十三章〜紅碧の王  最初に気付いたのは魔法猫たちだった。  地平線の向こう側より轟いていた爆発音が途絶え、不気味なほどの静寂が訪れた後。全天の半分を覆っていた雷雲が吹き飛び紺碧の空に無数の格子が生じたかと思えば、寄木細工を押し込み折りたたむように波紋を広げていく。  空だけではない。  地面も、人も、そして己の身体個性を構成する一切合切が最小単位にまで分割され、再構築されていく。それも、物凄い勢いで。あまりの速さに魔族たちの超感覚でさえその動きを察知することはできず、魔法猫とて遠景の空模様を眺めている内に異変を察したに過ぎない。 (書き換えが起こっているのであるか)  魔法猫の王ファルカは、変異が通過した後の世界を己の目で見た。おそらく世界の本質の、それも深奥部分で大きな書き換えが起こった。この世界のあり方が、世界が世界であるための律が大幅に変更されたのだろう。 (魔女にも石板の主にもできなかった事を、邪悪生命体がやったであるか)  慄然を伴うファルカの推測は、正しくもあり誤りでもあった。  鳴動の起点は、変革の終点でもある。 『な、な、な』  身体の制御を取り戻したシュゼッタは、己の身体をぺたぺたと触った。  髪の色、瞳の色。変化は他にもある。十代前半だった身体は、文彦の実年齢とつりあう程度にまで成長した。すらりと伸びた手足に、安定した骨格。  それと、膨らみを喪失した胸。 『なんじゃこりゃあああ!』  特に胸の辺りを押さえてシュゼッタは絶叫し、問答無用で文彦を蹴り倒した。閃光のような勢いで振り下ろされたカカトは文彦の脳天を直撃し、その勢いたるや傍観者となった天魔でさえ唖然とするほどだった。 『わたしの、胸! 百年かけて鍛えて育てて寄せて上げていた! ささやかだけど将来が楽しみだった、私のアイデンティティとか女性としてのシンボルというかコンプレックスの根源!』  絶叫である。  叫びながら、地面に沈んだ文彦の両肩を掴み持ち上げて前後にがっくんがっくんと揺さぶり始める。 『返して、あたしの胸かえしてー!』 「無理」躊躇すらない即答だった「霊鷹を最適状態にして律を整えるには、巨乳は御法度」 『どうして! なぜ!』  それが世界の定めたルールだから。  二次元胸平板胸完璧なる平面によって生み出される調和こそが世界の律を整える上で必要不可欠であり、世界の律が定まってしまった以上もはや君の胸が育つことはありえないというか世界が終わる瞬間まで君の胸が育つ要素は一切ないのだから諦めろ。  諦めてください。  もう元に戻せないから。  と、文彦の目は訴えていた。 「君を通じて世界の律は矯正を行った。五大四聖三天の因素は互いに影響し、連鎖する。世界は外敵への免疫を獲得し、柔軟さを兼ね備えた耐性を持つ。この世界に生を受けたものが、例外なく」 『……』  疑問を抱いたのはシュゼッタか、それとも唖然とした天魔か。 「外敵に対する免疫は天敵として機能する。それは人の姿をしていることもあれば、獣の姿をとることもある」  凛。  天魔の身体が碧色の輝きに包まれる。 「つまり」 『なによ文彦』 「雷王アナスターシャを憑依支配するなんて真似は、もう誰にもできないってことだ」  文彦の言葉が終わらぬうちに、天魔の身体は咆哮と共に蒼い雷に包まれた。地上から天に向かって昇る雷の柱は大狼ジンライの天吼砲にも似ているが、規模が圧倒的に違う。輝く光柱は青空を貫き雷雲を生み出し、それを吹き飛ばす。雷王の身体に憑依していた神性は光柱に飲み込まれて断末魔の叫びを上げ、逃げる間もなく消滅した。  雷王の瞳に宿るのは、知性と威厳である。 『礼は言わぬ』  厳かな声で、雷王アナスターシャは翼を広げ、宙に舞った。  乳白色の宙。  距離も時間も意味を喪失した不可思議の果て。巨樹より見れば枝より落ちて腐りはじめたる果皮の裏側、一日千秋の時空のうねりをもって結界を維持するのは金銀に彩られた一対の塔と、ひとりの魔女。絶望が訪れたときに誰よりも早く終末を告げ、民草が蝕まれるより早く全てを無に還すことを己に課していた魔女。