第四話 当世物ノ怪事情  最初は予備校の教室前だった。 「知ってるか仲森。昨日、C組の桐山さんが商店街でいきなり村上にキスしたんだってさ」  テキストとルーズリーフを抱えて興奮気味に話したのは、バスケ部の同輩だった。 「恋愛は自由だろう、委員長が村上のこと好きだってのは有名だし」  仲森浩之はしれっとした顔で答えると、さりげなく話題を期末試験結果と進路相談へと誘導して話題を打ち切った。  次は、携帯端末に送られてきたメッセージだった。 <ねえねえ。昨日おねえちゃんが見てたらしいんだけど、夕方の駅前で髪が長くて胸の薄いジョシコーセーが小学生のオトコノコを抱き寄せてスッゴイ感じのキスしたみたいなの。それで、どうやらジョシコーセーってぐでんぐでんになったオトコノコ連れて駅裏のラブホへ連れて行ったみたいなのよ! でもさ、でもさ。それってひょっとして、なるミンのクラスにいる名物イインチョーじゃない? ホラ、終業式の日にアノ村上君にコクってソッコーで振>  文字表示の途中で柄口鳴美は携帯端末の電源を切り、鞄に突っ込んだ。 (ま、授業中だもんね)  そういえば、文章を送ってきたのは隣のクラスの女の子だったかもしれない。まあ、これから付き合うことも無さそうなので鳴美は送り主を名前ごと忘却することに決めた。  最後は、昼食前の駅前通りだった。 「ご存知ですか? 信じられない話なのですが、あの村上くんが桐山委員長に……その、尻の穴へピンクロー」 「うらぁ!」  午前中の授業を遅刻してやってきた畠山智幸の顔面に、伊井田晋也は何の躊躇もなく英和辞典を縦に叩き付けた。体重百キロを越える肥満体は鼻血と汁を噴出しつつ地面を転がった。  情報は伝播する。  それが人間を介して行われると、錯綜する。 「簡単に言えば、広がった噂には尾ひれがつくということだ」  午後の授業までの短い休み。  たった一日でそこまで広がり、しかも曲解して伝わってしまった事に対して晋也は淡々と語る。晋也にとっては同級生の色恋話よりも、下宿先の未亡人が作ってくれた弁当に集中したいところであり、彼からしてみればこれでも最大限の関心を示しているようなものだった。 「夕方の人通りが激しい時に、少し奥に入った所とはいえ駅近くの商店街だからな。目撃者も多い」 「そりゃあ、そうだけど」  浩之の言葉に鳴美も頷く。胸がはちきれんばかりのキャミソール姿の鳴美に周囲の生徒や講師たちが息を呑みつつ通り過ぎていく。もっとも妹以外の女性は眼中に無い浩之と未亡人への想いが強い晋也にとって、フェロモン全開で歩き回る鳴美といえど真っ当に女性として意識されることはない。 「もっとも村上が唇を奪われた程度で陥落するとは到底思えないのだがな」 「あ、それは俺もそう思う」  自分で作ったという握り飯を頬張って同意する浩之。時折他校生と思しき女子高生などが浩之に声をかけようとするのだが、隣に鳴美が座っているので敗北して去っていく。 「現状を整理すると『桐山は諦めるどころか暴走しかねない臨戦状態』ということなのだろうが」  出汁巻卵の味わいに静かに感激しつつ、晋也。小料理屋を営む未亡人が腕によりをかけて作った弁当だから、出来は極上である。 「何が心配かというと、このままだと桐山は噂以上の事を実行しかねないということなのだが」 「うんうん」「沙穂ちん何事にも真剣だから」  笑うに笑えないことだけに。  それより先の言葉が出てこない三人だった。  話は数時間ほどさかのぼる。  自分が何をやったのかを誰よりも理解していたからこそ。  桐山沙穂は猛烈な自己嫌悪と共に目を覚ました。 「……せめて二人きりの時にすれば良かった」  が、二人きりだったら歯止めも効かなかっただろうと思い、赤面する。 