第十八話 黄泉道反・前編  どれほどの修練を積もうと、人が人である限り突破できない現実が存在する。  廃工場に転がっている少年は、人を超えるほどの修練を積んでいなかった。  最初の二人を殴り倒した頃の構えを見るに、少しばかりの実戦経験と知識は持っているようだっ た。彼にとって不幸だったのは、彼の知識と経験が必要十分に達していなかったことであろう。廃工場で少年を待ち構えていたのは、十指に余る数の敵対者だった。しかもほぼ全員が長柄の棒を手に していた。  逃げることも適わず。  その状況を考えれば少年が最初の二人を殴り倒せたのは奇跡に近しい成果だった。闘志をむき出しにしている人間を殴って倒すのは極めて困難で危険な行為だ。膂力や動体視力は同い年の少年 少女に比べれば優れ、どこを殴れば人が壊れるのかという情報も持っている。そこに至るまで少年は何度か人間を「壊してきた」し、一対一の勝負なら全員を相手にできるほどのスタミナもある。  しかし人間の腕は二本しかないし、真後ろを視覚で捉えることはできない。片膝を砕かれた状態で破壊力のある蹴りを繰り出すことは不可能だし、指を数本折られた状態で拳を握ることは極めて難し い。少年は、彼が通う学校では敵無しのツワモノだったのかもしれない。事実、彼を慕い彼を祀り上げ、何人もの少年たちが集って群を生み出した。彼は、彼らは自身の肉体的な強さを誰よりも理解し過信していたから好き勝手に振舞った。  強いものは何をしても許される。  そういう驕りがあったのかもしれない。程なくして彼らは類似する思考の集団と接触し、当然のように抗争状態に陥った。暴力とは自身の存在を証明する数少ない手段であり、最強とは彼らの今までの行為に対する免罪符であると信じていたからだ。少年は戦った。正面から戦う限り少年とその仲間は決して負けることはないと計算もしていた。強ければ自然と人は集まり、多少の不足は直ぐに補われる。抗争が長期化すれば、それを力で解決するためには抗争そのものの激化が手っ取り早い手段となる。  廃工場での一件は、その一つの結末だった。  少年達の経験や身体能力では到底及ばぬ存在。それが対立する集団に就いた。今まで自身を祀り上げていた仲間たちは逃走し、少年を売った。自らの生命健康と秤にかけられるほど重い絆を彼らは有していなかった。それだけの話だ。  理不尽な暴力が少年の身体を蹂躙した。  暴力としか表現のできない仕打ちだ。肉体的な損傷よりも、今までの人生で築き上げてきた自我や自尊心を根こそぎ壊滅せしめるような仕打ちの数々が少年の心身を冒した。彼らは加減を知らぬ 暴徒であり、襲うものも襲われるものも引き際を理解していなかった、だとすれば少年が迎えた「人としての最期」は想像に難くないものだった。  少年は、自身が人間であるという認識さえ喪失していた。  怒り、恐れ、後悔、自愛を司るべき感情という感情が消え失せている。心臓こそ今も鼓動を続けて いるが、それさえもあと数時間放置すれば止まってしまう。そういう状況にあって少年は助けを求め悲鳴を上げる気力さえなかった。生物が持つべき本能さえ放棄して文字通りの肉塊と成り果てた少年は、焦点の定まらぬ目で廃工場の天井を見つめていた。  見たところで心は動かない。動くべき心もない。仮に自我が残っていたとしても間近に迫る肉体の死を歓喜の声を上げて迎え入れるような絶望しか彼には存在しないだろう。 (無惨だな)  声が聞こえた。  少年以外誰もいないはずの廃工場に、声が。ぞっとするような低い声が、床より滲み出るように響いた。並みの神経の持ち主なら逃げ出していただろうが、恐れる気持ちさえ少年には残ってはいない。そもそも無意識に死を享受する人間がこれ以上の何を恐れ何を守ろうとするのか。 (喰らうのでもなく恨みを晴らすのでもなく、まして己の技を競うためのものでもなく、世界を滅ぼしてなお足りぬ衝動を抱えているわけでもなく。縄張りを争う餓鬼の小競り合いで心を砕き命を奪うか)  声の主は呆れと怒りを共に込めていた。  凛。  廃工場の床が震えた。正確には、床に広がる建物の影が、闇が震えた。