三章〜罪と罰  たとえるならば、それは蜘蛛の巣ではなく巨樹の森だった。  天地の向きもわからぬ宙に浮かぶ、無数の巨樹。根を張り枝を広げ、それが上下左右の無秩序に等しい配列の中で互いを傷つけぬよう交叉させながら、葉や果実を結んでいる。  果実は、石英を削り出した鈴のようだ。どこから吹くのかもわからぬ風に揺れては、ちりり……と硬く澄んだ音を奏で、それが周りの枝葉を震わせる。宙を満たすのは光でも闇でもなく、そこには色として知覚されるものさえ存在しない。だが、そこには確かに彩が存在した。大いなる矛盾を内包した空間は、巨視的に捉えるのであれば穏やかであり雄大極まりない。  そこに。  小さくも鮮やかな真紅の光輝が生じる。  果実の内側より現れ、鈴の面に細波を立てながら現れた真紅は、果実から見ても目で捉えきれぬほどの小さな芯でありながら、数多の巨樹を照らし出す強い強い輝きを放っている。  そうして、気付くのだ。  この真紅が小さいのではない。巨樹の漂う宙が果てしなく広く、樹に比べれば桜桃にも等しい鈴が、そのまま一つの宇宙を内包してなお余りある空虚の器であるのだ。  噴き出す光を背に感じながら、彼女は降り立った。  精と共に流れ込んだ力は完全に身体に取り込まれ、骨肉のみならず魂の奥底にまで染み込んでいる。もしも彼女が子を宿すことができれば、生まれ出てくるものは母親と同じく真紅の祝福に包まれていただろう。奇妙な確信を抱くと共に、彼女は自分が取り込んだ力の本質を少しだけ理解した。  私達は、そういう生き物だ。  己の内側から声が聞こえてくるような錯覚。特異点の霊気が人間を魔人に作り変えるのであれば、この力は自分を如何なる存在に変化させるのだろうかと。獣の王に連なるものか? それとも幽鬼の王にいたるものか?  (どちらでも、結果は同じことか)  私は力あるものとして招かれたのだ。  自嘲する。バケモノではなくひとりの女として、友として、共に生きていきたい相手を得たというのに。自分は確かにこの上なく力ある存在として、この場に立っているではないか。 『私を招いたのは、お前達か』  廃墟に等しい、戦火に崩れた街の端。目の前には、人間に似た者がいる。おそらく自分を呼び出したのだろうが、術式に関する知識は不十分のように見えた。誰かの残した術式を偶然起動させた可能性もあると考え、彼女は正面にいる者を見た。とりあえず男に見えるその若者は、彼女が全裸であることに驚き、恥ずかしがっている。  違いがあるとすれば、生命の造りと耳の形程度。恐怖と怒り、困惑の色が見え隠れする。 「あなたは、獣の王に連なるものか」 『獣の王なら、こんな法円で呼び出されたりはしない。私は赤帝の力を身に受けた巫女だ』  一糸まとわぬ肢体を隠すこともせず、彼女は抑揚のない顔のまま問いに答えた。愛した者のように、空間を跳躍することは彼女にはできない。彼は誰にでもできるものだと誤解しているが、そこにある仕切りを知覚して飛び越えるのは特別な才能をもって世に生まれるか、何度も空間の断裂に飲み込まれて理解するしかない。「彼」は後者であり、想像を絶する修行の過程で深刻なまでの空間崩壊に何度も何度も飲み込まれて、その感覚を自然と身につけた。残念だが、彼女には空間断裂から復帰できる自信もなく、希少種の才もなかった。  そのままでは戻る方法などない。 『納得できる戦いであれば、力を貸そう』  どうせ千年は待つと覚悟を決めたのだから。  佐久間千秋と呼ばれていた少女は召喚用の法円を踏み越え、魔力を編んで簡素な服を出現させる。初めて吸ったエーテル王国の空気は血と硝煙の匂いで穢されており、ひどく不快なものだった。  医療施設と称する建物に案内された時に千秋が思い出したのは、その昔に無所属の術師を通じて聞いた話だった。  超大国の艦隊にまつわる悲劇。  