序章〜文彦 【承前】  その日村上文彦は不幸だった。  いや、その言葉は正確ではない。彼は四六時中厄介事に巻き込まれており、その多くがろくでもない結末を迎えている。つまり彼にとって日常は「回復不能な不幸」と「辛うじて回復可能な不幸」の繰り返しに他ならず、彼が不幸というのは彼の生活が今までと大差ない事を意味していた。  運不運の収支でみれば、自己破産領域をとうに突破した不運の負債雪だるま状態である。返済しようにも幸運を獲得する可能性は無に等しく、自己破産を何度繰り返そうと運勢のデフレスパイラルから脱出できる見込みはない。  だから、多くの人間の目から見る限り彼はいつも通りだった。 「冗談じゃねえ」  服装さえ間違えなければ小学生でも通じる外見の文彦は、その小さな拳をテーブルに叩きつけ珍しくも激情を露にしていた。  組織再統合のために頻繁に行われる三課本部の会合。  政府要人さえ顔を出しているそこは、同時に各地の魔術組織重鎮が出席する場ともなっていた。ここで三課復興に貢献すれば政府や国連とのパイプが太くなる、そういう打算が最初は彼らにもあった。しかし数度も会合を続ければ、別の興味も生じるのが魔術師というものである。 「決して悪い話ではないと思うが」 「いい話でもねえだろ」  それを提案した中年女性、村上一族の長たる聖羅を睨み文彦は唸る。視線は列席者、名家と呼ばれる術師一族の長達に向けられるが、百戦錬磨の彼らは涼しい顔でこれを流した。 「現在において術師の数は不足しておる」真面目かつ意地悪そうに聖羅は言った「過去数度の特異点暴走の結果、魔物の出現率は年を追うごとに増加しているのは事実。我らが手を組み石杜が尽力してなお、国内に出没するバケモノを対処しきれぬ」  世界規模で見れば遠からず深刻な事態になるのが分からぬ影法師ではあるまい?  聖羅は周囲の長達を見渡し力説する。長達も意味ありげな笑みを浮かべ聖羅の言葉に頷き文彦を見る。  いずれも国内外にあって名を知られた術師一族の重鎮である。世界各地には、その土地土地に根ざした術師の一族が存在する。しかし歴史の中で、侵略や内戦それに宗教の伝播に伴って滅ぼされたり途絶えた術師の家系も少なくない。特に米大陸、アフリカ中西部から南部にかけての術体系は壊滅的であり、わずかに残された文献や資料さえ各地の好事家が独占しており、それらの術体系を復活させることは不可能に近い。 「ならば現時点で存在している術師の数を増やすより他に手はあるまい。先々のことを考えれば、今から始めても遅いくらいではないか」  長の一人が口を開く。 「開放されていながら安定している特異点都市、しかも三課が確保している場所は犬上の他にはない。特異点都市で修業する術師が極めて高い制御力と出力を有するのは、君が一番理解しているだろう……我らが子弟の半分を犬上の地に預け鍛えることは、決して悪い話ではない。石杜より信用を得ている君が指揮を執れば、奴らも我らの目的を誤って受け取ることもない」 「問題はそこじゃねえだろ」  テーブルにたたきつけた書類を指差し、文彦は喚く。彼がこれほどまでに動揺し騒ぐのは珍しく、また彼が騒ぐだけの理由を長たちは理解していたので、彼らはのほほんと茶など啜っていた。 「古今東西、術師を増やす方法は様々な形で試みられてきた。  かの忌まわしき蛭子の呪法も、ユニオンが用いた人形姫計画も、その本質は力を有した術師の数を増やそうというもの。しかしそれらの手法は非人道的かつ性急過ぎるものだった、確実かつ世界に歪みをもたらさない方法を選択すれば、綾代の一族を敵に廻すこともない」 「うう」  長の言葉は間違ってはいない。  