血と吐瀉物と排泄物とその他諸々の何かに汚れた少年を、影は包み込んだ。  凛。  そうして、その街から人がひとり姿を消した。あるいは何かの始まりかもしれない事件が、誰の目にもつかない場所で始まった。  最初の事件は犬上市の外で起こった。  県庁所在地の繁華街に近いコンビニエンスストアの駐車場、放課後や週末ともなれば中高生が立ち寄り騒ぐことで賑わいを見せる場所だ。その日も私服姿の少年達が駐車場の一角で、適当に地べ たに腰を下ろしては他愛のない話で盛り上がっていたという。 「過去形か」 「過去形です」  二十歳を少し過ぎた青年が冷たい声で呟けば、背後に控える屈強の中年が頷く。青年は薄墨色のスーツを着用し、木刀にしてはすこし長い得物を藍染めの鞘袋に収め携行している。背は高く目元は涼しげで、余計な肉が一切ついていない。後ろで束ねた長髪は神職のそれを思わせ、芝居がかった立ち居振る舞いも嫌味ではない。 「異形は退けたのだろう」  被害の程度を聞くことをせず、青年は現場となったコンビニの駐車場を訪れた。事件が起こって数日が経過したが、営業が再開される様子はない。 「退けることは成功しましたが、封印には」 「そうか」  静かな一言だ。しかし中年男は若者の言葉に硬直し、必要以上の汗を顔面より噴き出す。一回り以上年下の青年が発する気配に圧倒され、その先の言葉が出てこないのだ。  凛。  空間が軋み、鈍い金属音が響く。鋼の薄い板を力任せに引き裂くような、そういう音だ。術式に基づいて練り上げられた魔力が解放される時、その出力次第ではこのような音が鳴る。その音を出すとなればよほど強い魔力を有している訳であり、まっとうな術師にとっては驚愕的な量の魔力が放た れたことになる。  青年は無造作に鞘袋を掴むと直上に振り上げた。辛うじてその軌跡を肉眼で追えるほどの速さで 繰り出されたそれは、虚空で何かを捕らえ、次の瞬間青白い火花を散らして大型の獣が地面に叩き 落される。獣としか表現できない異形は唸り声を上げようとするが、直後胴体に不気味な陥没が二 つ生じるや白色の粘液を口中より吐き出し悶絶する。それが青年が鞘袋を繰り出した時に放った衝撃なのだと中年は理解し、獣は戦慄した。  気付けば周囲に人影はない。おそらくこの獣が張り巡らせた結界なのだろう、景色こそ変化がないが明らかに異質な空気が広がっている。この地域を担当する術師である中年男はそれなりの実力者だったが、異形が生み出したこの空間に激しい生理的な嫌悪感を抱き、不快であるがゆえに意識の集中が妨げられている。  これに対し青年の涼しげな表情は何の変わりもない。たとえ魔に属する血筋のものでも結界の中では理性を保つ事は難しい。青年が何らかの対策を講じたのは間違いないことだった。 「封印など生ぬるい」  凛。  今度は青年が持つ鞘袋の内側より音が鳴る。獣の異形が放つよりも遥かに澄み、硬く響く音色が空気を震わせる。一撃でぼろぼろになっていた鞘袋は塵と化し、中身が現れた。  凛。  果たしてそれは木刀などではなく、不可思議な形状の刀剣だった。いや、厳密に言えばそれは刀剣という概念には当てはまらない代物だった。刀身は真っ直ぐでありながら刀ほどの長さを持たず、長巻ほどある柄は振るうことで倍以上の長さに伸びた。ちょっとした小槍ほどもあるそれは刀身から 柄に至るまでが一つの地金より鍛えられた代物で、その光沢は不思議なことに濃い翡翠色を帯びていた。刀身は鍔元というべき部分で三叉に分かれているが、その形はかの有名なる百合花の紋章に酷似し、反り返った両側の刃は鉤爪のようである。 「比良坂道標之逆鉾、霊槍と呼ばれし一振りだ」  凛。  青年が槍の銘を口にすれば槍は震え、再び空間が軋む。異形の獣は槍を見るや狂ったような悲鳴を上げ、青年の視界より姿を消そうとする。槍が持つ本質的な力を感じ取ったのだろう、獣は己が敵に廻した存在の恐ろしさを自覚した。  凛。  逃げ出した異形は、己の身体が一向に前へ進んでいないことを理解した。ひと跳びでビルを飛び越える超常の脚が空を切る。そこには翡翠の光沢を宿す無数の鉤爪が食い込んでいた。