九章〜シュゼッタと千秋  もしも。  もしもの話であると、魔法猫の王ファルカが、軍議の終了を意味する最後の問いを文彦に投げかけた。 『あの時である』  白銀の猛禽を視界の片隅に、ファルカ王は呟く。 『あの時、邪悪生命体を召喚しなければ』  シュゼッタ王女は、獣の王になっていたのか?  視線が刺さる。 「おれの予想では」  仮定で物事を語るのをあまり好まぬ文彦は、少しばかり呆れながら、考えるふりをした。  答えは大体決まっている。  誰もが息を呑む。鯖と烏賊は、よくわからないが、とりあえず沈黙した。 「仮におれが召喚されなくとも、セクハラ攻撃に耐えかねたシュゼッタが逆襲して連中を血祭に上げただろうな」 『……その光景が目に浮かぶようである』 「うがあああっ!」  逆上したシュゼッタがファルカの尻尾を掴んで振り回し、テーブルと文彦の後頭部に叩き付けたとしても、彼女を批難するものは一人としていなかった。  誰だって、命は惜しい。  ともかく円卓が破壊されたため、話し合いはそこで中断した。若き領主と鯖と烏賊は、おそらくは初めてのコミュニケーションだろうに、危機回避という目的で一致団結し、その場を離れたのは言うまでもないことである。  彼は当たり前のように、兵舎としてあてがわれた天幕の中にいた。 「やあ百年ぶり」  白と黒の石剣を腰帯に差した青年は、百年前そのままの姿で、組み立て椅子に腰掛け、砂を固めた簡易焜炉で薬茶を煮立てている。 「百年ぶり」  驚きもせず、文彦もまた流すように言葉を交わす。自分に割り当てられた邸宅に来ないかというシュゼッタの申し出をひとまず断って、がらくたを押し込んでいた小さな天幕の一つを所望したのだ。元が城塞都市だけあって、人が住まう建物はそれなりにある。広間に設けられた大小さまざまな天幕を利用しているのは、他国より送られてきた、減刑目当ての志願兵が多い。彼らとて小隊を束ねる者は屋根付の家屋を支給されており、待遇は決して悪くない。 「正体を明かせば、豪華な屋敷で暮らせますよ」 「歪んだ私生活も諸共に暴露される」  それもそうかと、青年は合点し茶を椀に注ぐ。  椀は二つ、互いに椀の縁をあわせ、それから呑む。干して炒った笹葉に薬草を加えた茶は、慣れなければ喉に刺激が強い。数年間の滞在で多少は慣れたが、この島国の住民達の嗜好は、面白い。 「獣の王」  椀の中身を半分ほど干してから、青年は呟いた。 「あの子は、獣の王と化すことでエーテル王国の罪を償うはずだった」 「罪ってなんだよ」 「君は、勘付いているのだろう」  椀をあおる手が止まる。  青年も文彦も、互いの目を見る事はなく会話を止める。ややあって、思い出したかのようにそれを再開した。 「魔女は、自身が完璧に程遠い存在ということを理解している。その上で、自身の誤りを訂正する力も欲している。  絶対的な免疫力としての、獣の王。  抑止力としての、赤帝。  しかし世界を組み立てた二人の魔女は、一つの理想を達成させるために幾つかの犠牲を強いることになった。人に代わり世界を導くべき妖精たちは、世界の汚れに対してあまりにも弱すぎた。彼らは人の中に自らの因子を埋め込みわずかな可能性を託して滅び、恐るべき獣達は外敵への圧倒的な強さを発揮する代わりに、魔女を滅ぼすことができない。  人は穢れに強く魔女の意思に逆らう可能性を有しているが、もてる知識と能力はあまりにも低い」 「対処療法はできても、根治は不可能かい」 「獣の王が完全に覚醒できれば」 「世界の大半を引き換えにしてまで、目覚めさせる類のものかよ」  空となった椀を床に置く。  青年は鍋を見るが、文彦は目を伏せ小さく首を振った。 「それに、千秋の娘にそんな罪業背負わせられるものか」  真顔で。  かくんと、青年が上体を崩す。崩れ落ちると表現した方がいい、そんな勢いで。  元々は領主の別宅として建てられた屋敷は、今は炊き出しの場として利用されていた。  正確に言えば、赤帝の巫女として招かれたシュゼッタの兵舎として提供されていた。一人で住むには多すぎる部屋と、侍女として城塞都市に住んでいた娘や女達が用意されていた。彼女の素性と能力を考えれば、それでも足りないと若い領主は考えてのことだ。  が。 