第十九話 黄泉道反・中編  限りなく虚無に近しい空間に、村上文彦は放逐された。  光も闇も存在しない、空気さえそこには無い。しかし真空とはまるで異なる世界だと文彦は知覚した。酸欠で苦しむことも身体が破裂することもない、自身の肉体が端から塵と化しているのを知覚するだけだ。  おそらくは、そこが虚無であり続けるための作用なのだろう。  自身の消滅を他人事のように考えながら、文彦は考える。逆鉾の力なのか、転移の術どころかいかなる術式も意味を持たない。全身に突き刺さり虚空へ誘った鉤爪は今は姿を消しているが、傷口より噴き出す血も霧のように宙に滲み消えてゆく。 (これが、おれの人生の最期か)  痛みは無い。  痛みとして知覚させるための何かが、この空間には欠如しているのかもしれない。実感のない死が、己の身に宿っている。術師として生計を立て術師として生き残るために、文彦は数え切れないほどの命を奪ってきた。死にかけたことも数え切れないほどだ。魂を喰らうものと最初に相対した時は、心臓を潰され脊椎が破壊された。即座に「影」で己の傷を塞がねば、確実に命を落としていただろう。  こんなものか。  逃げられず、身体の再生もできない。光も闇もない世界では影は生まれない、つまり影使いである文彦の術式を媒介するものが存在しない以上彼は無力に等しい。たとえ術を封じられずとも、文彦はこの虚無の中で朽ち果てるしかなかったのだ。 (親父の封印は、屋島査察官がなんとかしてくれるだろう。親父さえ元に戻れば深雪達の心配はねえ……ベルには教えるべきことは全て叩き込んである。桐山さんは、ジンライがなんとかしてくれるだろ)  神楽聖士の企みは、問題ない。地脈の暴走さえ食い止めてしまえば神楽といえど一介の術師である。人間としてのレベルは極めて高いだろうが、その強さは絶対的なものではない。たとえ逆鉾を手にしていても、たとえ文彦ほどの術師が為す術もなく倒されたとしても、それを越える術師はたくさんいる。物量を圧倒できるほどの実力は、神楽にはない。  そうだ。  文彦は己の死を納得して受け入れようとしていた。 (おれも千秋と同じように、魂も残らずに消えるんだろうな)  かつて想いを寄せた少女の最期を思い出し、だったら自分の最期も捨てたものではないと自嘲気味に呟いた。術師としての実力を身につけた時、文彦は何度か笠間千秋の魂を呼び寄せようとして、その都度失敗した。犬上の濃密な霊気に晒されれば、人の魂など容易に輪廻の輪より外れ霊脈に取り込まれるのかもしれない。術師になったことで文彦は千秋の絶対的な死を自覚することになったのだ。 (だけどまあ、そんなものだよな)  やがて崩壊が全身に廻ったのを自覚すると瞼を閉じ、そのまま意識を虚無に晒して消えた。  数分おきに銃声が聞こえる。  立て続けではないが、止む様子もない。それが戦闘によるものであればあまりに滑稽だし、そうでないとすれば物騒極まりない。官公庁の施設であるその建物は清潔感が漂い、ちょっとしたホテルにも似た雰囲気さえある。  その中で銃声が響く。  炸薬量は決して少なくはない。至近で撃てば十分に人を殺傷せしめるような、そういう音がする。それなりに防音施設の整った建物内での音だから、これは由々しき事態だ。 「あー、見苦しい」  銃声を聞き流しながら、建物の廊下を屋島英美査察官は歩いていた。彼女の部下は三課の職員と共に施設内部を制圧中、彼女は特に部下を引き連れることもせず目的の場所へと向かう。  ショートの髪に、少し眠たげな眼差し。それでも瞼に半分ほど隠れた眼光は鋭い。二十代後半だが、糊の効いたスーツに身を包んでいるためか実際よりもかなり年上に見える。