鉤爪は背後より現れ、それは虚無より出でる代物だった。鉤爪は次々と現れ、異形の獣を捉える。 「比良坂を上り黄泉路へと逝け、人にあらざる異形よ!」  青年が槍を一閃すれば、獣の異形は虚空に引きずり込まれ姿を消す。異形の獣が抱え込んでいた瘴気や魔力も共に消え失せ、結界も解けはじめた。青年は槍を折り畳み新たな鞘袋に収め、何事もなかったように結界の外に出る。そこは視察予定だったコンビニの駐車場で、現場検証を行ってい た警官たちは突然現れた青年と中年に驚きつつも敬礼した。 「関係はあるが、全てではないな」  切り刻まれたアスファルト、破壊された店舗を一瞥し青年は結論付けた。現場に残る瘴気の種類、たった今消滅させた異形の攻撃パターンを思い出し、呟くと面白そうに地面の傷に触れた。獣によるものと思しき爪跡とは異質の、明らかに鋭利な切り口が数箇所存在している。機械を使用してもここ まで滑らかには分断できない、鏡面のような切り口が現れる。 「まるで影使いの技ですな」  かつて村上文彦と共に仕事をしたことのある中年は、青年が見つめる先に視線を向けた。文彦が好んで使う影の爪は厚さを持たない二次元の刃であり、素材の硬度や摩擦力そして粘度など関係なく切断することが可能だ。雨水を立方体に刻み、今のようにアスファルトをこれ以上ないほど滑らかに切り、それらは影使いの特異的な能力の一つとして広く知られている。 「元素使いが真似した可能性もあるが、影使いが関わったと考える方が理解するのは楽だ。近隣で活動する影使いは誰だ」 「それは」  中年男は沈黙した。  影使いはその特性上、三課でも微妙な立場にある。同じ組織にありながら半ば監視体制下に置かれ、絶対数と活動領域は日に数度に本部へと報告されている。それが可能なのは影使いの術師が 基本的に少数で、その学習体系が整っていない点にある。影使いが増えるのは偶発的な事故に等しく、多くの場合は発見と同時に思想教育を施すか他の術系統に転向させている。  だから三課の監視体制下にある影使いの数は極めて少ない。第一線で活動している術師に限っては片手で数えられるほどだ。青年はその事情を熟知し、その上でこの問いを発したのだ。 「近隣で活動する影使いは、その……」 「犬上支局の村上文彦。彼以外にいないだろうな」 「仰る通りです」  中年男の回答に満足したのか、青年は槍を収めた鞘袋を杖代わりにして地面を突いた。 「犬上支局の村上文彦を容疑者として武装解除を命じ同時に拘束せよ、彼には一般市民の虐殺と建造物破壊の容疑がかけられている。必要なら術式および器具の使用も許可する」 「彼は事件当日、三課の指令で石杜市に出向しております!」 「奴ほどの影使いには距離など関係ない。影使いは転移術を得意とするのを知らぬとは言わせないぞ」  だったら転移術を使える影使いは全員容疑者ではないのか。  ごく当たり前の疑問は、中年男の口より出ることはない。  それこそが青年の目的であり、青年にとってはこの事件は単なる口実に過ぎないのだ。 (村上文彦を始末し、犬上の地に踏み込みたいのだろう)  あるいはこの現場で起こった事件さえ、青年によって引き起こされたのかもしれない。青年、神楽聖士という男はそれだけのことを過去に何度か行っている。 「我々に残された時間は少ないのだ」  さも深刻そうに、しかしどこか他人事のように査察官である神楽は唸ってみせた。中年男は意見を飲み込み、それに従うしかなかった。  ひとりの少年が店の前で倒れていた。  衣服はぼろぼろで、怪我の跡も多数見られる。自分と同じ特異体質でなければ間違いなく中学生だろうと、文彦は認識した。 「んー」  まっとうな中学生は背中に刀傷など存在はしない。まして全身より瘴気を放つことも。 『どうします』  開店前の掃除に現れたルディが事情を察知して少年を見るが、彼が目を覚ます気配はなかった。  柏原祐にとって不幸だったのは、少しばかり彼が幸運だったことである。  祐は幸運にも身体能力に恵まれ、幸運にも自分より強い存在に遭遇せずある程度大きく育ち、決定的な破滅が来るまでその状態が持続した。