「部屋は一つあればいい」  最も狭く粗末な部屋に枕と毛布を放り込み、シュゼッタはそれで満足した。残る三十六の部屋は食糧や医薬品を備蓄する倉庫となり、ダンスホールは五万人の胃袋を満たすための厨房と化した。 (五万人)  砦に集った兵士の数を脳裏に浮かべ、シュゼッタは気が遠くなった。敵軍つまり太陽神に率いられた軍勢がまっとうに行動するなら、城塞都市に流れ込む水を穢し、畑に塩を撒いているだろう。たとえ打撃戦ではこちらの一方的な展開でも、その種のからめ手を駆使されれば人間の軍勢は実に弱い。人は食事と排泄と睡眠を必要とする生物であり、そのエネルギー効率の悪さはセップ島における知的生命体の中でもトップクラスなのだから。 (まともな神経では運用できない兵数よね)  しかも策は篭城に等しい。  敵が直ぐに再生して襲ってくる以上、戦力の拡散は自滅行為だ。本隊とも言うべき敵の本質を叩くまでは兵力を温存し、被害も最小限に食い止めねばならぬという見解に基づき、砦の兵士は力を蓄え、砦を強固なものにしている。領地を巡る小競り合いのようにのんびりした戦いではなく、一歩間違えば世界そのものを滅ぼしかねない相手との生存をかけた闘争である。エーテル王国末期の記録、その後に興ったいくつもの文明がどのように危機を迎えたのか、人間の国々は真剣に過去から学ぼうとした。捨て駒に等しい咎人を援軍として送る意味を探れば彼らなりの打算もあるだろうが、いま生き残って戦いに勝ち抜こうという意思では彼らは団結していた。  ならば、食事は彼らの士気を高めるための数少ない手段である。 「今日は具の多い粥にしよう」  軍議を終えたシュゼッタは、屋敷に戻るや純白のコックコートに袖を通し、髪を後ろに束ねた。  銀色に輝く大鍋を磨いていた女達はシュゼッタの帰還に際して直立をもって出迎え、メニューを聞いて直ぐに動き出した。なにしろ五万人分である。しかし準備するのは食器と台車であり、包丁を持つものは誰もいない。 「塩漬けの姫鱈をあぶって千切ったものと、朝摘のエンドウ豆を砕いたもの。胡椒を多く含んだ香辛料に漬け込んだ七面鳥の脂、匂いの強い青葉を刻んだもの、胡麻、麻実を潰して絞ったもの。香ばしい笹茶。それから、粘りが少なくて粒の長い米」  呪文を唱えるように、材料を口にする。  するとどうであろう。  磨き上げた大きな鍋に材料が次々と現れ、かまどに火をくべたわけでもないのに鍋の中身が沸騰を始める。女達はそれを手早くかき混ぜ、時々味を見る。 「少しばかり塩味が足りないようです、巫女様」 「では、欠片ほどの岩塩を粉として」  宙に岩塩の塊が現れて、震えれば勝手に粉を落としていく。侍女や街娘は大きな柄杓を用いて銀色の大鍋より粥を移し、荷車に運んで街へと飛び出していく。今度文彦を招いたら、カレーのレシピを教えてもらおうと考えながら、五万人分の食糧を賄い続けることへの困難さを痛感していた。  粥が人数分出回ったのを確認して、それからシュゼッタは壷に寝かせて発酵させていたパン生地を練り始めた。木の実や乾燥果実を蒸留酒に漬け込んだものを刻んで生地に混ぜたそれらは、やや固く分厚いビスケットだった。  近く、大きな動きがある。  ビスケットは、兵や民に持たせる大事な携行食だ。度数の高い蒸留酒や乾燥果実は腐敗を防ぎ、練りこまれた薬草は幾つかの効能をもたせている。食味を多少犠牲にしても、数日を耐えるだけの量を揃えねばならない。 「シュゼッタ様、それ無理」  手伝いをしていた街娘が、邸宅に備え付けられていたパン焼かまどを指差して訴えた。セップ島でパン焼かまどを設けている邸宅そのものが少ない上に、個人の利用を前提とした大きさである。貴族の邸宅ということで数十人分の食事を一度に作れる規模だが、造ろうとする数との間には絶望的な開きがある。 「本当に、無理かしら」  二十六枚分のビスケット生地を鉄板に敷いて、シュゼッタはかまどの扉を閉めた。十になったばかりの街娘は、シュゼッタの顔をじーっと見て、おもむろにこう言った。 「シュゼッタ様、嬉しいことあったの?」 「そう、見えるかな」  指摘されて気付いたのか、シュゼッタはわざとらしくしかめっ面をつくり、困ったように眉を寄せてみた。扉の向こう側、かまどの中で膨らみ始めているビスケットの具合を音のみで判断しながら、でもどこか愉快そうに、悲しそうに街娘の頭を撫でた。 