「二人きりで?」  抱き上げた時、村上文彦の身体は思ったより簡単に持ち上がった。華奢な手足に細い胴体。筋張っているかと思えば、意外に柔らかい身体。男の人が小柄な女性を抱き上げれば、きっとそんな感覚なのだろう。 (押し倒すの、簡単かも)  引き寄せて、抱きしめて、そのままベッドに倒れてしまえばいい。手足が動かないように身体で押さえて、昨日のように唇を奪うのだ。まるで人形のような文彦を    そこまで考えて硬直する沙穂。  赤くなっていた顔は一気に沸騰し、肌がピリピリする。呼吸は荒く、心臓の鼓動は激しくなる。それは決して夢物語などではなく実行可能なことだと思ったから、自分の気持ち次第ではいつでも出来ることだと理解してしまったから硬直したのである。 「と、とりあえず」 『沙穂殿』 「うひゃあ!」  窓の外より聞こえる大狼ジンライの声に飛び上がる。  布団を胸元に手繰り寄せたままベッドを降り、ベランダに続く窓の鍵を外す。いつものように使い魔ジンライはベランダの片隅に座り、周囲の気配を探っていた。最初は少々不気味に思っていた沙穂だったが、ジンライの堅苦しいまでの真面目な性格を嫌ってはいなかった。 『おはようございます、沙穂殿』 「……おはよ、ジンライさん」 『実は文彦様より沙穂殿へ言伝が』  続きを言おうとして口を開くジンライに、掌を突き出し制止する沙穂。数度深呼吸し、ついでに姿見鏡で髪型など崩れていないのか少々確認して、それからジンライに向き合った。虎ほどもある大狼はその間じっとしていたが、視線はパジャマ姿の沙穂には向けていなかった。 「それで、村上くんは私に何て言ってたの?」 『あ、直接伝えるそうでござる』 「へ?」  沙穂の返事を待たず。  大狼ジンライは沙穂の股下に潜り込んで背に乗せると、雷光の速さで飛び出した。 「やっぱ恥ずかしいから休むんだろうか」 「……字ぃ綺麗なんだからノート取るの、柄口な」 「ひえーん」  その頃、予備校では沙穂が休むものとして三人組はノートをまとめていた。 「急に呼び出して悪かったな、委員長」  村上文彦は、いつも通りの態度で桐山沙穂に接した。 「……ってジンライ。確かに急ぎの用事とは言ったが、寝間着のまま連れて来てどーすんだよ」 『これは失念していたでござる』  いつも通りである。 「仕方ねえ、ハヤテ」 『へい』 「小雪かルディから服借りてきてくれ、それと来客用のスリッパも」  悟りきったかのように平然と。  笑顔を浮かべるのでもなく、緊張で動きが固まるのでもなく。もちろん無視するわけでも、言動に妙な点があるわけでもない。朝の仕込みなのだろう、数十個はある玉葱の皮を剥きつつ応対する文彦の姿には清清しささえあった。  それはもう、腹立たしいほどに。 「委員長?」  厨房で着ているコックコート姿ではなく、普段着にエプロンを重ねた文彦は今更ながらに沙穂の様子に気付く。 「……」  パジャマ姿の沙穂は拳を震わせている。 (手強いわ)  沙穂の顔は、そう言いたげだった。  昨晩色々考えたり妙に昂ぶった自分が、とても阿呆らしくなった。つまるところ公衆の面前で唇を奪った程度では、文彦の心は微動だにしないということだ。 (もっと過激に、えげつなく)  違う、それは違う。  とりあえず自制心を振り絞り、沙穂は大きく溜息をついた。  事件に巻き込まれるようになって沙穂は文彦に何度も尋ねたことがある。 「バケモノがいて、魔法使いがいて。それで、世の中って結局どうなっているの」  そう。  何度も理不尽な出来事に巻き込まれ、おまけに想い人は化け物退治の専門家。しかし沙穂としては諦める気持ちなど微塵もなく、だとすれば突き進むしかない。 「俺、説明下手だからなあ」  問われる度に、困ったように文彦は唸っていた。