その周囲には、静止した時間の檻にとらわれた夥しい数の棘が浮いている。  魔女から見れば、それは棘に等しい。しかし棘の一本一本は地上のいかなる船舶よりも太く長く、頑丈だった。棘は天樹よりはなたれた種子であり、棺でもある。地の民が星の涙と呼び稀少なものとして扱った結晶が棘を構成し、棺の深奥に収まり自らの生命精神を推進と破壊の糧として捧げた億千万の妖精たち。彼らの目的は脆弱なる世界を突破し故郷に信仰した神々の軍勢を根源より討ち消去することである。極界十二門でさえ限りなく不可能に近しいと論じたことのある目的を達成しなければ、彼らは最後の一人に至るまで精神外殻の脆弱さにより侵食変異を免れず滅ぶことになる。  悲壮なる決意をもってはじめられた妖精たちの魔法王国の一大事業。国としての体をなすことさえ放棄して編成された星船の旅団は最初から帰還することを諦め、後々に大地にあふれる霊長のために捨石となることを選んだのである。  だが不幸なるかな、彼らは神性の待ち受ける結界の向こう側に到達するどころか、その界面さえ突破することも出来ずにいた。なぜならばそれこそが一日千秋の結界が持つ特性であり、結界を維持する対なる塔と終末の魔女が干渉した結果だった。限りなく停止した時間の中で考えることも苦しむこともなく、生と死を超越した領域で妖精たちの星船は絶対的な加速を維持している。   結界の向こう側もまた、無数と呼ぶに相応しい軍勢が待ち構えていた。  山ほどの大きさがあろうかというヨロイ鯨の群。一度の咀嚼で街をひとのみしてしまいそうな巨大な顎が、深海に棲息する魚介のごとく身体よりも大きく拡げられ、不規則に並んだ鋭い牙が不可視の障壁に突き立てられている。たとえ金鉄の矛をもって貫こうとしても、それだけでは結界を突破することなどできない。  この薄皮に等しい結界に守られた世界は、神々にとって財宝の塊に等しい。崇拝すべき神を持たぬ民、圧倒的な量の金鉄。フロギストンの鉱脈さえ存在が確認されている。  既にこの結界の周囲を第一世界の軍勢が囲んでいる。結界が破れたら一気になだれ込んで全てを手に入れるべく協議も重ねている。時間の絡む結界と知れているのだから、時を司る神々が干渉も始めている。  凛。  最初の異変は、果皮に現れた波紋だった。  凛。  不可視の障壁に波が立つ。  波だ。クロノスの長針を突き立てようと微動だにしなかった時間と空間の結界壁は、いかなる前触れもなく揺れ始めた。いや、兆候は存在したのだ。ただ、それは結界に守られたセップ島の内部での話だ。外より侵入を試みる神々の軍勢に確かめる術などなく、だから彼らはこれが吉凶どちらの前兆なのか判断に迷っていた。  神は迷わない。  迷うことは許されていないから、彼らの動揺と躊躇は自己存在を危ういものにする。準備万端先手必勝をもって全知全能を維持する彼等にとって、不意を討たれることは屈辱であり回避すべき危機である。  おびただしい数の神性の内、ほんの一握りの神が、結界の崩壊を悪い方に考えた。あの金色の棘は、ひょっとしたら驚異ではないのか。ヨロイ鯨の群はあれを食い止める事ができるのかと。  わずかな時間をかけて考えて。  その弾指の間にも満たないほどの時間の内に、果皮のごとき結界を透過して金色の棘と評した金鉄の星船が飛び出していく。光に等しい速度で打ち出されていく星船を前に、ヨロイ鯨たちは一瞬とてその勢いを削ぐことはできなかった。莫大なる魔力を蓄えて撃ち出された星船の衝角を止められるものなど存在しない。  乳白色の世界に星星が瞬くように輝きを放つ。そのひとつひとつが金鉄の星船により討ち滅ぼされる神性の、弾け飛び消えていく最期の光なのだ。  陣は崩壊して久しい。  攻め込まれることなど最初から考えていないし、考えてはいけないのだ。たとえ金鉄で武装しようと、精神の脆弱な妖精たちを源とする星船では神々に対抗するのは難しいはず。