仕掛けたのは、物の怪とも呼べない低級の悪霊だと聞いている。人形に憑いていれば髪を伸ばし歩く程度の、それこそ駆け出しの術師であれば基礎的な手順を踏むことで簡単に退治できる存在だ。時たま自動車や端末類に憑いて悪さすることはあっても、国内では即座に対応できる体制が整っており、多くの場合には何の問題もない。 (でも魔術防御を持たなかった艦隊は、たった一体の憑物に乗っ取られて壊滅した)  高度に制御された射撃機構も、地球上の80%を灰燼に帰すことのできる火力も、勇敢さとタフネスで世界に名を轟かせる歴戦の兵たちの拳も、たった一体の異形を止めることができずに敗走した。異形は艦隊全体を取り込んで母国に攻め込もうとし、善意によりウェールズから派遣された魔女の弟子が唱える魔除けの呪文一つで沈黙した。 『目も当てられない状況だわ』  妖精種と人間の身体構造が似通っている以上、医療施設の造りも大差ない。  分厚い障壁越しに見える患者は寝台に横たわり、周囲には医師や医療器具が控えている。異世界だろうと、異種族だろうと。召喚に立ち会った妖精の青年は、まず最初にと彼女を此処に案内した。  寝台の上で蠢くもの、絶叫するものたちを一通り眺めた上で、千秋は正直な感想を口にする。そこにいるはずの患者たちは、妖精種のはずだった。見た目で判断するのであれば、耳の形しか差の見当たらない人類の近縁種であり、おそらくはこの世界の霊長種のひとつ。  だが、そこにあるのは形容し難い生物だった。金属質の外骨格に覆われた猛獣、意思をもつ臓物に全身を覆われた貴婦人など、正視に堪えない醜悪なものばかりである。  医師も看護婦も、悲壮な覚悟と共に患者と接している。診る側も、相当の確率で同じ化け物に変じていると青年は頭を振る。 『それと、絶望的な気分になる。こんなもののために、次元の壁を越えてまで私を召喚した労力は無駄に等しい』  言葉は通じている。  思念がダイレクトに伝わる感覚に多少戸惑いはしたが、制御は難しくない。人間社会に魔人が溶け込んで生活していくためには、力を絞り込むのは必要な技術である。 「原因がわかるのですか、赤帝の巫女」 『説明するのが面倒だけど』  致し方ないと、千秋は壁を越える。いまだ特定されていない汚染源を防ぐために張り巡らされた障壁は、半霊体となって結合を解いた魔族の前では無意味である。病室の誰かが反応する前に千秋は患者の一体、金属質の猛獣の傍に立ち、手を触れた。 『汐留めの蟹は溺れて流さるる』  小さく呟く。獣は痙攣したかと思えば水風船のように破裂して、血漿にまみれた妖精の子供が現れる。今までの身体である獣の身体はごそりと剥がれ落ち、その内側には肉色の蟲が蟹や海老の茹で肉の如く張り付いて蠢いている。それらは程なくして宙に溶け、元の姿に戻った子供が今更のように泣きじゃくる。  反応できたのは、看護婦の一人。綿の布を抱えて子供の身体を拭き、それから強く抱きしめた。 「……すごい」 『なに、初歩の呪詛よ』  本来であれば何の効果も示さぬはずの弱弱しいものが、あらゆる魔力を増幅してしまうこの世界の影響下で必要以上の力を獲得したのだ。呪詛の組み立て方にしてもひどく幼稚で原始的であり、本来であれば意思の弱い人間でも気分が悪くなる程度の効果しか発揮しないはずだった。 『救えるだけ、救う。数を増やしたければ力を貸せ』  偽りを言ったつもりはない。  次の患者に触れながら、千秋は周囲の医師たちに向かい短く声をかける。 (個人単位での呪詛ではない)  おそらく都市ないし相当する範囲の土地や自然そのものが、呪詛によって汚染されているのだ。しかも施された呪詛は、千秋にも理解できる性質のものであり、この世界の法則には縛られない魔法だった。  かつて神霊を呼称した存在がいかなる形で呪詛の種子を世界に蒔いたのか、千秋は知らない。