あの終業式の朝も、そんな事を言った。 「実際に体験している分、普通の人よりも説明は簡単だとは思う。でも俺では説明できないことも、沢山ある」  優等生の沙穂は、興味を持った事柄に対しては徹底的に質問する。  同級生として、そういう沙穂の性格を文彦は知っている。 「だから説明してくれる人に頼んだ」 「……だれ?」  なんとなく嫌なものを感じて問う沙穂。  そこは駅裏の比較的大きな雑居ビルで、高校生には縁遠い企業名が並んでいる。買い物に出かけたりするときに、このビル前を通ることも少なくないから沙穂は意外な印象を受けた。自動ドアを潜り多目的展示場と化したロビーに入り、文彦はエレベーター横の壁に設けられた看板表示の一つを無言で指差した。  国連平和維持軍特務第三課 犬上駅前支局  色々言いたい事はあったのだけど。  とりあえず沙穂は倒れこむように壁に手をついた。 「委員長?」 「秘密組織が、こんな堂々としててどーするのよっ」 「秘密じゃねえよ」  もっとも知っている人は少ないけどね。  唖然とする沙穂の背を押して、文彦はエレベーターに乗り込んだ。  ほんの半月前まで、桐山沙穂はバケモノの存在を信じなかった。  ほんの半月前まで、村上文彦が術師だと気付かなかった。  ほんの半月前まで。 「世の中がこんなに非常識だとは思わなかったわ」  エレベーターの中で沙穂は唸る。  隣で文彦が 「引き返すなら今だぞ、委員長」  と言えば、ぶんぶんと首を振って沙穂は文彦を見る。 「カレシが非常識なら、それに付き合わなきゃ」 「なんだ。委員長には彼氏がいたのか」  全く悪気のない笑顔の文彦。 「彼氏がいるのに俺に声かけてどーすんだよ、委員長も人が悪いなあ。はっはっはっ」 「あははははー」 「はははははー」 「でいっ」  額に青筋浮かべたまま一緒に笑っていた沙穂が、文彦の爪先を思い切り踏んだ。  同時刻、駅前の予備校にて。 (……あ)  柄口鳴美はペンケースを開いて声を出しそうになった。犬のイラストがプリントされた若草色のシャープペンシルが、真ん中で折れていたのだ。  それは同級生の文彦に借りたものであり、絵柄がなんとなく気に入っていたので彼に無理を言って譲ってもらった品だった。軽い割に頑丈な作りなので重宝していたのだが、軸の一点が粉々に砕けているので修繕のしようもない。まるで全体重を乗せて踏み砕かれてしまったかのようなシャープペンシルの無残な最期に、思わず息を呑む鳴美。 (まさか、ふみ君の身に何かが起こったの?)  折れたシャープペンシルを手にする鳴美。  が。 「そんな訳ないわよね」  気のせい、気のせい。  と、折れたシャープペンシルをティッシュに包み、鳴美は授業に集中することにした。 「パトリシア・マッケイン博士?」  聞き慣れない名前だったので沙穂はその名を繰り返した。 「パトリシアってことは、女性よね」  胡散臭そうに、眉間にしわを寄せる沙穂。  そもそもバケモノや魔術に関して学問が成立しているなど聞いたこともないし、そういう専門家にまっとうな人物がいるとは到底考えられない。 「多分……今までのパターンから予測すると、若くしてマサチューセッツ工科大学を首席で卒業した天才肌」  文彦は何も答えず、沙穂の推測に耳を傾けている。 「バケモノに関わる仕事をしているって事は、まず間違いなく怪しい日本語のマッド技術者。四六時中とんでもない発明品を製造しては、周囲に甚大なる被害をもたらしているかも」  文彦はやはり何も言わない。少しばかり引きつった笑顔で沙穂の推測を黙って聞いているが、彼女はそんな文彦の様子には気付かない。 