防弾防刃繊維を織り込んだコートをマントの代わりに肩に掛け、多機能の携帯端末を手にしている。ぶらりと歩く様を威厳という二文字で飾ってよいものかは判断に困るが、不規則に起こる銃声に眉を動かすこともしない。 「館内に繰り返し通達する」  取り出した小型のマイクロフォンを手に屋島査察官は立ち止まり、虚空を見据えた。 「神楽聖士は本日未明をもって三課査察官としての職を解かれた。同時に特異点暴走を含む三十五の怪事件、そして二百七十件もの殺人事件に神楽が関与していることが明らかになった」  銃声が少しの間だけ止んだ。 「神楽が犬上市を流れる地脈の力を手に入れようとするには、三叉山で封じてある特異点を暴走させる必要がある。その規模は石杜市の三割と予測されるが、犬上と地脈でつながっている十八の特異点封印が連鎖的に暴走してしまう。同時に十九箇所の特異点が暴走した場合、これを食い止める人員や機材は三課にはない。石杜にも問い合わせたが、同様の答えが返ってきた」  沈黙が続いた。  それに耐え切れなくなったのか、近くの扉の陰から刀を構えた若手の術師が飛び出した。神楽万歳、人類万歳と叫びながら英美を切り倒そうとした若者は、同時に彼女の足下より飛び出した人影に刀を叩き落される。その人影、コートを羽織り帽子を目深に被った二十そこそこの女は蹴り上げた爪先で若者の両肘を砕き、咽仏が陥没するほどの拳撃を若者の首に与えて悶絶させた。 『相変わらず、甘い』  女は影より現れ、ついでに縛られた柏原祐を引きずり出しながら英美を見た。英美は転がされた祐を一瞥し、再びマイクロフォンを握る。 「神楽が今回の行動に対して口実に用いた影使いの犯罪者は、既にその身柄を拘束している。三課を統括する上部機関には事情を通達し、貴君らの目論見が達成される見通しは事実上ゼロとなった。神楽は永遠の生命も、石杜の魔人たちを敵に廻して勝てるほどの力も手に入れられない。貴君らがその恩恵を受けることもないだろう」  目的の場所に到達し、英美は扉を叩く。  即座にそれは開き、三課という組織を実際に運営している上層部の何名かと、テレビや新聞で時折見かける政治家達が視界に入ってきた。彼らは豪奢な部屋の隅っこで膝を抱え震えており、部屋の半分を埋める三課職員達の突きつける銃器や武具を前に脅えていた。 『爆弾での自決など考えぬことだ』  コートの女が呟けば、政治家の一人が隠し持っていた手榴弾がひとりでに転がり落ちる。安全ピンを抜かれたそれは直後に爆発したが、閃光は上がらず熱も爆風も金属片も室内を蹂躙することはなかった。 『無駄だと言っただろう』  女は政治家を見て、それから床を指差した。  そこでは確かに手榴弾が爆発していた。密室で使えば人体を肉片に変え消し炭にするだけの衝撃と熱量が、視界を奪うほどの閃光と共に解き放たれている。  ただ、それはバスケットボールほどの空間に限定されていた。そこより外では微風さえ吹かず、数秒の後に爆発は終わり鉄屑だけが残った。  爆発の一部始終を目撃した政治家達は愕然とし、コートの女は『特異点を封じ込めることに比べれば、造作もないことだ』と付け加えた。無論それは並大抵の術師にできる業ではなく、武器を構えていた三課職員達も内心では驚いている。 「致死性の毒を服用しても同じだ。貴君らは神楽の企みの全てを吐き出し償うまでは、どれほど苦しもうと死によって救われることはない」  あるいはそれこそが彼らが求めた不死の肉体かもしれないと内に皮肉を込めれば、英美は一歩前に進む。老人や役人を蹴散らせば、一番奥に隠れていた老人が見える。