神威と後に語るべきものは多岐に及び、その記録を神話民話に頼って紐解けば、神々がもたらした贈りの物の中には気が遠くなるほどの災厄が詰まっていることを理解するだろう。  樹は、それだけでは世界を呪ったりはしない。  たとえ雷により幹が割れ焼け落ちようとも、そこに何者かの作意を感じ取り怨嗟の言葉を吐くことなどしない。  岩も、それだけでは世界を呪ったりはしない。  雨水に打たれ日差しを受けて割れ砕かれようとも、岩は命乞いなどしない。天然自然の精霊が樹や巨岩に宿ったとしても、それそのものの営みの内に生じる瑕をあるがままに受け入れて、定まらぬ日に砕け地に還ることを粛粛と是とする。  呪詛を唱えたのが神霊の類であれば、それを正面より受け止め業として取り込んだのは霊長である。霊長が呪詛を身に受けることで森羅は穢れたが、万象に意味が生じた。呪詛により揺らいだ世界は、自身を象る要素に意味と意思を与え、そこに異形が現れる余地を造った。  だがそれは発端に過ぎない。たとえ原初の神霊を裁いたところで、霊長が抱えた業は癒えず、変容した世界は潔癖なまでの清浄を受け入れたりはしない。 『私のいた世界は、そういう意味では汚れまくった場所』  混沌と呼ぶ者もいる。  一千数百年の生を振り返り、千秋は簡単に言ってのけた。 『喩えるなら、蟲毒の壷さね』 「……はあ」  処置が一通り完了した後、休息のための部屋に案内された千秋は、どうして呪詛を退治できたのかという質問に、気乗りしない表情で答えた。異形と化しつつあった妖精族の患者が一千名を超えていると聞いた彼女は術式による治療が面倒だと言い、塩をまけと命じた。  科学的な根拠も魔法的な触媒性もない結晶ではないかと意思と魔法使いが異を唱えたが、効果は絶大だった。呪詛の源となった世界でも有効な手法は、セップ島においても呪詛と同様に効力を増強させていた。 『閉じた壷の中で共喰いを繰り返す、毒虫みたいなもの。有史以来繰り返される闘争と呪詛は、無垢として生まれてくるはずの赤子の魂にまで罪業を背負わせることが珍しくない。その代わり、健やかに育てば少々の穢れに侵されない連中も育つ。呪詛への耐性も、この世界の連中とは比較にならない』  だから、膨れ上がるように世界を喰らいつくすマノウォルトが、あの世界では力を抑制されてしまう。異形の力を取り込む魔人が誕生し、霊長の限界を超えた力を獲得する。  対して、この世界は濃密な力に満ちていながら、性質はあくまでも穏やかな均衡の下にある。一の力を千に増やす、どれほどの魔杖をもってしてもなしえぬ奇跡を可能とする世界。 『でも、ここで生まれ育つ霊長は世界に保護されているが故に呪詛への耐性は低い』  魂が真っ白だから、ほんの僅かな穢れが致命的になる。魔法そのものの水準は極めて高く、仕組が理解出来ない技術がいたるところに存在しているにも関わらず、だ。  妖精たちの魔法は世界の在り方を理解するための科学の一端であり、世界は妖精たちの存在を祝福している。心身の作りこそ似通ってはいるが、決定的な部分で異なる存在だと、千秋の言葉が青年の胸に刺さる。 「耐性が低いと、我らはどうなるのです」 『呪詛に呑まれタタリと転じる』  間を置かずに返したのは、青年の言葉の裏にあるものを感じ取っていたからだ。 『そこにいるだけで周囲に災厄を撒き散らす、悪意の結晶。生存のために人間を襲う異形と異なり、存在目的として世界を憎み滅ぼそうとする』  最初に召喚された場所の情景を思い出しながら、千秋は周囲を再度見渡した。集音機やカメラに相当する器具が先程より彼女と青年の会話を記録しているのはわかっている。 『破壊の痕は新しいが、神々の眷属が暴れた気配ではない。連中が蒔いた呪詛の種がタタリとなって、国を荒らしているのだろう』  おそらく神々の眷属を主張する侵略者は、既に一度は退けられている。