「仕事に支障のない程度でキテレツな趣味  たとえば白衣の下に警察の制服を着てたり、エレベーターの前で私たちを待ち伏せしてて『説明しようっ!』って開口一番叫んだりしたら」 「ら?」  文彦が相槌を打ち、直後にエレベーターが止まり扉が開く。  そこには。 「ううううっ……」  沙穂がまさに描写した通り、白衣の下に警察の制服を着用したイギリス系金髪美女が、エレベーターの前でしゃがみこんで泣いていた。 「……せ……せっかく、一生懸命……練習したのに、ひどいデース。あんまりデース、台本まで用意したデース」  その先は言葉にならない。  故に。 「とりあえず、帰っていい?」  やけに冷たい声で呟く沙穂に、思わず頷きそうになった文彦だった。  応接用のソファーに腰掛けて、パトリシア・マッケインは桐山沙穂を見た。  頭の回転も早そうだし、意思も強そうだ。  ひと目で理解できる知性。それに、隠そうともしない村上文彦への好意。 (意外ね)  言葉に出さず、感心する。  パトリシアが知る限り、文彦という少年は恋愛事を無意識的に避ける傾向がある。それが彼の家庭事情に起因しているのか、それとも数年前に失ったという初恋の相手を今も想い続けているためなのか。それはわからない。  その文彦が、腰掛けてなお手を握らせているのである。 (意外すぎるわ)  よくよく観察すれば文彦の表情に諦めにも似た悟りの境地がうかがい知れるのだが、状況のインパクトが強烈だったのでパトリシアはただひたすら驚くばかりである。もっともそれは三課の事務局にいる全員が思っていることなのだろう、ごくごく普通の商社マンを思わせる彼らは特に用事があるわけでもないのに応接スペースを通り過ぎ、沙穂と文彦の様子をちらと見ては「ああ、あれが噂の」と他の同僚たちとなにやら話をしているのだ。 「質問は、三つだけ受け付けるわね」  薬品や機械油で汚れた指を三本立て、パトリシア。 「三つだけ?」 「そう」微笑んで、小さく頷く「人間は一度にたくさんの事柄を理解できないから、いちばん大切なことを三つ。本当に知りたいことを、まず三つだけ答えてあげる」  その代わり、出来る限りの質問に答えましょう。  優雅とさえ思える仕草で手を動かし、備え付けの端末を操作するパトリシア。沙穂は最初こそ呆気にとられたがパトリシアの言葉ももっともだと考えたのだろう、横に座る文彦の顔を一瞥し、握っていた手を放して正面からパトリシアを見つめた。  自分の中の、疑問をまとめる。  どうしても知っておきたい事を、三つに絞る。逡巡はわずか数秒で終わり、沙穂は深呼吸した後にこう尋ねた。 「皆さんが相手にしているバケモノたちは、いったい何者なんですか」  と。  それは予測の範囲内にある質問で、同時にもっとも答えにくいものだった。  あくまでも基本。  しかし基本だからこそ、その本質を同時に問いかけている。沙穂が言うバケモノが何者なのかを説明するということは、そのままパトリシアたち三課だけでなく世の術師たちがいかなる存在なのかを語ることに等しい。考えなしに問いを出してもそこに行き着くこともあるだろう、だが沙穂の目を見るとそういう推測は成り立たなくなる。 「彼らの出自は色々、それこそ千差万別ね」  慎重に言葉を選び、幾つかの映像を近くの画面に表示する。  映し出されるのは、様々だ。TVゲームに出てきそうな怪物から、明滅を繰り返し宙を漂う埃球まで、パトリシアが言うように千差万別としか言いようのない。 「有害なもの、有益なもの、知性の有無、種族としての安定。分類学者は彼らが何者であるのか調査しているけど、何とか把握しているのは全体の一握り。生命としての定義さえ当てはまらないヤツもいるから、外見や性状から名前を適当に決めているのが現状よ」  たとえばと画面に表示されたのは、数日前に文彦が封印した豚頭の悪魔オルクスだった。