第六話 七枝ふたたび  ベル・七枝の朝は、割と早い。 「腑抜けをフヌケと言ってなにが悪いっ、悔しかったらガールフレンドの処女膜ブチ抜いて見せろやゴルア!」 「テメエそれが母親が言うことかよっ、もう一遍人生やり直してきやがれっ!」  店舗兼住宅である建物を土台より揺るがす振動が、下手な目覚まし時計など適わぬ衝撃で睡眠もろともベルを吹き飛ばす。メンコのように布団ごとひっくり返り、ヨガ行者の如き姿勢で着地しては眠り続けることなど到底出来るものではない。 (毎朝毎朝、飽きないですよねえ)  夏休みということもあって、学校に行く必要はない。  奇妙な方向に曲がったままの首を強引に元に戻し、眠い目をこすりながら衣装ダンスから下着を一セット適当に取り出すと再び布団に潜り込んでごそごそと動く。頭も足もすっぽり隠した亀の甲羅のような状態から腕がにゅっと伸びて、あまり良い趣味とはいえない柄のパジャマをぺぺっと吐き出す。そのまま畳の上に指を這わせ、やはり布団の横に脱ぎ捨てていたスウェットに手を伸ばし一気に引き込む。  その間、わずか十秒。  階下の厨房で凶暴なる母子が天地も砕かんばかりの一撃を繰り出す前に、着替えを済ませたベルは布団を跳ね除け着替えもろとも片付ける。  下宿を始めてから半月が経過するが、家主である村上深雪と文彦はどうしようもない理由で毎日喧嘩をしていた。 (むしろ殴り合いたくて、勝手に喧嘩を始めている気もしますが)  ドアノブに手をかけた直後、厨房より近所一帯に二度鳴り響くのは鈍い金属音だ。  あえて文字にすれば「ごいん、ごずん」という擬音が当てはまる。  例えていえば、年代物の中華鍋で人間の後頭部を強打した時の音に似ている。  もちろん、ただの強打ではない。陸上のハンマー投げ選手もかくやという回転と体重移動に基づいて加速され、何の躊躇もなく至近距離より炸裂させなければ、ここまでの打撲音は生まれない。それをやってのけるのは、ある意味で芸術的とさえいえる。 「ベルおねえちゃん、ゴハンどうする?」  少しばかりの沈黙の後に、階下から聞こえてくるのは文彦の妹、小雪の声だ。  手には、直視したくない半固体がべっとりと付着した中華鍋。とりあえずそれが何であるのかを認識しないようにしながら、ベルは階下に降りることにした。  近年術師の業界では専門化が大きく進み、チームを組んで事件に当たるのが主流となっている。  異形の存在を察知する者。  結界を張り異形の動きを封じ被害拡大を防ぐ者。  攻撃を行い異形の戦力を削ぐ者。  防御を行い異形による破壊活動を食い止める者。  治癒を行い異形によって負傷した民間人を回復させる者。  封印を行い異形を拘束し処分する者。  一個の術師が全ての仕事をするのではなく、それぞれの分野に精通したスペシャリストが手を組み行動することで最大の成果を発揮するのだ。全ての分野を一通りこなす万能型選手を育成するのは時間がかかるし、多くの場合その能力はスペシャリストの足下にも及ばない……三課などの組織において限られた時間で訓練する以上、選択の余地はない。 (でも、専門化が進むことで生じる問題もある)  ベル・七枝はその方針に対して疑問を抱く一人だった。  たとえば突発事態への対処能力は、万能型選手に分がある。  多人数で行動するため、小回りが効き難く融通も悪い。  一人でも行動不能となれば、補充人員が来るまで活動できなくなるチームも珍しくない。知恵のある異形たちはそういう「要」とも言うべき術師を真っ先に襲い、難を逃れている。三課もこの事態を重く見ているが、彼らの下した対処法は「要となる術師を増やす」というものであり、問題そのものの解決になっていない。  なによりも。  