彼らの提出した議案、不足する術師の数を十数年計画で回復させようという計画は、文彦が今までに目にした様々な企みに比べれば、よほど人道的である。誰かの命を奪うわけでもない、当事者の同意が得られれば誰も傷つきはしない。 「術師同士が結ばれても、その子が即座に術師となる可能性は極めて低い」  追い詰めるような、聖羅の言葉。文彦は狼狽し、耳まで赤くなる。 「だが例外も存在する。特異点クラスの魔力を身中に宿した魔族の子供は、間違いなく魔術師としての高い素養を備えている……その親が男でも女でも。そして効率を考えた場合、やはり男親の方が望ましい」 「おれに種馬になれっていうのかよ!」 「人聞きの悪い」しれっとした顔で返す聖羅「私たちも鬼ではない。可能な限り自由恋愛を推奨するし、行為に及ぶ前に見合いの席を設ける用意もある。それでもイヤなら人工授精でも」 「そのまま種馬扱いじゃねえか!」  叫ぶ文彦。  机の上に置かれた書類は、下卑な言い方をすれば種付けする相手のリストである。写真と簡単なプロフィールが書き込まれたそれらは、見合い写真というよりは履歴書のそれに近しい。しかしそれらの書類にはDNA鑑定や過去の業績、しまいには本人ならびに保護者の同意を示す署名までもが添えられており、これが文彦の知らないところで仕組まれていた計画だということを物語っている。 「我々は可能な限り万人が納得する方法を模索してきた。文彦殿に特定の恋人がいたならば、我らも遠慮したところだ」  にやり。  残念そうな、しかし勝ち誇ったような聖羅の目。これに倣う長老たちの眼差し。 「文彦殿が将来を誓い合ったという佐久間千秋殿、つまり魔人たる千寿の御子殿が失踪されたことは我らとしても残念だ。ゆえに我らは彼女の捜索に助力しているし、彼女が帰還した暁には文彦殿との仲を認めるのもやぶさかではない」 「おれが誰を好きになろうと、おれの勝手だろ」 「もちろん」 「だったら放っておいてくれ。おれも千秋も寿命がねえんだ、千年かけたって、あいつを見つけ出すって決めたんだ」 「だから、千秋殿を見つけるまでの間、他の女を妻として娶り子を残して欲しいと申している」  唖然とした。  男であれば、こんな台詞は吐けない。女であっても、よほど肝が据わっていなければ、このように気の触れた提案などしてこないだろう。それを重々承知の上で、聖羅は続けた。 「扶養義務を押し付ける意思はないが、望むならば生まれてくる全員を認知させるのも可能。倫理的に疑問を抱くのであれば、種付けする相手との婚姻を書類上済ませるのも一興。成田離婚とやらが流行った国なのだ、三日三晩の婚姻であっても一年ちょっともかければ十分にこなせる数であろう」 「そんな訳あるかよ」  がっくりとうなだれ、文彦は頭を振る。もはや長たちの間では文彦の精を一滴残らず搾り取る事が決定しているようだ。 「……特異点都市で教育するなら、素質の有無なんて大した問題にならねえ。きちんとした教育機関を設立させた方がよほどマシだろうが」  正論ではある。 「正論ではあるがな」  異を唱えたのは、今まで沈黙を守っていた屋島英美査察官だった。オブザーバーという形で出席していた彼女は、聖羅たち長の企みを早い段階より聞かされており、相談も受けている。文彦がこのように反発することも予測していた。  英美は沈痛な面持ちで、手持ちの書類に視線を落とし、こう続けた。 「政府は過去に数度、術師の養成機関の設立を試み失敗しているのは知っているはずだ。宮内庁主導の養成機関、公安主導の教育機関、文部科学省主導の学習機関。