ただ、それは北高校の屋上で出会った異形とは微妙に姿形が異なっており、同一の存在とは思えなかった。 「豚の頭がついてれば、とりあえずオルクス型悪魔って三課では呼ぶことにしてるの」 「……すっごい、いい加減ですね」 「だって下手すればDNAすら無い連中だもの、見た目で判断するしかないわよ」  けらけらと笑うパトリシア。  そういうものなのかと沙穂は受け止めるのだが、納得するまでには至っていない。なるほど、こんな調子で説明を幾つも聞いても身にはつかない。パトリシアがなぜ質問を三つに絞ったのか、その理由を理解した。 「こいつらは、凝縮したエーテルで義体を形成し実体化を果たしているの。でも実体化能力には個体差が大きいから生物の機構を模倣しているのもいれば、単に自分の力を行使するための器官しか備えていないような奴もいて。そうね、そういう意味では彼らには構造上の共通点があるのかしら」  同意を求めるように、あるいは「この程度のことなら理解できるわよね?」とでも言いたげに、いったん言葉を区切って沙穂を見つめる。  ところが。  既に沙穂の表情は固まっていた。  うっかり「エーテル」という耳慣れた単語を耳にしたばかりに、その後に続く非常識かつ非科学的な単語の羅列に沙穂の思考は停止した。理性が、理系を志す者としての良識がパトリシアの解説を拒絶したのかもしれない。  まばたきさえしない沙穂を前に、パトリシアは慌てる。 「つまりエーテルってのは、魔力とか精神波を伝達するモノで……術師なら認識できるみたいなんだけど、科学的に証明されてない代物で。バケモノたちは、そのエーテルで身体を構成して世界に出現しているから、物理的な手法では倒すこと……って、沙穂? 聞いてるデスかー、沙穂! まだ最初の説明も終わってないデースよっ」 「いや、委員長聞いてねえし」  沙穂の肩を掴んでがっくんがくん前後に振るパトリシアに、なんとなく疲れてしまった文彦が短く突っ込んだ。  差し出されたスポーツ飲料を一気に飲み干して、ようやく沙穂は人心地ついたかのように大きく大きく息を吐いた。 「結局、バケモノってのは何なの?」 「魔術以外では倒しにくい連中。敵対するヤツもいるし、そうでないヤツもいる」  自販機から良く冷えた缶を持ってきた文彦が、できるだけ誤解を抱かないよう考えながら答えた。文彦の回答を、渋い顔で聞いていたパトリシアは「まあ間違ってはいないですけど」と頷いているのが印象的だ。 「ただ、連中の多くは人間の法律なんて守ろうとしないし、人間が作った法律で処理することも出来ねえ。だから俺たち術師が、そういうバケモノを相手に色々やってるんだよ」 「……色々、って?」 「説明しましょうっ!」  沙穂が発したさりげない質問に。  実に嬉しそうにパトリシアは叫び、立ち上がるのだった。  ある種の人間は、特定の言い回しを何よりも尊ぶ。  それは彼らにとって最高の美学であり、美学であるがゆえに、その言葉を口にするための資質と時機について誰よりもこだわる。村上文彦は、目の前にいる若く聡明な女性もまたその資質を持ち美学を抱く人種であることを理解している。  理解しているので。  次に彼女が何を言うのか予想できていた。 「こんなこともあろうかと用意した物があるデース!」  眉のない技術者のオーラを背後に漂わせて。  パトリシア・マッケインは感激の涙を流しつつ拳を震わせた。 (めちゃめちゃ活き活きしてるな)  言葉には出さず、妙に悟った表情でパトリシアを見る文彦。その隣ではパトリシアがなぜ感涙を流しているのかさっぱり理解できない桐山沙穂が、「え、ええええっ?」とただひたすら困惑しつつ様子を見守っている。 