代の家を敵に廻せば、早晩こうなることは理解していた」 「おれが来ることがか」 「蛭子の呪法が完成すれば、並の術師では倒せぬ。失敗作である我らでさえ、そこらの異形を圧倒する力を有しているのだぞ。  神楽の造反で人手不足の三課に動かせる駒など限られているではないか。ならば派遣される術師は、我らの望む人材である可能性が高い」  自身の生命を奪った文彦を望む人材と呼び、男は果てた。  文彦を襲い、返り討ちにあったものはこれで二十を越えた。全員がひとでなしのバケモノであり、母を同じくする兄弟であり、親子だった。術式により代謝を加速された母体を基に、同じ術師の血を交え続けることによる品種改良にも等しき禁じ手。普通に交配を重ねるのであれば数百年を要する手間を、数ヶ月のうちに成し遂げる。一代二代では意味を持たぬ術師の交配を、十代以上続けてまで、望む血を得ようとする。 「術師の素養ってのは、滅多なことでは遺伝しねえ」  それは術師にとっては常識だ。人間というのは、その方法さえ間違えなければ誰しも術を使えるようになる。その先の力を求めるのであれば、桐山沙穂のように特異点を身の内に宿して身体の構造を変えるか、文彦のように魔族との混血になるしかない。  が、蛭子の呪法は遙かな昔より禁じ手の一つとしてその確実性を認められている。 (その滅多を無理やり引き起こそうっていうのなら、無理が生じる。人でありながら人としての本質を失った、なりそこない。異形の衆。ミュータントと呼ぶこともできない、生命の輪より外れた連中)  なりそこないの存在が、一般には蛭子の呪法が禁忌とされる理由とされている。遺伝的な異常を引き起こしやすい近親交配が、術師同士に限って「なりそこない」である蛭子に変じる原因は明らかではない。 (知ってる奴は、知ってるだろ)  固く閉ざされ結界の符を無数に張った大門家の門扉を前に、文彦は虚空より因素の直剣を引き抜いた。  凛。  空気が震える音と共に、五体の蛭子が降ってくる。門を守るように、棘だらけの触手をむき出しにして。  術師を裁く法はない。  法が天然自然に基づくものならば、天然自然を超越する魔術を縛る法は存在しない。しかし極めたる世界に住まうならば、その理に基づき魔術を縛ることもある。  故に極界。 「……超越者気取りか、影法師よ」 「蛭子は、贖罪と呼んでいた」  殺戮に意味はない。  術師としての力を封じ込めることも文彦には可能だった。三課からの指令では、生殺の判断は現場に任せるとだけあった。文彦は殺意を持った襲撃者に対して、同じものを返した。逃げるもの殺意を持たぬものについては、その力を奪った。  ただ一人、蛭子の呪法を実行させた長については、その四肢に術式封じの鋲を打ち込み、輪廻さえ不能となる魂魄破壊の術式を刻んだ符剣を五臓に差し込まれている。異形を倒す時でさえこれほど念入りなものはなく、これほどの苦痛を与えるものはない。 「こんな最期を迎えると解っていて、どうして呪法を使った」 「……この世界が創られた意味を知ってしまったからだ」  符剣に貫かれながら、長はしわだらけの顔を歪め、苦悶の中に笑みを浮かべた。七十を過ぎているはずが五十代といっても違和感のない心身の張りを持ち、執念に等しい気迫を見せる。 「この世界を守るには、綾代の一族に守られし獣皇の子を倒さねばならんのだ……さもなくば、マノウォルトなど比較にもならんバケモノが世界の全てを貪り尽くす……貴様なら解っているはずだぞ、影法師よ!」 「ああ」  息絶えた十数名の術師の屍を眺め、それから長の言葉に応えた。 「この世界が創られた意味も、獣の王とやらも、たぶん知ってる。あんたらも知ってたはずだ、知らずにそれを倒すために……こんなことをしたのか」 「獣皇の子を倒すには、尋常な力では無理なのだ。魂を喰らうもの、華門と呼ばれる術師に匹敵する力を持った術師でなければ……だから、大門の家は!」 