各省庁と議員が背後に暗躍し、廻るはずの予算をピン撥ねされ人員の引き抜きは教師生徒を問わず日常的に行われ、おまけに重要な基礎をすっとばして即戦力を獲得しようとしたから術師としての寿命が極めて短い『使い捨て』どもが氾濫し……無事に残った連中は神楽聖士の手駒となった。  過日の神楽による反乱を受け、政府は術師の育成機関制度を完全廃止、当面の間新たな公的機関の設立も凍結させることを決めた。三課の上部機関である国連平和維持軍も、これに同調している」  トドメの一撃に近かった。 「民間レベルでの育成は可能だろうが、数百名単位の術師を一箇所で育成するとなると無理が生じるのは避けられない。私塾にせよ政治結社にせよ宗教法人にせよ、世間の関心を集めるのは必至だ」 「じゃあ、三課としてはどう考えてるんだよ」 「犬上市北区周辺の数百世帯を三課で買い上げ、そこに各名家より派遣された女性ならびに新生児、場合によっては術師の子弟を移住させる。そうすれば学区内の私立保育ならびに私立小学校を通じて術師教育が可能になる」  あくまでも三課の意見であり、わたし個人の見解とは異なるが。英美は努めて冷静に、そう告げた。 「三課じゃなくて、英美さん個人の意見を聞かせてくれ。こんなやり方、英美さんだって嫌いだろう!」  文彦と英美は同郷の術師であり、近所に住んでいた間柄でもある。文彦が術師として覚醒した直後に暴走した時、その身を呈して文彦の暴走を食い止めたのが英美なのだ。だから文彦は英美を術師として人間として尊敬しているし、父親を取り戻した後も英美を手助けするために三課に身を置いている。  その文彦に見つめられ、英美はしばし沈黙した。  時間にして数秒、あるいはもう少し長かったのかもしれない。術師でなければ女性起業家として世界中を渡り歩いていそうなバイタリティをもつ彼女は逡巡し、しかし何かに決着をつけたのか深く息を吐くと背後に控えていた秘書から一枚の書類を取り出させ、そこに署名して文彦に見せた。 「私はな、文彦」迷いのない声だった「まあ、野球チームができるくらいには産んでやろうと思って」 「……それ以上何も言わないでくれ」  文彦の声は震えていた。  英美の差し出した書類、文彦を激昂させた交配同意書から視線を逸らし、奥歯を強く噛み締める。そうしなければ叫び、暴れ、目につくものすべてを破壊したいという衝動に支配されそうだった。英美の言葉、告白に等しいそれは文彦の理性を既に奪っている。十年以上の付き合い、信頼関係の根底が覆されたのだ。術師として抜群の制御能力を誇り、数々の修羅場を潜り抜けてきた文彦であっても動揺する。いや、信頼している英美の言葉だからこそ文彦はより大きな衝撃を受けたのかもしれない。 「大義のためとは言わぬ、これは卑怯で醜い行為だ。万言を尽くしても取り繕うことなどできぬ、それは我らも承知している」  聖羅が静かに文彦の肩を叩く。 「しかし我らには時間がなく、選択できる手段は限られている」 「俺の子供を兵器に使うって話じゃねえか! それが人形姫計画や蛭子の呪法と何処が違うんだ!」 「文彦殿さえその気であれば、生まれてくる子は両親に望まれこの世に誕生する。文彦殿さえ分け隔てなく母子に接する気があれば、生まれてくる子は文彦殿の背を見て真っ直ぐに育つ」 「断る」  きっぱりと文彦は拒絶の意思を示した。 「坂薙の巫女とも交渉中なのだが?」  数秒の間が空いた。 「もったいないけど断る」  心底悔しそうに文彦は頭を振った。 「惚れてもいねえ相手を孕ませるほど、おれは堕ちたくねえ」 「ベル相手には堕ちまくってたくせに」 「うわあああああんっ」  英美の情け容赦ない突っ込みに、文彦は逃げ出した。  