「確か、ここにあった筈デース」  自分の机を引っ掻き回すようにして何かを探しているパトリシアの姿に、三課の事務職員は乾いた笑い声を上げた。  そういう時の彼女が何を考え、何をしでかしたのか。  身をもって知っている彼らは笑いながらも全力で現在の仕事を片付け、貴重品を安全な場所へと避難させる。それを横目に見つつ村上文彦が無言で視線を動かせば、姿を隠して控えていた大狼ジンライと隼ハヤテが沙穂を保護すべく身構える。 「ありましたデース!」  とパトリシアが叫んだ時、三課職員と文彦の精神および肉体の緊張はまさに戦場におけるそれに等しかった。  が。  意外にもパトリシアが取り出したのは模造紙を束ねた筒だった。特に何の仕掛けも見られないそれを開いてホワイトボードに貼り付けると、丸文字でびっしりと家系図のようなものが全面に書き込まれているのがあらわとなった。 「はい、これ。国内組織の系列図をまとめてみたの」 「……こんなに、組織があるんですか?」  一通り眺めた後、絶句する沙穂。  ざっと見ただけでも百を下らない数の組織名称が、沢山の矢印や棒線と組み合わさって書き込まれている。一見すると家系図だが、無秩序にして複雑なる配置は生物の進化系統図を連想させる。特に害はないと判断した三課の職員たちは、ホワイトボードの前に集まりだす。 「警察庁が抱える組織だけで十二部門と三十の出張所、自衛隊は陸海空で妙にいがみ合っててそれぞれ独立した戦闘部隊を展開しているし、文部科学省と宮内庁は警察庁と対立しているけどそれぞれやっぱり独立した組織を設立して主導権争いを展開しています。厚生労働省は合衆国の圧力で最新危機を応用した特務機関を設立しているという話だけど当然のように自衛隊が黙って無くて予算委員会ではいつも取っ組み合いの喧嘩だし、三代前の総理大臣が内閣調査室内でバケモノ対策の部隊を構成しようとして途中で政権交代したんだけど……ああ、今の総理になって復活したのよね。京都、奈良、島根、東京都では各種地方自治体が独自にバケモノ対策組織を運営しているんだけど、彼らの方が国の機関より成果を上げているので地方交付税をちらつかせて組織の行動制限に走ったり。そうそう、文部科学省では術師の養成機関を学校形式で開設しようとしたんだけど公安委員会が何故か横槍入れて結局彼らの天下り先になって数年で実質上の廃校。それで、それぞれの国の組織ってのは大臣が交代したり年度末の予算調整時期に差し掛かる度に適当な理由をでっち上げて新しい部門とかそういうのが増やされてしまうから」  アルミ製の指示棒を忙しく動かしながらパトリシアが説明するのは、模造紙に書き込まれた組織のおよそ二割程度だった。おそらく民間系列とされる混沌領域には、一切触れていない。  何より恐ろしいのは。 (……今の、一息で?)  肺活量には自信のある沙穂だが、これほどの長い台詞をこれほどの声量で喋ることはとてもできない。やや驚くべき点を勘違いしつつ戦慄を覚える沙穂の様子に、得意満面のパトリシア。 「国と地方公共団体が抱える同系統の組織は、カタログ通りのデータだと合計四十万八千人の術師を擁していることになりますデース」 「そんなに、いるんですか」 「いるわけないデース」  感心しかけた沙穂に、ちちちと指を振るパトリシア。 「日本政府が専属で抱えている術師は研修生を含めて百名にも達していないデース」  えへんぷいと胸を張るパトリシア。  その背後で三課職員が全員がっくり肩を落としたのだが、沙穂はとりあえずそれについて質問しないことにした。  民間を含めて数百の組織が、異形や術師に関わっている。  表立っていない組織も少なからずある。  