徒党を組み、それが壊滅する瞬間まで彼はこの世に自分より強いものがいるなどとは思いもしなかった。  表現を変えれば、救いようのない愚か者である。  そして彼は生き返った。 「馬鹿は死ななきゃ直らねえって言うけどさ」  十人前のカレーライスを平らげていく祐を前に、村上文彦はそう評価した。中学生にしては体格が大きく、骨も太そうだ。目つきが鋭いのはここ数年間の生活が原因だろうが、眼の光は濁っている。もとより粗暴な性格ではあったが、身中に瘴気の類を宿しているせいか顔つきが極道映画の雰囲気に近い。 「生き返ったら、死んだ意味がないよね」 「ああ」  己の昼食分を奪われたためか、文彦の隣で小雪がしかめっ面で祐を睨んでいる。なるほど彼の形相は凄まじいものがあるが、身中より発する瘴気は雑魚に毛が生えた程度。顔のいかつさも、異形 そのものに比べれば祐の顔など滑稽な部類だ。店の中には既に通報を受けた三課の職員や一般術師が詰めており、彼らは祐の胃袋が満たされるのを待っていた。  そんな彼らの思惑を知ってか知らずか、祐は十皿目を舐めるように平らげた。満足しきった顔で祐 は空となった皿を文彦へと突き出し、ドスのきいた声でこう言った。 「まあまあの味だったぜ。それと服替えてえから金くれ、十万でいい」  直後。  何の手加減もなく繰り出された文彦の拳が祐の鼻骨と前歯全てを粉砕し、鼻血を噴いて祐は意識を失った。  柏原祐にとって不幸だったのは、少しばかり彼が幸運だったことである。  少しばかり幸運だったため、お節介な異形と同化して生き延びてしまった。  どうして生き延びたのか後悔するほどしこたま殴られ、祐は己が人間外の存在に変じてしまったことを強く自覚した。  その魔物には器となるべき身体がなかった。  犬上や石杜のように濃密な瘴気が溜まる地ではなく、地脈より僅かに漏れる力がそれの存在を辛うじてつなぎとめていた。このままでは瘴気も薄れ始め、廃工場に残念する怪異に成り果てる……そう覚悟を決めていた頃だ。  数人の少年が、廃工場に出入りするようになった。  生命の力は溢れているが、それを使うべき場所を見つけられぬ少年達だ。不安定な心身の力を、ある意味原始的な方法で発散するしかない、ケダモノのような少年達だった。やがて廃工場で血が流れ、柏原祐という少年が半死半生の姿で廃工場に取り残された。 (魂が砕け、自我を維持するものが失われつつある)  そこにあるのは、もうじき心臓が止まる肉体だけだ。祐という少年に特別な思いがある訳ではない。放って置けば、魔物が願ってやまなかった瘴気が手に入る。ここまで肉体と精神が破損した人間では、特異点を生み出すこともできない。健康的な人間が宿してこそ特異点は無尽蔵の魔力を生み出せるのだ。 (……)  魔物は廃工場に拡散しており、失われつつある祐の生命を受け止めていた。この世に出でて十四年しか経っていない少年への同情があったのかもしれない。魔物は少年の内部に潜り込み、砕けた魂を自らの身をもって補うことにした。  そんなことが可能だと魔物は考えてはいなかった。ただ、そうしなければ祐が助からないのは理解 していた。縁など無いに等しい少年を助けるために、魔物は自身の存在を賭けていた。助かったとしても自身の存在は消えてしまう、自殺行為にほかならない。  では何故?  自問する時間は魔物に残されてはいなかった。魔物は拡散し、収縮し、砕けた陶器をつなぎとめる漆のように広がって、そうして魔物は魔物ではない別の存在になった。  柏原祐が蘇って最初にしたことは、彼のこれまでの人生と変わらない行為だった。やられたら、やり返す。  単純極まりない論理に、返り討ちという概念はない。達観すべき人生を送っているわけでもない。ぼろぼろの服のまま祐は駅前の繁華街に現れ、溜まり場となっているコンビニの駐車場で標的を見 つけた。  十数名。  まとな人間がひとりで喧嘩を売るような条件ではない。彼らは祐が無事であることに驚き、その服装がボロボロだったことで笑い、平静を保とうとした。滑稽さと異様さが混在する祐は不気味であり、しかし退くことは彼らの選択肢にはない。  