事実、最初の襲撃を何とか逃れた神性のなかで呪術に長けた数柱が、かつてそうだったように変異を促すべく思念を送ろうとして即座に襲撃を受けて滅ぶ。面白いように滅ぼされていく。 『なぜだ』  自滅を引き換えに、抱え込んでいた不安と疑問を口にする神性の一柱。  その眼前に、星船の一柱が現れた。  否。  果たしてそれは船と呼べるものだったか。 『否。それは船ではない』  その船には翼があった。 『否。それは船ではない』  その船には尾が生えていた。 『否。それは船ではない』  その船には牙爪が生え、金鉄の鱗に覆われ、その咆哮は乳白色の世界を震わせている。 『否!』絶叫する神性『これが船であるはずがない!』  叫ぶ神柱の身体を、鋭い鉤爪が引き裂く。既に神々の軍勢は壊滅し、生命とも鉱物ともつかぬ恐るべき獣達が虚空を駆け抜けていた。  日が沈むにはまだ早い時刻だというのに、無数の流れ星が青空に光条を刻んでいく。  あの流れ星の何割かが、侵入に失敗して滅び行く神性なのだ。中には生き残るものもいるだろうが、この世界は既に彼等神々の王国が欲していた安全な餌場ではない。 「竜頭が、開放されたな」  光条が空に複雑な軌跡を描いているのを眺め、文彦は己が意識を失って倒れていたことを理解した。この光景を目にするのは二回目で、今度はより深いところで関わってしまったことに軽い自責の念が生まれる。仙位を許された身とはいえ、人の範疇に辛うじて収まると自負するものが、軽々しく成し遂げてよいものではないはずだ。  くだらん。曖昧なままの意識で文彦は考える。  十二の因素、それを司る獣と主。媒介たる武具。十二の内の十一が既に決まり、残る一つすら一度は揃った。そこに至る道を理解すれば、世界のあり方に干渉できる。しかし世界のあり方を理解することと、そこに干渉することは本質的に異なる。  魔道に通じたものとて最初の五つ、究めたと言われる者でも次の四つ。残る三つに至るには才能や努力で開ける道筋などなく、即ち向こうから此方にやってくるのを待つしかない。  大賢人と呼ばれるものでさえ永劫の時を費やしてなお独りでいることもあれば、望んでもいないのに残り三つが押しかけ女房のごとく手前勝手に現れて真理を押し付けて世界の命運を背負わせることもある。  それを押し付けられた側の苦悩など、彼らは考えたりしない。たとえ一片の同情を示したところで「それ」を手放すことなどできない。 『リュウズとはなんであるか?』 「セカイジュに打ち込まれた時の楔」  不意に聞こえてきた魔法猫の王の問い掛けに何気なく答えてしまい、しまったと上体を起こそうとして気付く。  そこに地面はない。  空と大地も存在しない、星が煌くだけの虚空。見上げれば、あまりも巨大な樹が無数の果実を枝に結んでいる。 「信じられるか。あの果実の一つひとつが俺たちの住む世界だ」  答えは返ってこない。  虚空に在るのは文彦と、二頭の獣。猛禽は翡翠を溶かし込んだ銀の翼を大きく拡げ、狼は紫電を帯びていた。ハヤテやジンライと似ているようで決定的に異なるそれは 「獣の王」  因素を司る獣と文彦の記憶にある。綾代に仕える賢人の言葉を信じるならば、世界の終焉と引き換えに現出を赦される超越の存在である。獣と名付けられてはいるが、その身体を構成しているものは金属質の光沢を帯びている。  それは、虚空を流れる文彦をただ眺めていた。果たして彼らの存在や思考を人間の尺度で捉えることに意味があるのか、文彦にすら理解できない。理解したいとも思わない。 「てめえら、見てたか」  悪態をつく。すると。 『見ていたとも』  猛禽が返事をした。狼が頷いた。なんとも人間臭い仕草で、心底同情するような表情で。 『目を閉じる理由がない』  全てを見て全てを理解して、その上で沈黙する。全知全能には程遠く、しかし限りなく近しい。迂闊に動けば羽ばたきひとつで世界を潰してしまうのに、実に下らない理由で彼等は世界に干渉する。現出しなければ世界は滅びないとばかりに、眷属や加護を押し付ける。