業界においてトップクラスと言われる術師  たとえば「魂を喰らうもの」や「華門」など  が例外なく万能型の術師という事実がある。彼らは個々の術式においてスペシャリスト達の水準を遥かに超える実力を発揮し、複数分野の術式を組み合わせたものを駆使している。 「つまり術師としての頂点を目指すなら、やれるだけの事をしないといけないと思うんです」  ベルは、そう力説する。 「あらゆる事態を想定して、これに対処できる術師。誰が欠けても任務を遂行できる工作員。どんな苛酷な任務でも生還できるような凄腕になりたいんですよ」  そう言って村上文彦に特別指導を願い出たのは、下宿し始めた晩のことだった。  なにしろ実戦経験豊富な術師という点で文彦の存在は貴重である。三課という組織だけではなく、ベルが知る限りにおいてでだ。  影法師、村上文彦。  術師としての実力は勿論、高い。彼が潜って来た実戦も、尋常ではない。ベルと二つしか歳が離れていないというのに、この差は一体なんだろうかと思うほどだ。 「強くなりたいんです。そのためには、どんな恥ずかしいことも……どんなエッチなことも耐えてみせますからっ!」 「そんな修業はねえよ」  ひどく冷めた口調で文彦は呟いたという。  術師の訓練は様々である。  ひたすら理論追究に励むもの、筋肉トレーニングを課すもの、滝壺にて悟りを開くもの、熾火の上を走るもの、飢餓状態に自らを追い込むもの。科学的な裏付けなどほぼ意味を持たないと言われている業界だから、誰もが試行錯誤で訓練方法を編み出す。  それでも歴史だけは無駄に長い業界なので、経験から「効果あり」とみなされた手法が多く用いられているのもまた事実である。 「同期で三課に入ったコは、いっぱいエッチな事して魔力を高めていったって言うんです」 「真に受けるな」  特訓最初の日にベル・七枝は至極真面目な顔でそう言い、村上文彦もまた真剣な表情で返した。そこは文彦の家からそれほど離れていない運動公園の一角で、ジョギングコースから少しはなれた茂みだった。元より人通りが多いわけではない公園の、しかも早朝ということもあってあたりに人影は全くない。  特訓してほしいというベルの願い事について文彦は拒む権利があったが、彼はそれをしなかった。その上で始まった特訓ではあったのだが、この文彦の言葉にベルはさも意外そうに声を出し、己の不満をあらわにした。それは「行為」を否定されたことではなく、同期の友人が学んだ事について文彦が否定的な見解を示したからである。 「エッチしても強くなれないんですか」  文彦は直ぐには答えず「ああ、もう」と顔に手を当て何と説明すれば良いのかと考えている。もちろん、そんな気の利いた回答が直ぐに出てくるはずもない。 「エッチしても強くなれないなら、ただのセクハラです。でも、あのコは本当に力が上がってたんですから、嘘はついてないんです!」 「……炎術師が交合しても意味ねえんだよ」  とりあえず間違っていない事を口にする文彦。  色々まくし立てていたベルはぴたりと止まる。 「交合が意味を持つのは練気で術を組み立てる連中だ。生気とか霊気を繰る連中は自身の力を増幅させたり、力を回復させる目的で交合しているが  練気の使い方も知らねえ奴が交わったところで、子宝に恵まれるのが関の山だ」  そもそも炎術とは地水火風空の五大に基づく元素術の一派であり、本来は複雑な詠唱と結印そして精神集中で力を発揮する。元素術師の例に漏れず理屈っぽい連中が多く、体術を軽視し自らの頭脳で術を組み立て敵を倒すことに至上の悦びを見出しているように思われている。 (しかるに)  説明を受けて愕然とし突っ立っているベルを見て、文彦は言葉に出すことなく嘆息した。  