「もう会えないと思っていた人に、再会できたの」 「シュゼッタ様の、大切なひと?」  子供は素直だ。  彼女はやや言葉を詰まらせ返答に困ったふりをしながら、他に耳立てているものがいないことを確認した。多くの女達は配膳や食器の洗浄に忙しく、仕込みを手伝っているのはこの街娘だけだ。 「大切な人だ」静かに微笑む。「彼が現れなければ、私は世界を憎み滅ぼしていた。彼が私を救ってくれなければ、私はこの世界のために戦おうとは思わなかった。この世界が美しいことも、生きることがどれほど尊いことなのかも、彼が教えてくれたことだった」 「だいすきなの?」 「この百年、想わなかった日はないよ。でも、私の先祖は彼の恋人を見殺しにしてしまった。彼は、私が恋人の子孫だと信じてもいる……だから、私は彼に再会できただけで十分なんだ」  彼はきっとセップ島を救ってくれるから。  百年かけて出した決意を口にして、街娘を抱きしめる。息が詰まるほど強く抱きしめられて街娘は驚いたが、耳元に微かな嗚咽が届いたのを知り、街娘は赤帝巫女たる彼女の頭を優しく撫でたのである。 「君は、莫迦か」  黒と白の石剣を帯より引き抜きながら、青年は心底呆れながら文彦を見た。 「莫迦でなければ、一つの事柄にこだわるあまりに物事の本質を見失っている。万物の本質を見極め、陰陽をもって世界を構築するのが影法師だろう」  年齢不詳の若者は、なじるように指を突きつける。 「君は、莫迦だ」  言葉を改め、罵倒する青年。  向かい合って胡坐をかいていた文彦は驚きもせず、聞き流すこともなく、青年の言葉の続きを待っている。それほど広くはない天幕だから普通に叫べば声は外に漏れるだろうが、ここには結界が張ってあった。 「彼女がサクマチアキの娘である根拠はあるのか」  もっともな指摘だった。  文彦の思考は停止した。  突きつけられた指先に焦点を合わせ、背景の輪郭が曖昧なものになっていく。額に圧迫を感じるほど凝視して、その間ずっと息を止めていた。 「彼女がサクマチアキの子孫であって欲しいと、君が願っているのは何故だ」  君の思考は、その一点に縛られている。その一点を証明させるために他の事実を握りつぶし無視している。青年は続ける。 「君は、サクマチアキが幸せな余生を過ごしたと信じたいからだ」 「その先を、おれは聞きたくない」 「本当に?」  再び考え込む。 「君は残酷な男だ」  青年の言葉に抑揚はない。  その先が続かない。青年は、術師の本質というものを知っている。世界の在り方を思考で理解し、思考を超えた領域で知覚する。本心より真実を探求するのであれば、過程を経ずに結果に到達してしまう。ごく短期間で文彦がセップ島の言語を理解したことも、エーテル王国の「魔法」を身につけたことも、術師の本質的な能力があってこそだ。  それほどの術師であれば、シュゼッタ王女の心身を構成するものが何であるか、わからぬはずがない。まして文彦は彼女の身体に植え付けられた白銀の猛禽……この世界において霊鷹に相当する獣の王たる因子を分離させたのだ。  その時点で、彼は思考を超えた領域で真実に触れたのではないか。 「彼女がサクマチアキの血を引いたとして、君は何をするのだ」 「う」  痛いところを衝かれたらしい。沈黙とは別の反応を見せる文彦の額に一筋の汗が流れた。 「たとえ将来を誓った相手の子とはいえ、親と子では別の存在。  親との約束を子に強いるか?  それとも、自分の血を引いているわけでもない彼女の保護者気取りで世界に干渉するか?  君は、だから残酷なのだよ」  凛。  会話を中断させる、鈴にも似た音が空より響く。青年は膝を立て、文彦は、ああ、と我に返る。 「すまない、ひとつ忘れ物をしていた」 「持って行くかね」  白と黒の石剣を示す青年。  文彦は小さく首を振り、そのまま転移して消えた。  空に太陽が輝いていた。  その数は二つ。直前までは一つだった。 『私と戦え、影法師ぃ!』  空を震わせる絶叫。  全方位に放出されるのは、光と熱と魔力。地を焼き川を干上がらせるほどの熱量を放出するのは、石杜学園で文彦を襲った太陽王だ。全身より光を放つ姿は人の形さえ判別できず、文字通りの光球と化している。世界が許容する限界を超えて力を放出する太陽王は、マノウォルトに変じる寸前だ。