うっかり世界の外側に飛び出せば、こういうこともある。理解を超えた価値基準に生きながらも、こちらの思考水準に合わせて意思疎通を試みてくる。たとえば今現在の狼のように。 『とっておきのジョークを聞いてくれないか』 「眷族が見たら泣き出す光景だな」 『大丈夫、連中に何いっても自分等で都合のいい解釈して有難がるだけだから』 「いや、そんな真理欲しくないし」 『到達者には無意味であったか』  あからさまに落胆する狼、猛禽は翼で顔を隠して笑いをこらえようとする。世の大賢人どもが目撃したら魔道の真理もなにもかも捨てて快楽を追究したくなる様な、馬鹿馬鹿しい光景である。  凛。  どれほどの時間が経過したのか、わからない。だが、シュゼッタたちがいるべき世界の果実に奇妙な波紋が生じたのを文彦は知覚した。波紋は外と内より発生し、世界を覆う不可視の球体殻を一周した。  あれは。  思い当たることなど幾らでもあるが、できることは皆無に等しい。世界の外側に吹き飛ばされた文彦には術式の源となる力も尽きており、この場より自力で離れることも叶わない。 『見ていたとも』  狼が嘯く。心底同情するような表情で。 『見ていただけだがね』  その言葉と共に文彦は虚空より追放された。 『駄目である、どこにも見付からないのである』  魔法猫のたちの出した結論は、最初から最後まで変わらなかった。  神々の軍勢を退けた後、光の格子に覆われた空の下でシュゼッタを探し出したのは魔法猫たちだった。硝子質の巨大なクレーター、瑪瑙模様の擂り鉢の中心部で眠っていたのは元の赤髪に戻っていたシュゼッタ一人だった。体格体型の変化は魔法猫たちを驚かせはしたものの、御気楽が信条の魔法猫たちである。あっさりと現実を受け入れ、配下の全てを使役して文彦の姿を捜していた。 『烏賊や鯖にも頼んだのであるが、芳しくないのである』 『王様、あいつらは戦闘に特化した種族ですから探索は苦手ですよ』  シュゼッタの傍らで円卓を構える王ファルカと向かい合って座る長毛の大臣猫が指摘する。 『ええい、それでは魔族どもはどうしたであるか?』 『人類未踏の大陸にまで出張ってますが、駄目ですね。そもそもあんなに魔力を放ちまくってる御仁の足取りをつかめぬというのは』  尋常な事態ではありませんと、大臣猫もうな垂れる。 『時空の壁を超えていた場合には、我等には手の打ちようがありません』 『そんなことは百も承知である』  ぎうぎうと大臣猫の毛を引っ張りながら喚くファルカ。そんな魔法猫たちを見ながら、シュゼッタは自分が口にすべき言葉を慎重に選んだ。 『ファルカ王、彼はもういないんだ』 『……わかっているである。だが認めるわけにもいかないのである』 『王』 『送別の宴を開こうにも主賓がいなければ存分に騒げぬではないか』  どこまで本音か判らぬが、猫にしては真面目な顔で唸るファルカ王に、大臣猫が円卓に突っ伏す。 『リュウズが開放された以上、文彦はこの世界に呼ばれる理由もない。今までと同じ方法で呼び出すことも、できない』  シュゼッタの中にある佐久間千秋としての記憶と、文彦と接触することで手に入れた知識が僅かな希望すら否定する。文彦が神々を封じた後、力尽きた文彦は幻のように消えた。  まるで佐久間千秋が文彦の前から消えたときと同じように。 『彼は彼の役目を終えた』 『お主は、それで良いのかね』 『私には私の役目がある。一日千秋の結界が崩れリュウズが開放された世界は過去と現在の境界もまた崩れて混沌としているのよ』  探索の結果が芳しくなかった魔族や城塞都市からの有志たちを一瞥し、シュゼッタが面倒くさそうに空の一点を指差す。 『……肉体が世界そのものに固定されている生命体や肉体の滅びた存在はともかく、精神生命体にしてみれば時間軸の崩壊は文字通りの擬似的な時間旅行なの。過去に起こった事柄を知性の限りにおいて知覚して、それを半ば己のものとする。  つまり』  凛。  暗雲が生まれた。墨を流し込んだような澱みある黒雲は渦を巻き、畝を生む。