六章〜魔女の誤算  世界に絶対という言葉はない。  彼女たちが知る限り、知覚し得る限りにおいて、彼女たちはそこに到達するものに出遭ったことがない。  全知全能。  世界の在り方を理解し、世界に到達する方法を理解し、その上で彼女たちはその言葉が持つ意味と矛盾に苦しんだ。万能とは常に矛盾を孕む言葉であり、彼女たちには矛盾を解決するための力は備わってはいなかった。  彼女たちが降り立った時、そこはまだ世界としての形を得ていなかった。  混沌という言葉さえ当てはまらぬほどの、原初の世界。  既に滅び始めた世界さえ存在するというのに、泡沫のごとき世界は『樹』の枝先に、今まさに蒼き果実として形を得たのだ。終焉をもたらし破滅する世界を幾度となく見てきた彼女たちだが、世界の生誕に立ち会うのは初めてのことだった。  だが。 『このままでは果実は腐る』  世界に降り、一人が予測する。形を得たものの、この世界はひどく不安定だ。一度は形を得た世界が、原初に戻ろうとしている。沸騰する原形質の海とも喩えられる世界の姿はおぞましくもあり、その中心には一頭の獣が今まさに息絶えようとしていた。 『獣の王よ、これが貴様の望む未来の姿か』  もう一人が降りて、獣に問う。  獣の王と、呼んだ。  限りなく純粋な白と、限りなく純粋な黒で構成された、虎に似た獣だった。毛の一本一本は石英結晶のように光沢を帯び、鱗にも見える。  一人と一人は、それが獣の王であることを見抜いていた。  十二の因素を司り、世界が世界であるための律を支配する存在。いわば究極の法を体現する身でありながら、世界を超越することを許された規格外のもの。 『白き虎の王』 『いるはずのない、最後の一柱。貴方が揃えば、他の王達は宿願が果たされる』  抑揚のない声で、一人と一人は呟く。  白き虎は、力なく頭を上げる。虎と呼んでよいのか躊躇われる精緻な造形である。 『それが、こんな小さき世界を生み出すために全てを失おうというのか』 「その価値はある」  優しい声で、獣は返す。これから死を迎えようというのに、迷いのない言葉。 「この世界には可能性がある」 『如何様な』 「わたしにも、わからん」  笑い、獣は息絶えた。  一人と一人が訪れるのを待ち続け、そうして尽きたようにも見えた。骸は白と黒の結晶となり、その半分が地に沈み、残りは星となった。原始は混沌と化し、不確定なる無秩序は無限の可能性を獲得する。受精卵が桑実胚に変じるように、果実は形を得ようと動く。  秩序はない。 『如何様に』 『如何様にも』  一人と一人は頷き、混沌に身を投じる。各々の身の内に抱えていた幾つもの律が解け、白と黒に紋様を刻む。混沌は次第に形を整えていき、その最中に黒と白の石板が吐き出される。  石板は世界の各地へと散っていき。  最後に、二人の魔女が現れた。  対なる塔が、震えている。  世界を形作る律の全てが、そこに刻まれている。世界が世界としての形を維持するための律は、ここにある。それを自由にすれば、世界の在り方を自由にできる……千秋は、それを知っている。 『似ているようで、違うわね』  塔は、巨大な樹幹にも見えた。金と銀。太陽と月。宵と暁。 『似てても、同じものじゃない』  塔の近くにある石碑の一つに触れ、赤帝の力を取り込んだ千秋は、大きなものを諦めた表情で息を吐いた。術師とは、世界の在り方を理解する人種だ。世界を理解しようとして、その在り方の凄まじさに狂うこともある。真実とは理解を越えた領域に潜みながら、その徴を至る所に散りばめて探求者を惑わすものである。かつて三狭山の特異点を支配しようとした、神楽のように。  対なる塔は、それを知るものにとっては限りない誘惑である。世界に等しき寿命を獲得し、世界を何度でも作り直せるだけの力を手にし、世界と同じくらい丈夫な存在となるのだから。あらゆる律は彼の者の支配下となり、飛ぶ鳥は彼の者の赦しがなければ幾ら力強く羽ばたこうとも風がただすり抜けていくのみ。  数多の矛盾を内包しながら、限りなく全知全能に近しい力を与えるもの。 