国内の政変が起こる際にはその名が上がるとさえ言われている、妖怪じみた男だ。その胸倉を英美が掴む。  彼女の記憶が正しければその老人は百歳に手が届きそうなほどの高齢で、重い内臓疾患を患っていたはずだ。病そのものは術式で癒すことは可能だが、加齢による生命力の低下は、基本的には術式では補えない。それなのに老人の足腰はしっかりしているし、肌のつやもいい。還暦前と言って信じるものもいるだろう。 「神楽は不老不死という餌をばら撒くために、それに近い効果を貴君らに与えた。つまり莫大な力を有する異形を封じ込め、その魔力をもって本来ならば寿命を迎えてもおかしくない連中に活力を与えていた」  老人が着ていた上等の絹のシャツを引き裂いて、英美はその胸元に埋め込まれたコインを露出させた。三角四角五角を組み合わせた図形を打刻したそれは、術師が異形を封じた器である。 「異形が人の活力を求めるのは良くあること、しかし人が生きながらえるために異形の精を取り込むとは。人間至上主義を打ち立てながら、やっていることは『魂を喰らうもの』たちと大差ないのだから恐れ入った」  老人はか細い声で悲鳴を上げ、英美はこれを無視してコインを剥ぎ取る。途端に老人の肌は土気色となり、風船がしぼむように肉や骨が縮み始めた。急速に加齢が進み、活力さえ失せた老人は惨めに床に這いつくばるしかない。 「初代の影法師は返していただく。人間至上主義に賛同されるのなら、独力で生きられよ」  有無を言わさず英美は上層部の人間や政治家達から異形封印のコインをえぐり出した。肉に埋まり一体化していたそれを引き剥がすのは、当然ながら想像を絶する激痛を伴う。まして彼らの活力の源となっていたものが奪われるのだ。  悲鳴が、絶叫が上がる。      身体に走る痛みに、文彦は意識を取り戻した。  虚無に取り込まれ消滅したはずの肉体が痛みを覚えることに驚き、まぶた越しに網膜に焼きつく光の刺激に、自身の意識が未だ混濁していることを理解した。 (おれは助かったのか?)  誰が、どうやって助けたというのだ。  普段ならば周囲の気配を察知できる魔術的な感覚も、今はうまく働いていない。身体が再生途中かもしれないし、あるいは何者かに能力のほとんどを封じられているのかもしれない。 「あー、だめだめ」  目を開こうとして、少女の声がそれを制した。どこかで聞き覚えのある、懐かしい声だった。決して忘れてはいけないと思っていた声だ。 「村上ってばホントに身体ぼろっぼろなんだから、再生終わるまでじっとしてなよ」  意識が混濁する。  皮膚の感覚も正常に働いていない現状で、それでも文彦はかすれる声で唸るように問い掛けた。 「あんた……なに、やって……」 「んー。騎乗位?」  悪戯っぽく少女が囁いたように聞こえたが、ツッコミを入れる余裕さえなく文彦の意識は再び虚無に飲み込まれて消えた。      その日、犬上市は静かだった。  午前中に公的機関より発表された緊急警報、つまり凶暴な猛獣が数頭逃走したという情報が行き渡っていたからである。市役所などごく一部の公共機関を除いて市内は完全に封鎖され、害獣駆除にしては武装過剰な部隊が市内各所に展開する。  市民の何割かは「猛獣とはなんだろう」と素直に脅え、  別の何割かは無関心を装い、  何割かは警報の裏にある真実に気付き、  残りは行動に移した。 「これじゃあ商売あがったりなんだ、せめて出前くらい届けさせてくれよ」  小料理屋に下宿している伊井田晋也は、使い慣れた岡持ちを手に文句をつけた。間違っても人間に向けてはいけない大口径の突撃銃を背負った男たちは、予想もしなかった晋也の抗議に困惑しつつもガイガーカウンターのようなものを近付ける。 