雷鳴こそないが空は震え、落雷とは異なる光条が地上に降り注ぎ轟音が鳴る。 『石兵であるか!』  最初に叫ぶのはファルカ王。だがシュゼッタは首を振る。 『彼等は過去を見た。干渉こそできないが、人をはるかに超える知覚力で目的のものを探し出したようね』 『……うわあ』  間抜けな悲鳴を挙げたのは、果たして誰だったのか。確かめる術はない、何しろ彼等はシュゼッタを置いて一目散に逃げ出していた。  理屈ではない。  アレには勝てない、逆らってはいけないと魂の奥底で何かが訴えている。天魔アナスターシャを敵に廻した時でさえ感じたことのない恐怖が支配していた。  アレ。  見上げるほど巨大な金属の塊は、足踏みするようにゆっくりと進んでいく。安っぽいブリキの玩具人形にも見えるが、目の部分が明滅を繰り返すなど芸が細かい。 『魔女が古代の種族に仕掛けた強烈な刷り込み、無敵の攻撃力と引き換えにこの世界の原住民はアレに対する絶対服従じみた恐怖を植えつけられているのよね』  アレ。  すなわち全長20メートルを越す巨大な火星大王の軍団に、猫も鯖も烏賊も、神々を容易に撃破できるだけの攻撃力を誇るはずの彼等は逆襲どころか逃げ出すのが精一杯であった。  冗談のような外見だった。  百歩譲って滑稽と紙一重の格好良さ、しかしギリシアやローマの彫刻に連なるであろう美を体現する神性にとっては屈辱である。それでも火星大王の姿を選んだのは、境界を超えて世界の外側に飛び出す事が不可能だと理解しているからだ。一日千秋の結界こそ解けているが、時の流れはあるべき形に収まってはいない。それどころか結界が解けたならば直後に越境してくるはずの軍勢が一兵たりとて到達してこない。  世界の外より感じるのは圧倒的な破壊。  獣の王とは本質を異にする力。かつて妖精たちが保持していた原初の魔力にも似ているが、穢れへの耐性を持たぬ妖精たちは神々の侵入と共に滅びたはずだ。あの暗黒を触媒とする異世界人の関与があったことまでは知覚している。加速時結界の生成を理解し干渉するなど、魔力の増幅されるこの世界とて人間に成し遂げられるものではない――この世界より消えてくれたことは、神々にとって幸運だった。  ならば躊躇する暇はない。たとえ滑稽な外見をもって民草に語り継がれようとも、世界を蹂躙し支配の座に就いてしまえば良いのだ。神々としての尊厳は、世界を支配してから回復すればいい。それが詭弁であることを誰もが理解していたが、破滅の言葉を口にできるものは一柱とて存在せず、かくして火星大王の軍団は無人の荒野を突き進む。観客がいれば爆笑必至という滑稽な歩き方で、えっちらほっちらと。 「火星大王ですか」  城塞都市に逃げ込んできた魔法猫たちに飲み物を用意しながら、若き領主は難しい顔で唸った。 「火星で大王なんですか」 『固有名詞そのものに意味はないのよ』  どさくさに紛れて烏賊の触腕に引っ掛けられてきたシュゼッタが、文彦がいればそうしたように面倒くさそうにしかめっ面で答えた。猫も鯖も烏賊も、樽魔人が安住の地としていた隅っことか窪みとか陽の当たらないじめじめした場所に集まって膝を抱えて震えている。 「烏賊の膝って、どこなんでしょうね」 『あそこで程よく折れ曲がってる』 「うわー、後の時代に役に立ちそうにない世紀の新発見」  あれほどまでに好戦的かつ徹底的な破壊劇を繰り広げていた魚介類が、今は物陰でラヴとピースを語り合っている。 「魔族の皆さんは」 『色々頑張ってるけど、戦いには使えないわね。妖精の末裔だけあって魔女の刷り込みが強いわ』  あなたも妖精ではありませんか。  いや、本当に妖精なのだろうか。若き領主は悩む。かつてのシュゼッタには、可憐とか健気とか、年頃の少女を褒め称えるための然るべき単語が存在していた。今ここにいる彼女は本当にシュゼッタなのだろうかと、若い領主ならずとも疑問を抱く。  雰囲気は文彦に通じるものがある 『新しくリュウズが巻き直されるまでの間、あの火星大王の軍勢がこの世界を蹂躙しないことを祈るしかないわね』 「祈る前に自分たちにできることを済ませましょう」  短くではあるが、若い領主は己の決意を口にした。