ベルは炎術師でありながら元素術の理論構築には興味を持たず、フィーリングで炎を生み出しては体術と組み合わせて肉弾戦を挑む。元素術師が基本的に持つはずの魔杖も持たず、整然と組み立てた呪文も用意しない。気功使いとしての訓練を受けていれば、今頃は一人前の術師として十分な活躍をしていただろう。  何故、彼女は炎術を修めたのだろうか。  それが文彦にとって最大の疑問だった。 「大体その訓練するってことは、おれと交わるんだぞ」 「そういえば……そうですね」どれほど考えたのかは知らないが、はたと気付く「やっぱり堅実に修業します」  ぺこりと頭を下げるベル。  それはそれで問題ないはずなのだが、無意識に蹴り倒す文彦だった。  符がある。  紙ではなく、何らかの繊維を編んで作った長方形の布だ。金属光沢があるのは、細く叩いて糸にした銀を織り込んでいるからだ。遠目で編み目が見えないのは、それが極めて細かく複雑に織り込まれたためなのだろう。  符には、紋様が描かれている。刺繍されているのでも、織り込まれているのでもない。漆に似た顔料を、毛筆で描いているのは理解できる。それが果たしていかなる顔料で、いかなる材質の毛筆で描いたのかは想像もつかない。  片手に余る大きさのそれを、文彦はベルの胸元に貼った。糊付けしたのでもピンで留めたわけでもないのに、符は吸い付くようにベルのスウェットに張り付いた。試しに身体を動かしても、符は微動だにしない。理屈を考えても仕方がなく、そういうものだと納得してベルは文彦を見た。  これはなに?  口に出さずとも理解できる質問なので、目線で訴える。  即答せず、文彦はベルと似たようなスウェット姿で準備運動を済ませる。 「言葉で説明できるほど、おれは頭良くねえからさ」  身体で覚えてもらう。  文彦はそう告げると、武道家のように構えた。  するとどうであろう。  体術の訓練を受けているとはいえどちらかといえば足技中心だったベルが、分野違いに等しい構えをとった。それは文彦と全く同じものであり、そのタイミングも完全に同調していた。 「……え」  自分のものではない感覚、しかし間違いなく己のものである肉体の反応に驚きうろたえるベル。普段は使わないような筋肉が盛り上がり、血液の流れも一気に変化するのを知覚している。 (同調している?)  否。  それはむしろ「支配」に近かった。呼吸のタイミングも、心臓の鼓動までもが文彦の支配下にあるようだった。神経に負荷の大きい呼吸と鼓動のリズムとは裏腹に、ベルの心身にこれまでにない魔力の高まりを自覚する。 「練気と結印、それに詠唱。感覚を掴んで、それを無理なく行えるように身体を鍛えてもらう」  魔力の引き出し方と、その操作方法を知る。その上で、これを可能とするための基礎がどの程度必要なのかベルに自覚してもらう。  それが文彦の目論見だった。  影使いとしての文彦が炎術師に教えられるのは、術の基礎部分だけである。だが、実戦で最も求められるのは基礎であり、真っ先に鍛えなければいけない部分でもある。だから容赦しない。 「まずは、練気!」  叫ぶと全身を巡る血液が一気に勢いを増し、同時に身体の内圧が膨れ上がる。ベルは鼻血を吹き出し、全身の毛穴より血の汗が流れ落ちる。筋肉の何割かが断裂したかもしれない。激痛がベルを襲うが、悲鳴を上げようにも身体は動かない。 「続いて結印!」  ベルが知る誰のものよりも素早く正確に指と腕が動く。それだけで腕の筋肉と筋が、普段使わない部分まで曲がったり伸びたりするために構造上の限界を迎え、指関節の軟骨に亀裂が生じ爪が割れる。更に、極限にまで高められた魔力が身体の数箇所に収束し、それがベルの身体的許容量を越えているものだから、その箇所より噴水の如く血が噴き出す。