『とお』  術師であれば感激し、あるいは手に入れようとする対なる塔に、千秋は内装の工事現場で借りてきた金属棒で殴りつけた。わざわざバールのような形状の工具を借りて、尖った部分で叩きつける。  ごいん。  雅さのかけらもない鈍い打撲音である。チタンヘッドドライバーのフルスイングならば、ぱかこかーんと小気味良い音が鳴り響いたに違いない。  とにかく千秋は赤帝の力を込めたバールの一撃を、薙ぎ払うように対なる塔に炸裂させた。赤帝の力を込め叩きつけたため、金と銀の塔はありえないほどの速度で吹き飛ぶ。  そう。  対なる塔は、吹き飛ばされた。密度を考えれば到底こんな飛び方はしないだろうという、そんな勢いで。くるくると回転しながら吹き飛ばされた。 『ひいあああああっ』 『ほああああああっ』  素っ頓狂な悲鳴を上げて。  回転する内に二つの塔は内側に折り畳まれ、あるいは展開し、二人の小娘となって天蓋の壁に激突する。カエルの鳴き声にも似た短い悲鳴をひとつ吐いて、少女達は気絶した。 「……どちら様、でしょう」 『だから、御本尊じゃないの?』  呆然とするジョゼにバールのようなものを押し付けながら、千秋は二人の少女の足首を縛り上げた。 『ええと、おもらしの魔女だっけ』 『おしまいの魔女ですっ』  銀色の衣装を身につけた少女が反射的に叫び、それからあわてて口に手を当てた。  可憐な少女である。  エプロンドレスに身を包むその姿は、産業革命前後の欧州で見かけた女中を連想する。そういう女中服はセップ島の国々でも貴族社会で見かけるものらしく、この空飛ぶ都市で内装や工事に勤しむ自動人形たちの何割かが、同じような衣装を身につけていた。  いわゆるメイドさん服、である。 『……ふう』  一度は預けたバールのようなものを再び手に取り、千秋はとてもとても長い溜息をついた。真実に近づけば近づくほど、嘆息する魔術師は多い。煩悩もろとも俗世との縁を切った仙人ならば笑って済ませるだろうが、愛憎の情を捨てきれぬ彼女にとっては不可能な話だ。  吹き飛ばされ、抗議した二人の少女はきょとんとした顔で千秋を見ている。圧倒的な力、世界が世界であるための律を維持するための力をこれでもかと放出していながら、こくんと小首をかしげて可愛らしさをアピールしている。律の支配者が命じれば、タタリなど一瞬で完治した。神性などが侵入してくることもなかった。  ここにいる二人の少女は、造物主が造物主であるための、拠り所である。 『世界の律を保つ存在が、霊長種を破滅に導く侵略を容認しているの』 『訂正を求めます、赤帝の顕現よ』  銀の少女が声を上げる。 『私達は、この世界の起点と終点を維持するだけの存在です。起点より発し終点に至る律を維持する事はあっても、そこに至る過程で何が起ころうと私達の関与するところではあ』  りません、という部分はバールのようなもののフルスイングでかき消された。オーガスタを制するのも夢ではない見事なショットは少女には当たらず、鼻先で静止している。 『あんた達は、嘘をついている』  感情を殺した声だった。 『塔に刻まれた記録を見た。獣の王より生み出でた、ここは全く新しい世界だった。あんた達は自身の識る律をもって始原の世界に形を与えた……だが、それは永続しない律だ。この世界に十三番目を刻む獣の王が誕生するまでの、新しい極界を導くまでのかりそめの律』  凛。  バールの先端が、沸騰する。装飾のない金属棒は瞬時にして細緻な薔薇の造花となり、花篭一杯分の金属薔薇が束となって千秋に握られる。その茎には鋭く輝く長い棘が無数に生えており、彼女の掌を突き破って伸びていた。 『この世界は、安定には程遠い』  掌より血を流しつつ、千秋の言葉は続く。 『世界を構成する十二の因素。それを司る獣の王は、この世界にはない』  二人の少女もまた沈黙を続ける。千秋の言葉の先を、推論を待っているかのように。 『それどころか、いかなる獣の王が誕生するのかさえ決まっていない。猫とか牛とか鯖や烏賊の獣の王が誕生する可能性さえ、この世界にはある。獣の王でさえ定まっていない世界だもの、律を越えたものが次々と生まれてきても不思議じゃない。  