彼の背後には、重武装の歩兵と騎兵より構成された人間たちの軍勢がいる。彼等を率いているのはハイマン家辺境伯の子息で、領主の説明では武装を手配したのも彼だという。鯖や烏賊たちの圧倒的な攻撃力を前に見物客であることを強いられていた彼等であるが、ココに来て己の働きどころを察知したのか、その戦意は決して低くない。彼等人間には火星大王への恐怖心も畏敬の念もないのか、城塞都市の中で戦意を保ち続けている唯一の勢力となっていた。だが攻めてくる軍勢は、ふざけた外見は別として、積弊を凌駕する破壊力を有するであろう火星大王なのだ。 『人間の力では石兵すら倒せないわよ』  遠慮のないシュゼッタの言葉。潜在的な成長はあっても基礎的な力では霊長種族において平均を下回り、そのままでは魔術すら行使できぬのが人間である。そんなことも理解できぬ領主ではない。 「そのままでは倒せないでしょうね」  実力不足は百も承知。では貴女が力を貸してくれますかと領主が問えば、シュゼッタは首を振った。 『私の内に封じられていた力は、外敵に対して使われるもの。あの火星大王には干渉できない』  それでなくとも獣の王に類する力である。  祭器もなく獣の王としての力を下手に開放すれば世界は滅びかねないし、今度はそれを巡っての戦いが起こる。 『だが、助力のあてならば』  ひょっとしたら、とシュゼッタは呟いた。その視線の先には、やけに真面目な表情の魔法猫たちがいる。 『実は邪悪生命体の召喚を再度試みていたのである』  無駄だと宣告されつつも、魔法猫の王は諦めきれなかったのか、うつむいたまま悔しそうに唸った。 『駄目だったでしょう』 『赤帝因子も邪悪生命体でも召喚式に応じるものはいなかったである』  だが。と魔法猫ファルカは顔を上げた。 『直接指名が駄目でも、条件設定すればいいことに気付いたのである』  言うやファルカは折り畳んでいた深紅の布を地面に敷いた。召喚の基本式である五角四角三角を組み合わせた図形には、本来あるべき碑文文字が存在しない。単なる直線と曲線の組み合わせに過ぎない紋様の露出にシュゼッタは、ほう、と興味深げに声を出した。 『ここではない世界、今ではない時代より召喚を行うである』  ファルカは高らかに宣言し、その声に引きつけられたのか他の魔法猫や魔族たちが少しずつ集まり始める。 『まず、神々の軍勢を打ち破れる人材を』  召喚式の中央に、ファルカが書き込む。 『単なる力だけではない、知略ができるのも望ましい』  そう言ってシュゼッタが同じ布に文字を書く。魔族たちも、烏賊や鯖もである。 『ビームを撃てるといいな』 『爆発の中でも平気であってほしい』 『可愛い男の子』  どんどん書き込まれていくが、それらの特徴もまたどんどん文彦のそれから外れていく。 「これ、大丈夫なんですか」  若い領主が不安げに尋ねるのも無理もない。 『試すこと自体に意味はあるかも』  たとえ無駄だったとしても、この作業をするために現れた魔族たちには戦う意思が残っているのだと分かった。それだけでも十分に意味はあったのだ。シュゼッタは満足そうに頷いた。  やがて彼等の願望を記しまとめた召喚式が完成し、魔法猫と烏賊と鯖がその周囲で謎の舞踊を開始した。 『でてくるのであるー』 『来るのです』 『来い来い来い』 『きたきたきた』  召喚式の周囲をぐるぐると回る人外の存在。  凛。  やがて彼等がそうさせたのか、召喚式は満ち満ちた魔力によって起動に成功し、淡く蒼い輝きは空間を歪め。  凛。  小規模の爆発が起こったかと思うと、彼は、爆発の中心たる煙の中に立っていた。  三百頭の金色に輝く羊を従えた青年は最初呆然とした表情で周囲の城塞都市を見つめていたが、煙が晴れる直前に何処から取り出したのか麻袋を頭よりかぶった姿で現れた。 「めりー」  耐え難い沈黙が生じたと、この時の様子を若い領主は書き記していた。