仮にもエーテル王国を名乗るのであれば、そして獣の王を知っているのであれば、赤帝召喚の術式を扱えるのであれば。 (正面からエーテル王国に挑む阿呆はいない)  どういう種類のエーテル王国でも、それは共通の認識だ。獣の王の執行人であり、世界の仕組と魔法を究めた超常の集団は神々の天敵である。知らずに攻め込んだ阿呆がいたとしても、気付けば別の手段に出る。この世界の特性を理解すれば、呪詛を蒔く方法を思いついても不思議ではない。  遠方より、爆発音。  窓が揺れ振動に悲鳴が上がる。なるほど呪詛自体は稚拙極まりないものではあるが、赤帝の力が必要なのは間違いない。近付きつつある爆発音に絶望の表情を浮かべる青年を一瞥し、この世界の成り立ちを調べる余裕さえない現状を少しだけ悔やんだ。  人の心に潜む闇が妖怪変化や悪霊の類を生み出すのだとすれば、彼らもまたその資格を有すのかもしれない。  廃墟の中を進むのは亡者の列とも地獄の軍団ともつかぬ、異質なる形のものたち。彼らはかつて妖精種で、おそらくは外なる神々の仕掛けた呪詛の被害者であり、その後のエーテル王国の処置の犠牲者でもある。 『呪詛の源となり悪意を撒き散らす存在でも』  身体のつくりは、今はまだ魔族に近しい。たとえ悪意を膨らませたものだとしても、それが世界に干渉する為には魔力という形を経由しなければならない。 『心構えひとつで変わる事はできる』  元の姿に戻るのは不可能だとしても。 『今のまま己の内にある憎悪を膨らませば、遠からず世界を飲み込む怪異と成り果てること。気付かぬとは言わせぬ』  廃墟の中央。  青年の言葉では、かつて十万の民が暮らしていたという港湾都市の広場にて、千秋は彼らを待ち受けた。赤帝の力を宿すとはいえ魔人としての本質に変わりのない彼女は、広間に集う万の軍勢と同じ存在である。  圧倒的な魔力により、人間であることをやめさせられた生物。彼女のいた世界では、魔力によりエーテルの結合を解き魂の本質を砕くことで消滅させることもできる。しかし、濃密な魔力に覆われたセップ島では、強力な魔力剣で傷を負わせたとしても恐るべき速度で再生を果たす。  死ぬことさえできないバケモノ。  青年の話に拠れば、最初に呪詛を受けて変質したものたちは公にされることなく処分されようとした。エーテル王国の名に恥じぬ魔法の力で、彼らは何度も何度も殺され、世界そのものの持つ力により死の一歩手前で再生した。切り刻まれ、すり潰され、貫かれ、削られ、妖精だった頃と変わりなく苦痛に絶叫しながら、彼らは生きてしまった。魂を食らうものであれば、そのような存在を滅ぼすために磨かれてきた彼女の世界の術師であれば、目の前にいる存在に死の概念を与えられたかもしれない。  あるいは赤帝の力か。  赤帝の力ならば。 (……使ってどうするのよ)  召喚されるのがあと半年早ければ、彼らの何割かは救えたかもしれない。たとえ赤帝の力を持たずとも、呪詛に侵されつつある者を元の姿に戻せたかもしれない。  傲慢である。  魔人としても、術師としても。 『それでも、だ』  凛。  空気が震える。  高められた力が空間そのものに干渉する、鈴にも似た音が千秋の周囲に生まれる。千を越えるバケモノたちは、桁違いの力を持つ千秋に慄き、硬直する。自分達と近しい造りでありながら、自分達とは決定的に違う異世界の魔人。 『赤帝の力は飾りではない』  爪先ほどの、小さな光輝。千秋の手の甲より撃ち出された光弾は、魔物たちの間を縫うように複雑な軌跡を描く。音よりも早く光よりは遅い光弾はバケモノたちを避けるように飛び、虚空の一点で弾ける。  数瞬の後、今更のように訪れる衝撃波が唖然としたバケモノたちを吹き飛ばす。敵を打ち滅ぼすという点においてはエーテル王国のそれよりも遙かに光威力で洗練された魔法の力が、文字通りに彼らの度肝を抜いたのである。 『まずはタタリをけしかけて、大地を荒らす。