村上文彦は、ホワイトボードに貼り付けられた組織相関図を眺めてこう言った。 「組織の数だけ主義主張があって、目的もある。思いつく限りの用途で術師に要求するから、術師は特定の組織に加担して行動することを極端に嫌うんだ……血族とか信条による縛りがない限りは」  血族という部分で文彦の表情はわずかに硬くなっていた。  三課職員も、何人かが反応していた。彼らは文彦よりあからさまに硬直していたので、説明を受けていた桐山沙穂は何かあったのかと視線を彼らへと向ける。職員達はそれに気付き慌てて咳払いなどをして、視線を外す。 「だから三課は、依頼する組織と術師を仲介しているの」  それを察したパトリシア・マッケインが、受付に山積みにしていた「申し込み案内」「入会パンフレット」を束にして沙穂に押し付ける。 「国家機関だけでなく、民間からの依頼も個人レベルから受け付けているデース。国連で助成金が支給されているから、文彦クラスの術師でも二千九百八十円(税込み)で丸一日好き放題デース!」 「買った」  真顔で千円札を九枚取り出した沙穂の後頭部をべしっと叩き、ようやく文彦は普段通りの表情に戻った。 「それで、最後の質問は」  後頭部を押さえてうずくまっていた沙穂に、パトリシアは優しく声をかけた。 「魔術の原理? それとも、バケモノ封印のメカニズムについて解説する?」  うきうきしながら怪しいファイルを抱えるパトリシア。 「……その、バケモノが人間を襲う理由を教えてください」 「ふむ」  確かにその質問も大事よね。  ばさばさとファイルを落としつつパトリシアは頷く。彼女なりに平静を装っていたのだが、その質問はよほど彼女にとっては面白くないものだったらしく、視線が左右に動いており定まろうとしない。それでも引きつった頬を叩いてほぐし、営業スマイルの維持に努める。  あくまで、パトリシア個人としての努力だったが。 「まーねぇ、連中が人間を襲う理由にもいろいろあって……単なる私怨とか、国家転覆とか、そういうのもあるんだけど。すっごいありきたりの解答しか出てこないわけで、今からでも構わないから別の質問にしてみない?」 「襲われる側としては、その辺をしっかりしておきたいんですけど」  しなって妙に色っぽく迫るパトリシア、しかし沙穂はむっつり顔で返すのでパトリシアは奇妙なポーズのまま固まる。 「今ならステキな発明品をセットでプレゼントするわよ、キャスターつき三十連収納ボックス」 「間に合ってますから」 「ルナチタニウムもらくらく切断できるミラクル万能包丁セットとか」 「結構です」 「一日十五分の使用で半年以内のDカップを約束する美乳養成ギプスは?」  若干反応が遅れた。 「いりません」 「じゃあ、三課が総力を挙げてかき集めた文彦の恥ずかしい生写真セット」  返答は直ぐだった。 「来週までにバッチリすっごいの撮るからいいです」 「おい待てそこの二人」  慌てて声を上げる文彦。二人は文彦を一瞥すると何事も無かったかのように交渉を続ける。 「つまんない理由よ? 賭けてもいいけど、聞いたら十中八九『ああ、やっぱりそうだった』って頷きながら意外性のない展開に舌打ちするわよ」 「奇抜すぎる理由で何度もバケモノに狙われるほど波乱万丈な人生を送っていませんから、どうか教えてください。どうしてバケモノがこの半月に何度も私に襲い掛かってきたのか」 「どうしても知りたいの?」 「ええ」  沙穂の決意は固い。  パトリシアは沙穂を説得してくれないものかと肘先で文彦を小突くのだが、これと決めた沙穂の頑固さというか一途さというものを身をもって知っている文彦は、気付かぬふりをしている。説得は無理だと判断したパトリシアはソファーに深々と身体を沈めてしばし沈黙し、そうして説明を始めた。 