「放出妖力ゼロ、完全な一般人です」  一分ほど経ってから後方にいた隊員が声を出し、軍服の男たちは一様に胸を撫で下ろした。彼らはすぐさま敬礼の姿勢をとり、小型の軍用車輌が駆けつける。 「一般市民の御協力に感謝しております。皆さんには不自由を強いておりますが、全ては市民の生命健康を守るためであります」  用意されたような台詞を通り一遍口にすると、お店まで御送りしますので御勘弁を、と別の一人が申し出る。仕方ねえと晋也は頷き、そのまま小料理屋に帰還した。  車輌が完全に去ったのを確認して店に戻る。 「お疲れ」  出迎えるのは小料理屋の女将ではなく、同級生の柄口鳴美だ。他にも数名の同級生が小料理屋のカウンターに座っている。 「どうだった?」 「北区の住宅街、特に大学に向かう道が重点的に封鎖されていたみたいだ」  テーブルの一つに広げられた市内の地図に×印を何箇所か書き込みながら、晋也は証言する。 「駅や高速道路のインターも封鎖されてた。幹線道路もだ」  仲森浩之が地図の端に書き込まれた×印を指す。 「でっかい車が何台も三狭山に向かって行ったわ」 「市役所じゃ職員ともめてたぜ」  彼らは犬上北高校で補習を受けたり部活の早朝練習をしようとして、その途中で封鎖部隊によって追い返されていたのだ。そのまま帰宅しようとするも、今度は自宅への道が封鎖されていたため彼らは晋也の下宿先に飛び込んできた。  そうして出来上がった市内の封鎖箇所の地図は、奇妙な情報を彼らにもたらした。 「猛獣ってのは電車を使ったり車に乗ったりするのか?」 「三狭山や犬上大の近辺にいるとも解釈できますがね」  同級生たちが色々な意見をぶつけているが、晋也は封鎖部隊の対応に釈然としないものを感じていた。 (連中は俺にも疑いの目を向けていた。あのヘンな機械を使って初めて俺を一般人と認識していた)  つまり、封鎖部隊が言う猛獣とは人間と区別の出来ない存在である。彼らは、人間と見た目が変わらぬであろうものに対して、あの銃器の引き金を引くのではないかと晋也は考えた。だとすれば到底許されるものではない。 (大学近くの住宅街が完全封鎖か、あそこには村上の家があったっけ)  早い内に連絡した方が良いかもしれない。  晋也は携帯を手に呼び出しをかけた。コール5回、出たのは聞いたこともない少女の声だ。 『はいはいはーい、佐久間っす』 「……誰だ、あんた」  電話機越しに相手が息を呑んでいるのがわかった。 『あ、あ、あー、あー。オレっすよ、オレ。村上文彦に決まっているッスよー』  鼻でも摘んで出したような声色で、先ほどの少女が返答する。口調を含めて文彦の声色に似せようという努力は微塵も感じられない。 『いやだなー、オレは村上文彦じゃないッスかー。なんなら証拠を見せてもいいッスよー、電話じゃ見せようもないけどー』 「だったら付き合ってる女の名前を言ってくれ、それで判断する」  再び沈黙。  ただし、遠くから打撲音が聞こえたような気がした。晋也は携帯の回線を切り、とりあえず何も聞かなかったことにした。  犬上市の特異点は、交差する二つの霊脈が生み出したものである。  本来は交わるはずのない例脈が交差することで特異的な力場が発生し、数万を越える異形の糧となる霊気が大地に満たされたのだ。このような地に生まれ育った人間は魔術能力に覚醒しやすいのだが、特異点の規模に比べて覚醒数は少ない。 (遺跡によって霊脈の力が操作されていること、そして犬上に住まう無数の異形たちが人間の心身を侵食すべき霊気を喰らっていることで、犬上の街は人間が居住しうる空間となっている)  かつて屋島英美査察官が犬上市の保護を訴えた時、彼女はそう主張した。  