祐が繰り出す拳を、少年の一人は金属バットで叩き砕こうとした。  凛。  空気が震えた。祐の右腕より闇色の花弁が無数に生まれ、金属バットと少年と、その背後にいた数名の少年と、彼らが背にしていたコンビニの窓と壁を一瞬で通過した。何の抵抗もなく、鳥の影が地面を走るように闇色の花弁が通り過ぎた。  直後、恵まれた体格より繰り出された祐の拳が正面の少年を捉えた。拳の先端に空気の壁が圧 縮し、それを突破するような感覚に戸惑いながら放たれた拳は少年の身体を文字通りバラバラにした。包丁で切った牛乳寒天のように肉をぶるぶる震わせながら、その哀れなる少年は砕けた金属バットを不思議そうに見つめながら得物と同じ運命を辿ったのだ。  少年だけではない。  闇色の花弁が撫でた空間が同時に吹き飛んだ。アスファルトには賽の目の溝が刻まれ、暴風のような衝撃波が人体のパーツを散らしていく。 (ナンだよ、これ)  あまりにも現実味のない破壊に、祐は自分のしでかした事が理解できなかった。出来の悪い特撮映画のような破壊劇では実感も湧きにくい。それ以上に祐にとって不思議だったのは、暴力を振るうことでの爽快感が失せたことだ。道端の草を引きちぎるような、その程度の感慨しか抱けない。 『魔人となり果てたか、哀れな小僧だ』  声は背後から。  鈍い痛みに振り返れば、拳が飛んでくる。真夏だというのにコートを羽織った女が短い刀を逆手に 構え、転がった祐を見下ろしている。いつの間にか周囲に人の姿はなく、コート姿の女しかいない。二十歳を過ぎた頃だろうか、幾つもの修羅場を潜り抜けてきた冷たい視線に初めて祐は恐怖を抱いた。  結界。  凄惨な犯行現場は結界の中に取り込まれた。だが祐はそれが何の意味を持っているのか理解していない。女も祐に説明しようとはせず、破壊の爪痕を一瞥しただけだ。あまりにも鋭すぎる地面の 裂け目は、金属の刃物では再現できない代物だ。 『しかも影の刃を使ったか、阿呆が。影法師を狙う神楽が攻め込む絶好の口実を貴様は作ったわけだ』 「な、なんのことだよ」 『知りたければ犬上の街に行け、どのみち貴様のせいであの街は戦火に呑まれるのは必至。貴様の尻拭いができるのも、影法師くらいだろうさ』  屠殺される豚を見下ろすような目で女は呟き、祐の腹を蹴る。尋常ではない衝撃に祐は意識を失い、同時に霞のように姿が消えた。転移の術である。 『……あとは、せめて時間稼ぎをすることか』  女は頭をかき、内懐より一枚の紙片を取り出した。紙片は一頭の大型獣に変じ、やはり姿を消す。そうして女は地面に散った人間の部品を眺め、一度だけ舌打ちするとその場を離れた。  女が張った結界が解け一般市民が悲鳴を上げるのは、それより半日後だった。  携帯端末が小刻みに震える。  誰かが自分にメッセージを送ったのだろう。村上文彦は思い出したように電源を切り、端末を後ろに放り捨てた。 露を含んだ夏草に端末は隠れ、そのまま消える。もはや拾う気はないと、顔に出ていた。 「いいのかね」 「どうせ読む暇もねえよ」  丈の長い郊外の草原。殴りあうにはやや遠い間合いに二人は向かい合っている。一人は文彦、そしてもう一人は不可思議なる槍を持つ青年。神楽聖士その人である。三課査察官として絶大な権力を持ち、自身もまた強力な術を使う。多くの術師を部下に従え、その背後には財界の大物もいるという。  その神楽が、他に人も連れず文彦と対峙している。 「市内の要所に子飼の術師を動員して、フリーの連中ひっくるめて術師を押さえ込んだか」  犬上市には数多くの術師が存在する。たとえ神楽が三課に大きな影響力を持ったとしても、犬上市を長時間封鎖できるほどの手駒は揃っていない。口実を作って犬上に踏み込んだはいいが、その 強引さは既に三課本部でも問題となり、重武装の術師数十名が市内に展開している事実は神楽の 立場を刻一刻と悪くなっている。そんな中で神楽は弁解もせず供も率いず文彦の前に立っているのだ。 「も少し周到に進めると思ったんだけどよ」 「力を手に入れてしまえば些末な問題だ」  槍を、比良坂の名を有す逆矛を引き抜いて神楽は答えた。