鼻血は既に止まっていたが、こちらの出血量は身体機能を極端に低下させ生命さえ危機に陥らせるほどのものがあった。文彦はそれを自覚していたが、これにもかまわず作業を続ける。 「詠唱!」  舌が動く。  空気が振動を伝えるより早く、正確無比な舌と咽喉が次の動きを完成させ新しい振動を生む。複雑に重なった言葉はもはや人間の発する音声を超越し、衝撃波さえ生みそうである。無論そのような喋りを普通の人間が出来るはずもない。ベルの口中は血まみれとなった舌が出たり入ったりしつつも動きを止めようとはせず、溢れ出る唾液は気管に垂れて咳き込もうと刺激を送る。もちろん、咳をして唾液を吐き出すことなど出来ないから地獄の苦しみが更に追加されるわけだ。  術はまだ発動していない。  発動してはいないが、ベルの心身は限界を迎えていた。ここで術を唱えれば、まず間違いなく彼女の肉体は術式の反動に耐えられないだろう。文彦はそこで全ての動きを止め、ベルの胸元より符を外す。途端にベルは糸を失った操り人形の如く地面に崩れ落ちたかと思うと痙攣を始めた。  口からは泡を吹いている。  身体の自由を取り戻したはずなのに起き上がることも、喋ることも出来ない。現時点で既に生命の危機を迎えており、下手に動かすことも躊躇われるほどの有様だ。 「つまり、みっちり鍛えないと術に耐えられないってことなんだが」  それより先に病院だと、文彦は慌ててベルを転移させるのだった。  紙飛行機があるとする。  何の変哲もない紙飛行機だ、それこそ新聞の折り込みチラシを使って作ったものでもいい。折り方も工夫できるだろうが紙飛行機の限界を超える性能を発揮することは難しい。大きさも普通だ、意表をつく必要はない。  その紙飛行機に、どういうわけかジェットエンジンを搭載してみる。超音速攻撃機に使っているようなものを、そのまま搭載するのだ。大きさとかバランスの狂いなど無視して、とにかく飛ばそうとする。  紙飛行機を。  音速で飛ばすのだ。 「すると紙飛行機はどうなると思うデスかぁ?」  パトリシア・マッケイン博士は笑顔で迫る。額に青筋が浮かんでいなければ赤面もするだろうが、こういうときの彼女が激怒していることを村上文彦は経験から理解していた。 「加速にさえ耐えられず、紙飛行機は即座に潰れる。下手をすれば空気取り入れ口に吸い込まれて消し炭に」 「いえーっす、多分間違いなく正解デース」  きちんと解っているデスねー。  幼児を褒めるように文彦の頭を撫でるパトリシア。ただし、その力加減はアルミ缶を縦に潰すほどである。文彦の頚椎がぐぎぎぎと悲鳴を上げるが、言いようのない恐怖に縛られて文彦は視線を外すこともできない。 「では質問その2デース」  新婚家庭の新妻がとっておきの献立を夫に紹介するような、年齢を考えれば問題ないはずなのに何故かトウが立っているような可愛らしい仕草に明確な殺意をにじませ、パトリシアは真横のベッドを指差した。  真っ白な洗い立てのシーツ上には、全身に包帯を巻きつけ素肌さえ露出していない人間が横たわっている。両手両脚が異様に膨れているのは骨折した部位をギプスで固定しているからであり、よくよく見ればそれらの処置がほぼ全身に及んでいるのがわかる。  出来の悪いロボット、例えるのならガンダムに出てくる水陸両用モビルスーツを連想させる姿だ。  誰であろう、ベル・七枝その人である。  筋肉の断裂、骨格の破損、神経節の破壊、部位によっては内臓の破裂。三課関連の病院に担ぎ込まれた時に心肺機能は停止しており、魔術により身体組織の再生が果たされた現在も人工呼吸器が外されていない。 「それが解ってて、どーしてこんな事したデスかー」  質問ではない。  