都市で行われる人の営み、異形の存在が共に三狭山を中心とする特異点の暴走を防ぎ、奇妙な共生関係を成立させている。それは人間至上主義に凝り固まった三課の上層部にとっては衝撃的な内容で、特異点都市石杜に住まう連中の興味を惹く報告となった。  各所より噴き出す霊気に依存すれば、異形は凶暴化しない。他所で凶暴化した異形でさえ犬上市内の特異点で安置すれば瘴気が抜け、異形が無害化する可能性さえある。それらは以前より各種の術組織などでも繰り返し訴えられていたことである。 (犬上の地に旧くからの異形封印がたくさん安置されていたのは、そういう理由からだ)  良質の霊気は、すなわち良質の精気である。  無尽蔵の霊気が供給される犬上の地は、組織的な犯罪活動を行う異形の手に落ちれば恐ろしい事になる。だからこそ日本に幾箇所か存在が確認されている特異点は旧来の術組織によって厳重に封印が施されていた……犬上もまた例外ではない。 (いや)  三狭山の斜面を登り、神楽聖士は歯を食いしばった。先に派遣した配下の者から連絡が途絶えており、彼は自身の策が要所要所で邪魔されていることを自覚せざるを得なかった。 (犬上の霊脈は魔人によって管理されたものだ。東夷と呼ばれる魔族どもを従え、明王の名さえ与えられた強大な魔人にだ)  戦前まで、犬上の街は一種の隠れ里として扱われていた。戦争の疎開先として人々が押し寄せ街が開かれて、犬上の地が特異点だと知れたのだ。百余年を術師として過ごしていた神楽がそれを知ったのは、三課という組織を立ち上げる前後だった。 (魔人が統べる特異点ならば奪っても問題はない、人間至上主義者どもを味方につける理由にもなる。比良坂道標逆鉾は、あらゆる魔力を遮断する因素の武具だ。あの生意気な村上文彦さえ手も足も出せずに虚空に葬られたではないか)  彼の目的を阻むものはなかったはずだ。  犬上の地に満ちる力を我が物とする。練気の奥義を修めた神楽がこれを手に入れれば、人の身でありながら不老となり無尽蔵の霊気をもって犬上の地に生きることが出来る。百余年を生きて己の心身の衰えを自覚し、術師として動くことで数多くの異形や術師を敵に廻してなお生き延びてきた神楽である。 (俺は死なん。死にたくない。これ以上衰えることも、異形どもに殺されることも我慢できん。鍛え抜いた力と技を存分に振るい、俺が俺である証をこの地に残すのだ)  斜面を登る神楽の足に無数の草が絡みつく。まるで神楽が山を登るを阻止せんと動いているようだ。払おうとすれば更なる草が足下に絡み、真夏の不快な熱風が肌に貼り付く。 (そもそも特異点が暴走して何が起こるというのだ)  英美や他組織の出した報告は半分以上が出鱈目だと神楽は考えている。  そもそも過去に特異点が暴走した記録が残っていない。記録が存在しない以上、彼女たちの主張は当て推量に他ならない。ならば、術師として百余年を生きてきた自身の感覚の方がよほど信用できる。そして神楽の術師としての勘は、彼の欲求を肯定した。 (地の経絡に多少の乱れはあるだろうが、それも俺が土地神となれば数年と経たずに安定するはずだ)  巨石のある中腹に至り、草を掻き分けて。  ざぶん。  神楽は何故か海の中にいた。見れば、三叉山を制圧すべく先に派遣した装甲車輌や重武装の部隊も一緒に沈んでいる。彼らの多くは我が身に起こった事を把握できずに海水を呑み、過剰武装の象徴である大口径の銃火器を外すことも忘れて手足を動かそうとして力尽きていく。強大な異形を相手にすることを想定して防護服も重厚なものを着用させたのだ、たとえ武装を外したとしても底が見えぬ沖に放り込まれたのであれば助かる見込みは極めて低い。 (……転移術の罠、だと!)  気付いたところで神楽に出来るのは、救いの手を求める部下を見捨てて一人浮上することだけである。  草むらに隠れるように、無数の影が山の斜面に広がっていた。  それらは蜘蛛の巣のように、あるいは蜻蛉の羽根の葉脈のように斜面を覆っていたので、斜面の全てを網羅しているわけではない。運が良ければ、あるいは運がとことん悪ければ、草原に沈む罠を踏まずに到達することも出来るだろう。 「空からの襲撃もありだよね、あとは木に登って」  霊脈の交点を分断する金剛杵を前に、ベル・七枝が暇そうに呟いた。  なるほど大型ヘリを動員して頭上より人員を送り込めば、人間は彼女の他には桐山サホがいるだけの三狭山は簡単に陥落するだろう。事実、数時間前より民間のものとは言い難いヘリがやってきては、上空にて異形ハヤテの餌食となっている。辛うじてパラシュートで脱出した者も、銃火器を掃射する前に風に流されてしまう。苦し紛れに放り投げる榴弾や遠距離からの迫撃砲も、同様だ。 「携行地対空ミサイルも、結局は一緒っすよ」  まるで中東やアフリカの内戦のように、女子高生を何人も何人も何人も買えるだけの高価な兵器が次々と動員されては無効化されていく。本来は術師を無効化すべく陸路より侵入すべき歩兵のスペシャリストたちも、サホが地に張った影の網に捕らえられてはどこぞとも知れぬ場所に跳ばされ、あるいは三狭山を根城とする無数の異形たちに襲われる。敵と認識する連中は現代日本においては非常識ともいうべき重武装で三叉山を攻略しようとしているが、こと非常識という点においては術師を上回ることはできなかったようだ。 (ハヤテがいる以上、超長距離からの狙撃も不可能。こっちが篭城策しかないって、向こうに思わせておくのが、あたしたちの狙いでもある)  ベルとしては襲撃者を生かす理由はない。  殺人以外に用途のない装備でこちらに襲い掛かっており、しかもその数は半端ではない。たとえ非術師で近代武装で攻めるしかない相手だとしても、明確な殺意を持った上で訓練を積んだ人間を赦すつもりはない。相手を殺すということは、相手に殺されることを覚悟しているのだから。 「可能性としては、ええと」  宙を見つめ、ベルは軽くステップを踏むと後ろ回し蹴りでかかとを繰り出した。魔術の炎を宿した蹴りは、虚空より現れた術師の顔面を砕く。転移術を使って不意を衝こうとして逆に不意を討たれた神楽配下の術師は、そのまま転がされ影の網に飲み込まれて消えた。  地図や航空写真を頼りに転移するのなら、障害物のない場所に転移するしかない。そのような場所は巨石の周辺では限られており、ベルの脚力を持ってすれば即座に対応できる範囲だった。 「サホねーさん、もう少し細かく結界張れないの?」  返事は来ない。  見れば金剛杵を突き立てた巨石のそばに座るサホは、唇を血が滲むほど強く噛み締めている。生命を奪うことを躊躇しないほどの怒りが、文彦が虚空に飲み込まれたことへの怒りが、サホの理性を吹き飛ばしていた。 「……大丈夫っすよ、お師匠なら殺したって死なないし」  そう言うベルとて、文彦が無事だと断じれる確証はない。そうと信じるしか彼女にはできないし、術師たるものいつ死を迎えても不思議ではないという覚悟がベルにはある。事前に文彦に「三日持ちこたえてくれ」と頼まれたからには、何があっても三日間は三狭山を守ろうと決めているのだ。  泣くのも怒りに我を失うのも、その後でいい。      その頃。  再生しかけの文彦は謎の殴打を受けて再び意識を混濁させていた。