珍しくもないやり方だ』  常套手段といってもいい。  穢れを大地に解き放ち、神威をもって悪を成敗する。そうして土着のものを排除し、配下に取り込んでいくのが神々の好む手法でもある。 『巫女とはいえ赤帝を甘く見ないことだ』  凛。  虚空がガラスのように砕き割れ、光輝く御使いが現れる。絶叫する暇もなく御使いは消滅した。  戦闘に特化して発達した魔術は、明確な敵を想定してこそ磨かれるものである。  彼女のいた世界の魔術は、異形を相手にするため研究が進んだ。それは間違いない。 『では数千年の間、バケモノは何もしなかったのか?』  凛。  問いと共に突き出した左手の指先に、五つの光輝が生じる。光は形を整えて円を描き、三角四角五角を組み合わせた図形が現れた。小さな法円を構成するそれぞれの図形は互いに定まった方向に回転を始め、その回転の一つ一つが聞き取れぬほどの速度で空気を震わせ詠唱を生む。  術式の多重詠唱。  十二の異なる術式を同時に編みこみ、形を得た十二の魔術はそれぞれが布石となって一つの魔術に至る。術師集団が一堂に会して初めて編みこめる大魔術を個人の力で生み出すための技術は、人間の魔術組織には伝わらなかった秘儀である。 『否。幾千もの年月を過ごしていた我ら魔人も、その存在をかけて戦わねばならぬ敵がいた』  凛。  空気が爆ぜる。  術式の完成を待たず、バケモノの群れより幾条もの光が飛び立ち、逃げるように去ろうとする。その勢いは撃ち出された砲弾のようで、衝撃は大地を奮わせるほどだ。しかし千秋はそれも予測済みだったのか、空いた右手で宙をすくい上げるように腕を前に突き出し、逃げ出す光条を視界に捕らえたまま右手を握り締める。  凛。  再び、爆ぜる音。  光条は飛ぶ途中で何かに衝突し、跳ね返る。光の鱗粉を散らしながら地に転がり落ちたのは、先に消滅した御使いと寸分狂わぬ有翼の天使達である。いずれも金色の剣を持ち、麗しい装飾の革鎧に身を包んでいる。 『神なき世界に神威を広め、バケモノにまぎれて国を滅ぼすべく煽動したか』  土着の神と摩り替わることも辞さぬもの。  神の代行者を名乗りながら、神とは程遠い侵略を繰り返すもの。 『なるほど赤帝召喚を仕掛けたものは、これを憂いていたか』  ぎぃ、と。  口元だけで笑みを浮かべる。恋しい男を腕で手繰り寄せ嬌声を浴びせ悦楽に我を失いかけた女が、今は羅刹女の如き凄絶な笑みで敵と認識したものを睨む。自身に染み込んだ赤帝の本質が闘争心を煽っているのかもしれないが、術を組み立てる意識は明瞭で、感情が沸騰することはない。 『……魔女は死んだ筈だ。なぜ異界より赤帝が来れるのだ』 『さあ』  御使いの一人が憎憎しげに千秋を睨む。  正面より仕掛けて勝てる相手ではなく、逃げることも不可能。だとすれば己の身に程なく訪れる結末を予測して御使いは憎悪の中に恐怖を宿し、千秋はためらわずに術式を完成させた。  両翼を広げた鳳凰の一閃。  見る者が見れば、そう映る光景である。真紅の炎は辺りを瞬間的に飲み込み、異質なる物、不浄なるものを灰に変える。自然界の炎ではなく、あるかどうかもしれぬ地獄の炎でもない。そもそも、それが炎だと証明するものは何もない。なにしろ地面も建物も、一切が焦げず温もりもない。  燃えたのは、数体の御使い。地面に影を残し、熱した鉄板に水滴を落としたようなはじける音と共に消えた。  そして。  バケモノとしか言いようのない醜悪なタタリたちは、内に抱えていた毒を消されていた。憎悪こそ未だに抱えていたが、それを魔力として増幅するための核、即ち呪詛の毒とも言うべきものが炎に呑まれたのである。姿も、人や妖精に近しいものとなり、しかし身中を駆け抜けた炎の力が強すぎて身動きもできない。 『とりあえず、露払いは済んだね』  もはや目の前にいいるバケモノは敵ではない。