「匹敵する、じゃあ駄目なんだよ」  長は最期の一言を発する前に塵となった。  散らばっていた幾つもの亡骸もまた塵となる。蛭子と同じく、一族の人間もまた骨さえ残すことなく世界から消滅した。 「母か」  蛭子たちの言葉を繰り返し、文彦は屋敷に残る異質な精気の出所を探る。大門一族と戦っていた時でさえ感じていたそれは、汚物を隠すかのように大きな屋敷の地下に隠されていた。  それ。  女性には違いない。数十回の出産を経た彼女の肉体は、限界を迎えていた。消滅させた蛭子の数からみれば百回近い出産を耐えたのかもしれない。  それでいて女性は美しかった。  もはや人間ではない。術式により代謝が加速され、出産して三日も待たずに次の種付けが可能となるように身体を創り変えられた、そういう生物だ。おそらくは大門家の術者の力により生物としての均衡を保っていたのだろうが、文彦の手により壊滅した以上は、彼女が人として生きていられる時間は長くはない。 「あんたは百の年月を百日で迎えたのか」  恥らう気持ちさえ壊されたのだろう、一応は男である文彦を前にしても剥き出しの股を閉じることはなくへそよりやや下の部分に手を添えているのみだ。  女は答えない。 「あんたの子や夫は、助けようがなかった。大元が歪められた命は、影を重ねても正常な身体にはならねえ。あんた自身も、たとえ元に戻しても磨り減った生命の本質を補うことはできねえ。人としての寿命は、保って一年しか残ってないんだ」  そう言っている間にも、女の輪郭は崩れ始めていた。  熱で溶けるシャーベットのように、女は生命の限界に達しようとしている。 「……勝手にやらせてもらう」  文彦は女の影より、本来あるべき彼女の身体の虚像を引き出した。  虚実を反転させ崩れかかった身体に重ねれば、その本質の置換が起こり再生が始まる。ベルの怪我を一瞬で癒したように身体の構造自体は完璧な状態に戻る。が。  凛。  空間がきしむ音。  再生を果たした女は無意識に文彦の手を掴み、それを己の下腹部に当てる。へそよりやや下のそこに触れれば、文彦の身体で練り上げていた膨大な量の魔力が吸収される。  凛。  乾いた砂が水を吸うように。文彦から魔力と精気を奪うにつれて女の下腹は膨らむ。危機に際して無意識に現れた精剣を通じ三狭山の霊脈の力が文彦の身中に現れるが、それでもなお飢餓感を訴えるほど文彦の魔力は急速に失われていく。  まずい。  精剣がなければ干物になっていたほど、その吸引力は強烈だった。魔力の流れを支配できるはずの因素剣さえ干渉不能の勢いである。女の下腹は臨月間近にまで膨らみ、そこに生命の全てを注ぎ込んでいるのか女の四肢は急速に萎んでいく。  やめろ。  制止の言葉を口にする間もなく魔力吸引は停止し、女の身体は黄金色の砂となって崩れ、  カレーショップ「ルドラ」には珍しい客が揃っていた。 『一応、弁解を聞いておこうかしら』  犬上市最年長である魔人、佐久間千秋は額に青筋を浮かべながら、それでも笑顔で尋ねた。 『なによ、これは』 「赤ん坊」  慣れた手つきで、亜麻布に包んだ赤子を抱えている文彦。  数歩離れて取り囲む面々。 『どこで拾ったの』 「職務上の機密」 『尋常な気配を発していないのは、少しでも術を学んだ者なら気付くわよ』 「わかってる、だから連れてきた」 『親は』 「もう、いない」  嘆息。  文彦に抱かれている赤子は、生後十ヶ月を迎えた頃かもしれない。つややかな黒髪は綺麗に生えそろい、頬は血色良い。 「訳アリの子だから、とりあえず」 『……正気じゃないね。噂くらい耳に入ってるのよ、あんたが連れてくる場所から連想できる答えは数えるほどもないのよ』 「ああ」  珍しくもシリアスな会話を続ける千秋と文彦をよそに。  カウンターの片隅でベル七枝と桐山沙穂が「やってらんねー」と真昼から酒をあおってやさぐれていたのだが、それはまた別の話である。