語尾は上がっていないし、空いた手が文彦の頬を思い切りつねり上げている。ゴム細工のように頬を伸ばしつつ、文彦は他人事のように「それがなあ」となんとも不思議そうに首をかしげている。文彦としては十分に加減をした上で訓練を施したわけで、基礎訓練を真面目に修めていた術師ならばここまでひどい損傷を受けるはずはない。 「ああ」思い出したように手を叩く文彦「精神集中で術を組み立てる炎術師に、いきなり練気を体験させても耐性ある訳ないか」  瀕死になるのも無理ねえや。  爽やかに笑って全てを流そうとした文彦の側頭部を、パトリシアは金属ハンマーで容赦なく殴打した。  その日の夕刻のことである。  寝たきりのベルに意識が戻った。  感じたのは、自分が知らなかった術の世界だ。  限界と思っていた先の領域に、極めて繊細で力強い世界が待っていたのだ。そこに到達するためには何をすればいいのか、ベルは理解した。闇雲に心身を鍛えるのではなく、はっきりと見える目標があるから迷わずにトレーニングを積むことが出来るだろう。  あの一瞬。  自分は術を唱えるまで身体をもたせる事が出来なかった。魔力を増幅し収束させておきながら、それを解放するまで心と身体が耐えられなかったのだ。  なんという屈辱。  小手先気の技術云々ではない。術師としての基礎がはるかに及ばなかったから、この体たらくなのだ。 (治療の専門家が到着するまでの二十時間、指一本動かせない)  応急措置をした術師仲間の言葉が脳裏にて何度も繰り返される。それは、現代医療では手がつけられないほど彼女の身体が損傷していることを意味している。術で身体機能を再生させたとしても、復調するまでにはしばらくの時間を要するだろう。  その時間。  その時間が惜しかった。身体に残る感覚、それを己のものとするためには身体を動かし術を組み立てたい。寝たきりでは、せっかく手に入れた感覚を忘れてしまう。喪失する前に自身のものとしなければ、文彦がそれを施してくれた意味が無くなるのだ。 (動け、私の身体っ)  言葉にならない咆哮を上げる。  言葉にもならず、まして自発呼吸もできない身体では声も出ない。悔しくて涙を流したくても、それすら適わない。  と。 「身体に巡る力の流れを感じるか」  声が聞こえた。  視線の届かぬ場所に立っているのか、文彦の声だ。そう言われ、ベルは自身の身体を巡る幾つかの力を知覚した。それは元素魔術を行使するための魔力であり、気功使いたちが源としている生気の流れだった。かつての彼女ならば気付かなかった力の流れ、それこそ細胞の一つ一つに至るまでの経路というものを知覚する。 「知覚できたら、それを操作してみろ」  呪文も結印でもなく、精神集中のみで。  それは術師が最初に訓練する内容に近かった。文彦の言葉は最小限で説明不足だったが、なぜかベルは彼が言わんとすることの詳細を把握することが出来た。件の訓練で身体が同調した際に、ひょっとしたら気持ちもつながったのだろうかと苦笑し、文彦の指示通りに魔力の流れを操作する。  その行為自体は極めて単純で、身体機能が停止したベルにも出来ることだった。するとどうだろう、魔力の流れを変化させると手足の感覚が蘇り指先が動き始めるではないか。ベルは驚き、更に魔力の流れを変化させる。破損した神経に替わって魔力が身体を動かしているのだ。  気付けばベルは立っていた。  医者が見れば悲鳴を上げていたに違いない、そういう状態にもかかわらずだ。 「それが『練気』だ」  少しだけ満足そうに文彦が頷く。  彼はベルの足下に手を伸ばし、西日を受けて濃く長く伸びる影にその手を深く沈めた。リノリウムの床に差す影がコールタールのように強い粘り気をもって大きく揺れ、そこに文彦の腕は肘まで深く深く沈むのだ。