病院にいた時のような気だるそうな表情に戻り、千秋は後ろにいる青年に声をかけた。 『事情も知らずに、これ以上の力は貸せない』 「はい」覚悟していた青年は強く頷く「知る限りの事を、隠さずに」 『あと、一緒に仕事するなら名前を教えて』  そういえば聞く暇もなく病院に連れられ、今こうしてタタリや御使いと相対したのだ。もっともな話だと、青年は苦笑する。 「私は」 『……ハイマン様!』  青年の言葉を遮るのは、タタリと呼ばれた魔物の中から。大山羊にも似た螺旋の双角を生やした侍女風の娘が血相を変え、青年へと駆け寄る。 『どうか我らに構わずご自愛ください。王国が我らにした仕打ちは忘れられるものではありませんが、ハイマン様が我らを守ろうと最後まで尽くされたのは知っております……それだけで、このルルは満足です』  跪き、ぼろぼろと涙をこぼしながらルルと名乗る魔物の娘は青年に哀願する。 『ハイマン?』 「ジョゼ・ハイマン。彼女は乳母筋の姉でルル、私の大切な家族です」  魔物に変じた娘を抱き寄せ、ジョゼ青年は千秋に紹介する。 「それから、彼ら全員は私の友人。仕事も手伝って欲しい」  元の姿に近しくなったとはいえ、異形然とした者たちの手を平然と取りながら、ジョゼは大きな声で宣言する。 「エーテル王が第四子の名において、あなたたちを迎え入れたい」  もしも私を許してくれるのであれば。  魔物を、そして後から駆けつけてきた王国の兵を見渡した上で青年はそう誓ったのである。  馬鹿は、高いところが好きだ。  偉い人も高いところが好きだ。  だから、馬鹿でそのくせ権力があると、それはもう手がつけられない。下手に智慧が廻ると、思いとどまる前に実行する。 「言いたい事は、なんとなくわかります」  七百九十一柱に及ぶバケモノを連れ、ジョゼがうなだれる。 「技術の無駄、エネルギーの無駄、過剰なまでの顕示欲に非効率的な設計。これを発掘起動した三代前の王の愚行はアカデミーの教科書にも載っているほどです」 『思いつく馬鹿は多いが、実行して運用しているのだから誉めるべきだろう』  見上げながら、千秋は面白そうに、実に面白そうに笑う。 『それに、この都市には意味がある。違うか?』  都市。  千秋はあえてそれを都市と呼んだ。  強いて似ているものを挙げれば、五葉松の開いた果実か。あるいは螺旋を描きながら生える筍の山か。茨の蕾にしては、刺々しくも豪奢である。それが、ゆっくり回転しながら宙に浮いている。目測が間違っていなければ、山手線の軌道に匹敵する直径か。擂り鉢状の、クレーターにも似た盆地に浮かぶ都市は、彼女が知るどんな建造物よりも奇態な代物である。 『居住するための都市ではない。技術を誇っても、あれには民草の反発を買う厭味や豪奢さはない』  造りの丁寧さで考えれば、医療施設のあった都市の方が都と呼ぶに相応しい。半分近くが廃墟となっていても、砕けたタイルの模様や煉瓦装飾の美しさは目を見張るものがあった。 『それに』  あの都市に魔女がいる。  赤帝召喚の術式を組み立てた張本人がそこにいるのなら、会う必要がある。  隣でジョゼがルルに押し倒され組み伏せられこちらに助けを求めてなにやら叫んでいたけど、とりあえず千秋は聞かなかったことにして空中都市を飽きるまで眺めることにした。  空中都市に至り、千秋は己が幾つかの間違いを犯していたことを理解した。  一つは、この場が都市であると考えたこと。  確かに都市としての機能は存在する。不自由ない程度の居住空間、上下水道、整備された情報伝達網。説明されても何のために存在するのかもわからない設備も山のようにある。快適に暮らし、退屈しないための設備も整っている。部屋の一つ一つは自動人形たちが責任を持って管理し、彼らはそのことに誇りを持っている。 『でも、ここは都市ではない』  中心部とされる空間は野球場より一回り広い面積で、半球体の天蓋で覆われていた。