もとより高い力を持っていたライトブリンガーが、セップ島に来ることで能力が極限にまで増幅されている。魔力許容の高いセップ島世界でも限度を越えた魔力の高まりが、太陽王の身体に宿る。  虚空より出現した太陽は、元よりある陽球よりも大きく眩い。それが流星のように唸りながら空を飛び、砦の周囲をじりじりと熱していく。烏賊と鯖は光線を発射するが、光を操る太陽王にとってはエネルギーの補給に等しい。 『無駄なのだよ、下等生物!』  効かないと分かっている光の攻撃を繰り返す烏賊と鯖を見下しながら、太陽王はなおも吼える。 『神のため贄を奉げるかね! 我を崇め、絶対者たる我に力を奉げ、己の無知による罪を償おうというのか!』 「まさか」  凛。  太陽王の怒号に対し、あくまで静かに、しかし不機嫌さを隠そうともしない文彦の声。高速で飛行する太陽王のほぼ背後の上空より聞こえるため、彼は振り返るや莫大な熱量の光線を上方に放出する。天を焦がす炎の柱と表現すべき、光条である。 「おお、すげえ技」  別の位置より、文彦の声。  外したことを悟った太陽王は水平全周囲に光条を放つ。高い位置より放出された光の円盤は地面に到達する前に大気圏を突破し、虚空に飲み込まれて消えた。 「残念」  やはり文彦の声。 「当たれば倒れてた。この世界で力が増幅されているとしても、大したものだ」 『卑怯者!』  吼える太陽王。  砦の真上で静止し、その熱量で軍勢を苦しめながら、あくまで清廉であるかのように振舞う。 『隠れてなどいないで、正々堂々と戦え!』 「影使いがライトブリンガー相手に正面から戦えるかよ」  凛。  一切の闇が失せた光の渦の中に、文彦は現れた。空間転移の術を使っているのか、それとも飛翔の術式を使っているのか、太陽王の目の前に一瞬だけ現れた影法師は次の瞬間に無数の光条に貫かれた。  かのように、見えた。  凛。  貫いたのは、残像だった。魔力を帯びた影、実物と見分けのつかない虚像はにやりと笑い、爆ぜる。  凛。  太陽王の動きが停止した。  彼は理解したのだ。今ここで爆ぜた虚像は、ごく細い繊維のような無数の「影」を編みこんで生み出されたものだ。太陽王が常に生み出す圧倒的な光の中で、その影は侵蝕を受けながらも決して消滅することなく存在し続けていた。  現在も、である。  爆ぜた繊維状の影はそのまま太陽王の身体に触れ、光に満ちた太陽王の中に潜り込んでいく。蜘蛛の糸よりも細かったそれは、少しずつ太さを増していく。それは、太陽王の持つ光が衰えていることも意味している。  凛。  影は、十二方より伸びていた。いずれも地平線の彼方、陽光の届かぬ夜の側より延びているのだと太陽王は本能的に理解する。十二本の影は十二の分割を繰り返す。十二本の影が一千六十九兆九千三百二十億五千四百万本となり、それらの影がどれ一つとして同じものはなく独立したものとして太陽王の中に潜り込んでいる。  もはや太陽王の発する光や熱は大地を焼き川を干上がらせることはない。それどころか影の侵蝕を受けた太陽王は自己の存在さえ維持できぬほどになっていた。  刻むのでも貫くのでもなく、まして潰すことも溶かすこともしない。 (単なる影使いではないのか)  恐怖は限界を超えていたが、暴走はない。突き立てられた非常識な数の影が、太陽王の力を吸い出して分散させているのだと理解できる。  ありがたい。  マノウォルトではなく、自分は神性として死ぬことができるのか。 『やはり、石杜で始末すべきだったか』 「さあ?」  吹く風を足場に虚空に立つ文彦は、太陽王を貫くごくごく細い影を、本の少しだけ太くした。電子顕微鏡を用いねば判読出来ないほどの細い細い影の糸は、元よりも一割にも満たぬほどの程度で径を増した。  それで十分である。  元の太陽さえ空より覆い隠すような闇が砦の上空に広がり、人々は太陽王の最期を理解した。  細緻な術だ。  大胆な術でもある。  それを成し遂げたのは、魔法猫が邪悪生命体と呼ぶ文彦である。その術式がどれほど難しく、組み立てに際して文彦が用いた技法がどれほど高度で、かつインチキじみたものなのか、セップ島の住人には理解出来ない。それは、厳密には影使いの術式ではない。昇位を認められた仙術とも違う。