文彦は何かを探るように腕を動かしていたが、直ぐにそれを探り当てたのか一気に引き抜いた。  影より現れるのは、もう一人のベル。  怪我はなく、またその姿についても何も変わらない。鏡のように瓜二つの姿を持つそれは、影や鏡像と違い立体である。その首根を掴むようにして文彦は、それをベルの身体に押し当てた。  直後。  ベルの身体に巻きつけられたギプスが全て砕けた。縫った痕跡も全て綺麗に消えている。骨も内臓も神経も、何事もなかったかのように元通りとなっているのだ。いや、それは単純に「再生」という言葉で片付けられるものではない。 「こんな術、知りませんでした」  心底驚き、己の手足を動かしつつ文彦を見る。 「元は呪詛用の術だし」  さらりと言う文彦に、硬直するベル。 「感覚を、己のものに出来るか?」 「努力します」  何気ない問い掛けだったが、ベルは力強く返事した。  自分に足りないものを自覚しているから、何をすべきかを理解しているから、余計なことは言わない。ベルの決意に気付いたのか、文彦は嬉しそうだ。 「そっか」 「はいっ」 「じゃあ、今度は遠慮なしに最後までやるか」  沈黙が生じた。  ベルは笑顔のまま硬直し、そのまま数歩退く。 「あの……さっきの体験だけで十分っす」  できるだけ穏便に断りを入れようとして。  絶叫が七回目を過ぎる頃には病院関係者は誰一人として現場に駆けつけようとはしなかった。  階段を下ることも、ベル・七枝にとっては立派な訓練だった。  神経の流れではなく、魔力の流れで身体を動かす。手足を棒のように振り回すことならば容易でも、十指を同時に動かし細かな作業を行うのは極めて難しい。  身体を巡る魔力の流れをコントロールし、その上で日常生活を送る  それが、村上文彦がベルに課した次の訓練内容だった。  それは術を組み立てるよりもはるかに複雑で繊細な作業である。誤まればパジャマのボタン一つ外すだけで力を使い果たし、何も出来なくなってしまう。事実、最初の日はパジャマを脱ぐ途中で力尽きた。しかし現在のベルは驚くほど早いペースで魔力操作のコツを掴み始め、十日過ぎる頃には朝食を済ませるまで魔力が続くようになっていた。  ただ走るだけなら、数キロを全力で駆けても呼吸が乱れない。  周囲は「劇的な変化だ」と驚くが、ベルにしてみれば「今まで片足で跳ねていたのを、両脚で歩き始めただけ」という感覚である。  事実彼女の魔力そのものは以前と比べても極端に増大したわけではなく、その出力は平凡なものだ。三課の職員達も調べたが、明確な変化を見出せなかった。だからベルがピアノで「猫踏んじゃった」を演奏した時にも、彼らは文彦が驚嘆した理由に気付かなかったし、ベルの笑顔の意味も深く追究しようとは思わなかった。 (より大きな力にも耐えられるよう、身体を鍛える必要がありますね)  筋肉が、骨が、内臓が。  鍛える度に魔力への耐性を強めていくのを自覚する。今のベルにとって重要なのは、より大きな魔力の行使に耐えられる身体の完成なのだ。  朝食を済ませたら、また走りこみに行こう。  そう考えながらベルは階段を下りる。頭上に、どこから紛れて来たのか一匹の蝿。ベルは軽く膝を折って身体を沈ませると手刀を上方に繰り出す。目にも止まらぬほどの速度で振り上げた指先より繊維のように細い炎が伸びて、ぶぶぶと不規則な軌道で飛んでいた蝿を両断する。切断面には焦げ目すらなく、しかし動きの止まらぬ翅が縦二つに分かれた蝿の身体を左右に割くと、蝿は青い焔に飲み込まれて灰となった。以前のベルには到底できない芸当であり、ついでに言えば犬上支局の誰にも真似できない事だ。 「……もう少し、炎を絞らないと」  宙に融けて消える灰を眺めて一言呟き、ダイニングルームに入る。  