天蓋を構成するのは白色もしくは黒色の透明な石板で、パズルのように絶えず動いて模様を変えている。なだらかな擂り鉢状の床、その中心には黄金色の金属で造られた尖塔と、白銀色の金属で造られた尖塔が並んで建っていた。二つの塔は材質こそ異なるものの、水晶の結晶柱を削り出したような外観と、その表面に無数に刻まれた紋様は同一のものだ。 『……対なる塔』  驚きはない。  張り詰めるほどの圧倒的な力を天蓋の下に満たす二つの塔を前に、千秋は得心した様子である。暴走する特異点に匹敵するほどの濃密な魔力がそこにはあるが、身体を侵蝕することはない。霊気に近しい塔の力を感じるのは千秋やバケモノだけらしく、ジョゼは平然とした表情でこちらを見ている。 『獣の王を識り赤帝を識りエーテル王国を名乗るなら、あっても不思議ではないか』 「あの記念碑をご存知で」 『噂程度はね』  それに同一という保証はない。ジョゼが言うには、天蓋を構成する石板と中央の塔の意味は今だ解明されていない。ほぼ同じものが、彼女の世界にもある。きっと多くの世界に存在しているはずだが、大抵は人の手が迂闊に届かない場所に封じられている。尋常な手段では到達することもできず、支配できた人類はいない。魔族でも無理だった。  無理を承知で争奪戦が起こり、石杜は封じ込めていた特異点を暴走させるに至った。北海道という島ひとつで変異が済んだのは、奇跡的である。 「解読すべきではないというのが、三代前の王の言葉です」 『死んだご先祖の言葉ってのは大事にした方がいい』  ひょっとしたら存命かもしれないが。  そんなことを考えながら、千秋は居るはずの魔女を捜して広い天蓋の辺りを注意深く見る。視線を遮るものといえば中央の金属塔くらい。 「それでは紹介しますね」  ジョゼもまた待ち望んでいた瞬間だったのだろう、声を弾ませながら塔の裏側へと駆け出し魔女なるものを連れ出す。 「おしまいの魔女アナスターシャさまです」  凛。  それを。  魔女と呼ばれるそれを視界の端に捉えた時に、千秋は無意識にあることを考えていた。色々のものを誤魔化しながら中学二年生という偽るには微妙すぎる身分で転校し、そこで出会った文彦と最初の恋に落ちた時のことだ。お互いに自然体で付き合える間柄だったから、洒落た場所など無縁だった。それに千秋と違い、文彦は正真正銘の中学生で、魔族としての宿業を背負う前のことだった。  どちらかが言い出した骨董市でのデート。今から考えれば実に自分達らしい選択だった、そのデートの中で、文彦の男心を妙にくすぐるものが鎮座していた。無骨にして素朴、しかし斬新な造形。一度見たら忘れられない、その姿。 『火星大王に用はない!』  四角のみで構成された滑稽なブリキ人形を、ジョゼごと蹴り倒す。勢いのつきすぎたジョゼはアナスターシャと名付けたブリキ人形を抱えたまま何度も転げて、それからバネ仕掛けのように跳ね起きて反論した。 「うちの王家で代々崇拝しているご本尊になんてことするんですか!」 『黙れ逆レイプ男。角生やしてサーモンピンクで塗装したら三倍速く動きそうなクリーチャーに用はない、それとも今度は金色に塗装し直して女性関係の不始末を隕石落としで丸ごと証拠隠滅する気か!』 「なんのことかさっぱりわからないけど、めちゃくちゃ侮辱されているのだけはわかりますよ。でもアナスターシャさまは凄いんです、目とか光るし音なるし、背中のゼンマイを巻いたら歩くんですよ!」 『空中都市を建造する技術から思い切りレベルダウンすることを自慢するな!』  瞳孔が開き瞳の中に得体の知れない螺旋を何層にも描きながら火星大王(仮称)の素晴らしさを延々と主張するジョゼ。それが何かの魔法的な作用を受けた結果だとは理解していたが、妄想に近しい独演が3分を過ぎた辺りで、同行していたルルの許可を得て延髄蹴りを喰らわせて沈黙させた。