全てを手にした、あるいは何かを超越したものだけが持つ独特の笑みを浮かべている。  他者への侮蔑を、隠そうともしない。 「そんなに力が欲しいのか」 「欲しいのは永遠の時を不自由なく暮らせる程度の力だ、多くを求めるつもりはないぞ」  それが慎ましい願い事であるかのように、神楽はうそぶく。 「だからって百年近く生きていて、まだ飽きねえのかよ」 「……気付いていたのか」  呟く文彦に、にたりと表情を歪める神楽。  見た目こそ二十に届くかどうかという若者だが、実は神楽は何十年もその姿を維持している。人間の術師としては極めて高い水準にある。気功の使い方を理解しているため、それが続く限り肉体の活性を保つことができるのだ。三課では最年少の査察官と言われているが、その設立に深く関わっ ている。 「石杜あたりじゃあ調査も相当進んでたぜ。仙界が封じられてる以上、永遠の命を欲しがる阿呆に残された手段は限られてるからな。特異点を直接取り込んだらバケモノになっちまうが、霊脈の力を制御した上で独り占めできれば不老不死の上に無敵だろ」  犬上の地にある霊脈の力を我が物にできれば、神楽はかの魂を食らうものに匹敵する力を身につ けられるのかもしれない。しかも人間の本質を残したままでだ。 「てめえがおれの親父を始末したのも、霊脈を自分のものにしたいからだ。その祭器、比良坂の逆鉾は本来霊脈を操作するための代物だからな」 「仕方がないだろう、わたしは安心を得たいのだ。誰かの支配下にある霊脈の力に自分の生命を委ねる真似など、とてもできない!」  逆鉾を旋回させ、神楽は叫ぶ。  凛。  文彦の背後に虚無が生まれ、無数の鉤爪がその身体を捉えた。  逃げようと思えば逃げられるはずなのに、文彦は動こうとしない。母と妹が、それに支局の面々が神楽の部下に狙われているというのもある。が。 (そんなことで諦める男かね、こいつが)  今までに幾つもの企みを潰してきた文彦が、この程度のことで観念してしまうのか? そう思いつつも神楽は逆鉾を掲げ、文彦を虚無に導こうとしている。一切の武装を解除して出頭してきた文彦は術封じの札も貼り付けられ、転移の術で逃げることも叶わない。  だというのに。 「霊脈を独占しようとすれば、暴走は免れねえぞ」 「暴走した瞬間のエネルギーが欲しいのだ……多少の犠牲には目をつぶってもらう」 「開放された地脈の暴走は他地域の霊脈も連鎖的に暴走させるのを知った上でか!」  一呼吸の間が空いた。 「そんなものは多少の犠牲ではないか?」  熟慮した振りをして、しかしあっさりと神楽は己の本性を露とし。  次の瞬間。  轟。  三叉山が揺れた。山は揺れ地は響き、空気は震える。大地が生命を持っているかのように鳴動し、何も知らぬはずの市民はそれが異変であることを察知した。  異変の中心部である三叉山、要である巨石には光り輝く金剛杵が突き刺さっている。文彦が持てる力の全てを込めた金剛杵は自らの役目を果たすべく巨石を貫き、それが犬上市を支える地脈霊脈に干渉を始める。  地が震えた時、犬上に住まう異形たちは自らに供給された無尽蔵の霊力が途絶えたことを理解した。 (三叉山の遺跡が封じられた……いや、霊脈の交点が解かれた)  大地や風にはいまだ大量の霊気が宿ってはいる。数日ならば耐えられる程度の蓄えである。 (だが数日を過ぎれば)  この地に住まう異形は人間に牙を剥くだろう。  携帯端末は、その回線を開いていた。  無造作に見えて細心の注意で放り投げられたそれには高性能の集音マイクとカメラが備えられ、文彦と神楽の会話を逐一報告していたのだ。 「貴様ぁ!」  鉤爪に囚われ虚無に消えつつある文彦は、神楽の形相を見て薄く笑う。 「この地の霊脈は切り離した。バケモノ連中は石杜に頼んであるから心配はねえ……残念だったな、その逆鉾は役に立たねえ。三課はてめえの企みに気が付いた。霊脈を元に戻す方法はおれが 知ってるが」 「!」  何のためらいもなく文彦は虚無に身を預け、あっさりと姿を消した。虚無はしばらく存在していたが、それからゆっくりと宙に解けて消えた。