ただ逃げたのでは追いつかれてしまう。なにせ周囲には術師の名家を束ねる長たちがいるのだ、老練なる彼らを前に体術を駆使しても完全に逃げきれる保証はない。  ならば。  文彦は迷わず空間跳躍を選んだ。結界が張られていても乗り越えられるような、深度の高い空間跳躍である。それは影使いだからこそできる芸当であり、文彦にとって切り札に近いものなのだが。  凛。  異変はその瞬間訪れた。  空間跳躍を開始した文彦の周囲に、得体の知れない法円が現れたのだ。三角、四角、五角形を組み合わせた複雑な紋様を描く法円の様式を知る者はいない。  ただ一人を除いて。 「赤帝召喚の……魔法円だと!」  その叫びを残し、文彦は世界から消失した。過去からも現在からも未来からも、完全に消えてしまった。 ―起― 「……冗談、だろ」  丘陵を覆う草原に立ち、文彦はそれだけの言葉を辛うじて絞り出す。眼下に広がるのは古風な城塞都市。重厚かつ華麗な鎧を着た軍隊に、それを蹂躙する異形の魔獣たち。できの悪い車輪の戦車に乗って、筋肉質の魔族たちが戦斧を振り回し鎧の軍勢と戦っている。  数秒前までいた犬上の街とはまるで異なる世界である。いや、赤帝召喚式を受けた以上は、こういう状況もありえるとは考えてはいた。千秋が異界に飲み込まれて消えたように、多少なりとも赤帝の力が残留していた文彦である。だから考えていはいたが、それと覚悟していたかは別問題である。切れ味の悪そうな戦斧が重量を活かして兵士の鎧を断ち切り、肺に到達した刃を赤く染める鮮血の噴水などを目撃してしまえばなおの事だ。  戦争には違いあるまい。  見たところ攻めているのは魔族側だが、城塞都市の規模を考えれば攻城可能な数は揃っていない。そして奇妙なことに、戦闘状態にあるはずの城塞都市からは聞き覚えのあるパイプオルガンの宗教音楽と鐘が鳴り響いている。 「どうなってんだ、こいつは」 『成功である』  声は足下から聞こえた。  見れば、背後で二足歩行の猫たちが怪しげなる魔法円を描き、怪しげなるポーズで踊っていた。同じ紋様の魔法円は文彦の足元にもあり、その様式は三課本部で彼の周囲に出現したものと全く同じものだった。 『異世界からの邪悪生物に召喚成功であるーっ』 『やりましたね王様ーっ』 「ちょっとまて哺乳類」  はしゃぐ猫たちを捕まえる文彦。発音が所々引っかかるものの間違いなく理解できる言語を口にする猫たちは、特に逃げることもなく文彦に片手を挙げて挨拶する。 『良くぞ来られた、異世界の外道生命体よ』 「説明しろ。さもなきゃ、とっとと還せ」 『説明するには時間が足りぬし、還そうにも方法が分からん』きっぱりと答える猫『なにより、眼前に迫った危機を乗り切るのが第一ではあるまいか?』 「のわーっ!」  丘陵の上空から降って迫ってくるのは、数体の巨大な石組みの人形達。文彦は喋る猫たちを抱えると、大慌てで逃げ始めた。 「どうなってるんだ、畜生!」  叫ぶ文彦に答えるものはなく、アフリカ象の二倍はあろうかという石人形が更に十数体、城塞都市より現れた。数名の魔族が鈍器に等しい戦斧を振りかざして石人形を叩くが、硬質の石は亀裂さえ生じず、逆に凶悪な鈍器に叩き潰され肉塊と化す。  形勢逆転である。  魔族は戦車に乗り逃げようとするが、跳躍する石人形たちが地面を激しく揺らせば、安定の悪い戦車は馬ごとひっくり返ってしまう。転倒の際に首を折った者は幸福であり、生き残ってしまった魔族たちは馬の糞尿の混じった泥にまみれ、石人形に踏み潰されぐちゃぐちゃの血泥となる。