影の術式を持って起動させたが、そこから先はまるで別のものだ。  陰陽をもって万物を理解し、同時に構築する。  突き詰めれば、それは造物主の御業にも通じる。完璧な管理など求めず混沌に徹するのであれば、虚無の中に閉じられた世界を生み出すことも難しくない。事実、そうやって己の居場所を作り上げた魔物は幾つも存在する。そうして生み出された世界を訪れたこともある。滅びる様を見たことも。  凛。  漆黒の闇が空を覆う中で、白色に輝く小さな星があった。  否、それは星ではなかった。  掌に隠れるほどの小さな白色の石片。表面には無数の文字が刻まれ、それらの文字が黒く輝いている。  凛。  着地していた文彦は、それを凝視している。 「星の、かけら」  誰かが呟く。恐怖と、絶望が言霊に乗る。 『無粋な真似を』  凛。  闇が散った。闇を生んでいた、影の糸が千切れ飛んだ。貫き、吹き飛ばしたはずの太陽王が白色の石片を核として再生を果たし、蘇った己の身体に触れながら忌々しそうに舌打ちをしている。 『勝負は既についたというのに、我らを果てることなく戦場に送り込む気か』 『それが、世界の敵としての貴方達の存在意義ですもの』  凛。  太陽王の背後から、腕が伸び、その身体を抱きしめる。かつて文彦が終末の魔女と呼んだものが、濃淡の彩りある墨色のドレスを身体に巻きつけた姿で現れる。  アナスターシャ。  セップ島においては造物主に等しい、二人の魔女の片割れである。はじまりの魔女サージェリカと対応するように、全てのものに終末を運命付ける存在。壁画に描かれる彼女は帯で目元を隠し、現在過去未来に起こる全ての出来事を刻んだ布を身体に巻きつけ……彼女の瞳がそれらの運命を目撃した時に全てが終焉の時を迎えると、彼らは信じている。  だが、目の前にいる魔女は人々の知るアナスターシャの姿と大きくかけ離れていた。 (強いて言えば) 『あれは、痴女の類であるか?』  おそらく多くの者が抱いたであろう感想を、飛び出してきた魔法猫ファルカが口にして、その他の大勢が思わず同意した。  痴女である。 「やい、そこの恥ずかしい女」  サージェリカの名を口にするよりは、ずっといい。  展開していた術式を解除し、文彦は叫ぶ。 「貴様なんて、恥ずかしい女で十分だ!」  さて、ここからどうしよう?  シュゼッタが砦の内部にて爆発的な力の膨らみを感じて飛び出した時、魔女と文彦の戦いは終結していた。  魔力ですらない、世界の源を具現する力。  魔力ではあるが、いかなる性質も帯びぬ無垢なる力。  いずれも、このセップ島には存在しないはずの力である。だからこそシュゼッタは、焼きたてのビスケットを一杯に詰め込んだ篭を抱えたまま、屋敷を出て「それ」を目撃した。  知覚してしまった。  この世界の誰よりも、いかなる獣よりも澄んだ、そして凶凶しい力を生み出す魔女。漆黒のドレスの内側より輝く無数の文字はシュゼッタにも読めぬものだが、それらの文字が何を意味するのかを彼女は理解してしまった。  あれは、律だ。  魔法が魔法であるための、世界が世界としての形を成すための制約だ。  あの文字を一つでも壊してしまえば、この世界は均衡を失う。宙に浮かぶ、あの魔女を傷つける事は、世界そのものを滅ぼすことに等しい。シュゼッタの中に宿る赤帝の力が、彼女とリンクしている白銀の猛禽の力が、残酷なまでの真実を告げる。  あれは、魔女だ。  終末を司る、魔女だ。  この世界を組み立てた魔女の一方で、この世界を護るために沢山の神々を封じ込めてきた魔女だ。 「……どうして」  呟く言葉が唇より漏れる寸前。  凛。  空が、白色の光に覆われた。  無垢なる魔力が、あの魔女を護るべく立ちふさがった太陽の神を直撃したのだ。圧倒的な光、その中心にある白色の星の欠片が、無垢なる魔力に飲み込まれて塵となった。魔力は光をも飲み込んで、魔女を吹き飛ばす。  凛。  再び静寂が訪れた砦に、悲鳴が上がる。  沈み始めた太陽を背に、伝令と思しき若い兵士がシュゼッタを捜す。 「赤帝の巫女殿」  顔色が悪い。  シュゼッタは、彼を見てそう感じた。彼女もまた顔から血の気が引いているのを自覚してる。砦に満ちていたあの魔力は、今にも消えそうではないか。 「用件を、早く」 「影法師殿が討たれました」