「バケモノ  つまり安定した実体を持たない精神体である異形は、義体を構成しているエーテルを維持するために常に一定量の魔力を消費しているの。魔力が満ちている土地や器物に寄り添えば問題ないけど、そういう『特異点』は数が限られているし先客が多いから定員一杯っていうケースも少なくないわ」  資料を持たず、身振り手振りで説明する。少しばかり投げやりな説明かもしれないが、謎の用語が減ったので沙穂はそれを歓迎することにした。 「だからバケモノは手っ取り早く魔力を回復するために、人間の身体に『特異点』を発生させるの。生命や精神の力を増幅させて、生み出された魔力をバケモノたちは利用する」 「利用された人間は……やっぱり?」 「死んだり死ななかったり、色々ね」苦笑するパトリシア「多くの人は原因不明の疲労や病気で片付けられるし、相性がいい宿主を見つけてから人間を守る変り種も少なくないし。そういう意味ではバケモノも絶対的な悪ではないけど、迷惑なやつが多いのは事実よ」 『げほげほげほ』  パトリシアの言葉に使い魔ハヤテが激しく咳き込むのだが、沙穂には姿が見えないので「ふーん」と反応するに留まった。 「わかったような、わからなかったような」  その日の夜。  三課で貰ったパンフレットや資料などに目を通しつつ、沙穂は机に肘をつき考えていた。  知りたいと思っていた事については、一応の回答を得た。  説明を聞いた帰りに文彦と一緒に昼食を摂ったのは、沙穂としては予想外の幸運だった。事実を理解するためにはもうしばらくの時間が必要だろうと文彦は言っていたし、沙穂もそう考えている。 「ねえジンライさん、私がバケモノに狙われる理由って『特異点』が関係しているの?」 『その通りでござる』  ベランダより顔を出す、大狼ジンライ。 『沙穂殿を最初に襲った異形が、沙穂殿の心に闇を植えつけました。それは沙穂殿の奥にあった衝動を増幅し、行き場のない魔力を生み出しつつあります』  表情の読めないジンライの言葉に、息を呑む沙穂。 「それって、結構危険なのかしら」 『高まりすぎた魔力は生命の本質を歪めます』短く頷くジンライ『文彦様もそれを問題視されているので、いずれ沙穂殿の内に根付きつつある心の闇を処理されるでしょう。ご安心くだされ』 「そう」  文彦が自分のことを心配してくれている。  それだけで沙穂の胸は心地良い痛みでいっぱいになっていた。思わずヌイグルミがわりにジンライの頭を抱き寄せてしまうが、意外にも柔らかい大狼の毛皮は抱き心地が良い。 「その『特異点』を処理すると、どうなるのかしら」 『増幅対象となる衝動が特異点と共に消滅しますが、あくまで限られたものへの衝動ですので日常生活への支障は最低限に留まるかと』 「ふうん」  首を絞められているので少し苦しそうな声を上げるジンライ。 「やっぱり、あのバケモノへの恐怖心とかが消えちゃうのかしら」  それって便利よねと沙穂。  ジンライは何も言わない。沙穂は無言で机の引き出しから虫刺されの塗り薬を取り出して、刺激臭たっぷりのそれをジンライの鼻面に近づける。いやいやと首を振り逃げようとするジンライだが、沙穂の腕はジンライの首にしっかり極まっているので逃れることはできない。 「教えて、ジンライさん」 『沙穂殿の心に宿った闇は、その……』 「その?」 『文彦様への慕情に宿り、これを爆発的に増幅させました。沙穂殿が文彦様へ寄せている想いは、いわば異形が生み出した偽りの恋なのです』  知らず沙穂は床に膝をつき。  そのまま呆然とした気持ちでしばらくの時間を過ごした。  瞬きすることさえ忘れ、呼吸さえ止まりかけていたので。  ジンライは沙穂をベッドへと放り込み布団をかけると、傍らで見守り続けることにした。