視界に飛び込むのは、後頭部に大きなこぶをつくって気絶している文彦と、その母・深雪だ。二人を昏倒させた村上小雪は慣れた手つきで中華鍋を洗っており、朝食が並ぶテーブルには人数分の食器が並んでいる。 「あ、ごめんなさいベルおねえちゃん。煮込みがちょっと足りなくて、もう少し時間がかかるんだけど  いいかな?」 「大丈夫だーいじょうぶです」  本当に済まなさそうに頭を下げ手を合わせる小雪に社交辞令ではない笑みで返すベル。 「あたし、も少し汗を流すことにするし」 「うん。じゃあ出来たら呼ぶね」  ぱたぱたとスリッパを鳴らしながらキッチンに戻る小雪。  ベルは二度三度深呼吸すると、床に倒れたままピクリとも動かない文彦の足を掴むと自室まで引きずり込み。 「やっぱり、あまり効果なかったみたいです」  三課事務局、正確に言えばパトリシア・マッケイン博士の机の前でベルは証言した。  パトリシアの机には、一枚の便箋。少し離れてデジタルビデオ用の記憶媒体がさりげなく置かれている。 「効果とは何でありますカー」 「東京で訓練を受けている友人の話で、エッチすると魔力が上がるって聞いたんです」  呼吸が一瞬停止した。  近くで茶を飲んでいたOL風の女性が吹き出して咳き込み、ベルの用事が終わるのを待っていた若手職員が抱えていた書類をばさばさと落とす。 「でも、文彦さんの話だと『効率が悪いし炎術師には意味がない行為だ』って」 「そ」  なんというべきか言葉を考えて、しかし適当な言葉が全く見付からないパトリシア。 「それはやっぱり、文彦は専門家だから信用して良いのではありませんデスカー」 「あたしもそう思ったんですけど」 「……けど?」 「自分で試してみないと分からないし納得できないことってあるじゃないですか。そういうのって、曖昧にするのすっごい嫌なんで」  言いようのない沈黙が、その場を支配する。  ベルはあくまで平然としている。笑顔の裏に言いようのないものを潜ませてはいたが。 「そういうわけで適当な被験者をゲットしたので思いつく限りのことを試してみました」  あっけらかんと。  まるで「ちょっと近所のコンビニで弁当買って来ました」とでも言わんばかりの気軽さでベルは宣言し。  対照的に、三課事務局にはブリザードが吹き荒れた。「適当な被験者」が指す個人名と「思いつく限りのこと」について妄想を働かせた幾人かの職員が手近な椅子に慌てて座り、鼻を押さえる。 「試したんですけど、あんまり効果なくて。やっぱり地道に鍛錬した方が良いと理解できました」  これが、その時の記録です。  と、指差したのは机の上の記録媒体。図らずも全員が同じタイミングで息を呑む。  ベルは一度だけ頭を下げると「ではトレーニングに出かけてきます」と爽やかに言って事務局を去る。パトリシアは若手職員が手を伸ばすより早く記憶媒体を白衣のポケットに放り込み、ひと睨みで男性職員たちを威嚇する。 「これは非公開資料にするデース」  何人かの職員が「ああ勿体無い」と呟くのだが、パトリシアはそれには耳を傾けず、机に残った便箋を手に取った。四つ折りにされたそれは、派手さのないシンプルなものだった。 (……できれば見ないようにしたいデース)  とは言うものの自らの役職上見ないわけにはいかないパトリシアは、一度だけ深呼吸して、それから勢いをつけて便箋を開く。  書かれていたのは、ただの一文。 【サガサナイデクダサイ】 「意外と余裕あるかもしれないデース」  見慣れた筆跡のそれをシュレッダーに放り込み、ただただパトリシアは溜息を吐いた。  こうして「影法師」村上文彦は逆レイプという形で様々な初体験を迎え、その日より一週間ほど行方不明となったという。