抑制されることのない、可能性。  強大な魔法の力を持ちながら呪詛への抵抗を持たない妖精族に、次々と生まれてくるタタリ達。世界の危機と、それに拮抗する抑止力。世界の耐久力を超えた水準で均衡を保つように仕掛け、そのくせ赤帝召喚の術式を仕込んでいる』  マノウォルトを狩る、獣の王以外の存在である赤帝をこの世界は必要とした。 『新しい獣の王を生み出すために、あんたたちは世界を滅ぼそうとしている。律の管理者として、何度でも世界を作り直すことのできるあんたたちなら、それができる。外敵を呼び込み民をタタリに変じさせてもなお、獣の王を生み出し導くことができるのなら、世界と引き換えにしても試す価値を見出している』 『考えすぎじゃありませんかしら』  金色の少女が、ようやく口を開く。 『そうね。考えすぎだと、とても嬉しい。烏賊や鯖の獣の王なんて、あまり歓迎したくないし』 『レーザーとか重力波とか発生するのって素敵だと思いません?』 『ちっとも』  ドスの効いた声で否定され、金色の少女は笑顔のまま小さく舌打ちした。  金銀の少女も、千秋もにこやかな笑みを浮かべたまま、にらみ合っている。  一触即発。  千秋の言葉が正しければ、世界そのものに等しい金銀の少女に勝てる道理はなく、しかし彼女たちこそエーテル王国の民を苦しめる災厄を引き込んだ張本人である。自分達を苦しめるだけ苦しめ、そうして何処からか獣の王なるモノが誕生するのを待っているというのだ。 『それが、全知全能の造物主のなす業だというのですか』  金銀の少女と変わらぬ衣装を身につけていた魔族の娘ルルが、抑えきれぬ怒りを言葉の端に込める。元より神なるものなど崇拝していないセップ島の民ではあるが、造物主に近しいものとして二人の魔女へ敬意を払うものは多い。エーテル王国でさえ、魔女崇拝を否定しなかった。  その魔女が。 『全知全能の造物主なんて、会ったことないわよ』  あっさりと否定したのは千秋だった。魔女と彼女のやりとりに不快を抱いていた魔族たちは呆気にとられ、驚くばかりだったジョゼを含むエーテルの王族は息を呑む。 『全知全能ってのは矛盾の上に成り立つ存在だし、万が一にもそれを具現化した存在は他者を必要としない。自分以外の存在への干渉を行う時点で全知全能は意味を失う、まして』  自分以外を必要としないものが、どうして世界を創造する必要があるの?  魔女は、世界に律を刻んだ者より生まれ出でた存在に過ぎない。世界の源となった獣の王も、十二に分かたれた因素の一つを司る存在である。世界を創造するものが全知全能である必要は、どこにもない。 『言い返せば、造物主とて自身が生み出した世界で絶対者になれるとは限らない』 『律を支配する力を持っていても?』  挑発する、金色の少女。 『私達は世界の律を守っている。私達を支配下に置けば、全知全能になれるかもしれませんわよ』 『無理無理』  あっさりと、千秋。 『仮に全能になれたとしても、それはこの世界に関してのみ。異界の律を持ち込むモノに対しては限界がある』 『たとえば、赤帝でしょうか』  補うように銀色の少女。 『私達の支配する律を超えて動く異界の存在。マノウォルトを討ち神々を滅ぼすだけの力を持つ、超越者。十二の獣の外れにて、あなたは戦うことができる。そのために幽鬼の王が生み出したはず……だから私達はエーテル王族に赤帝召喚の術式を伝え、こうして招く日を待ち続けた』  銀の少女は、真剣な目で千秋を見つめ。  あれ、と首を傾げた。  先刻の仕草が可愛らしい少女のそれなら、今度のそれは残業続きでストレスを溜め込んだ二十代後半のOLのそれだった。 『……あなたは赤帝の顕現ですわよね』 『力の一部は吸い取った。でも赤帝武具は着用したことはないし、この世界に赤帝武具は到達していない』 『……私達、赤帝召喚式を仕込んだのですよ?』 『本来召喚に応じるべき赤帝武具の着用者は、今は男だから』  そいつと交わった私が、こうして呼ばれたわけ。  千秋の説明に、金銀の少女は引っくり返る。彼女は首をすくめ『だから言ったでしょ』とばかりにルルを見た。