城壁よりあがるのは歓声であり、魔族への罵声だ。 「……」  文彦は逃げるのを止めた。  石人形の速度は人間のそれを上回り、跳躍力も尋常ではない。土地勘のない場所で、しかも遮蔽物の存在しない丘陵で逃げ回るのは自殺行為に等しい。猫たちを抱えたまま文彦は石人形達に向かい合い、己の魔力を収束させた。 「耳ぃ押さえてろ、哺乳類」  低く唸るような声で文彦が警告を発すれば、しがみついていた猫たちは文彦の練り上げる圧倒的な魔力を察知して慌てて両耳を押さえる。文彦の視界には、巨大なる石人形が数体。逃げるのをやめた文彦を観念したと見たのか、踏み潰そうとしている。 「調子に乗るな」  凛。  硬く澄んだ鈴の音にも似た金属音が響く。究極的に魔力を収束した時に発生する空間の軋み、それが凛とした音となって生じる。それらは空気を伝達せず、エーテルを伝わって発生する音である。 「五行創鍛!」  怒号に等しい叫びを言霊にのせて、文彦は振り上げた右手のみで素早く印を結んだ。出現して半刻どころか数分しか経過していないが、文彦はこの世界に対して奇妙な理解を示していた。たとえ非常識にも猫が喋り石巨人が襲ってこようとも、この世界を形作る要素は自分のいた場所と大差ない。  故に。 「破山の如く、疾く地を割り天に至れ!」  凛。  澄んだ音が再び鳴れば、周囲の地面が盛り上がり、槍穂先のように鋭い石の刃が無数に出現して石巨人を貫く。人間以上の反応速度を持とうとも逃れることはできず、石巨人を貫いた刃はタケノコのごとく膨らみながら石巨人を飲み込む。一秒にも満たない出来事に、城塞都市ではまだ歓声が続いていた。  ばき。  ばきばきばき。  刃は無数に生える。文彦から石巨人達すべてを飲み込み、城塞都市まで。距離は数百メートルを越え、その様は高速道路の橋脚が地面より生えているようにも見える。城壁越しに矢を射るより、杵で城門を打ち破るより、もはや石柱としか呼ぶことのできない石の刃は堅強に見えた城塞都市をあっさりと貫いた。巨獣の突撃にも耐えられる壁も、大地そのものを武器と化す一撃を防ぐことなどできない。  逃げることも降伏することも、己がそうなる理由さえ理解することもかなわぬ内に、城塞都市の住人達の多くは石の刃に飲み込まれ貫かれ、あるいは崩れた壁や建造物に押しつぶされた。巨獣に耐えられる構造だけに、それが崩壊した際の質量たるや想像を絶するものがある。  並の人間ならば、いいや、たとえ強力自慢の巨漢であろうとも、ただ己の筋力のみで戦う者が崩れる石塊を支えられるはずもない。万軍を率いようとも、この城塞都市を素手でここまで破壊し尽くすことは瞬時には難しい。  それを。 『わずか一撃であるか』  破壊の轟音が収まって間もなく。  耳を押さえていた猫が心底驚いた顔で文彦を見上げた。丘より見下ろす城塞都市で無事なのは最深奥にある教会と思しき尖塔の建物だけである。 『さすが異世界の邪悪生物である』 「正当防衛だ」  あきらかに過剰ではあったが、嘆息することで反論を封じる。  生き残っていた魔族たちは、想像を絶する破壊劇が文彦のわずか一つの術によりもたらされて事を知ると、自らが助けられたにもかかわらず逃げ出してしまった。同じ術をこちらに向けられれば、魔族といえど助かるものではないからだろう。 「……あいつら味方じゃないのか」 『能無し筋肉どもと一緒にされても困るであるなあ』  猫たちは文彦の腕より飛び降りて、いまは地面に戻りつつある石の刃の行方を興味深く眺めていた。文彦は猫たちにただならぬ魔力を感じ取ってはいたが、その質は彼が理解するものとは大きく異なり、その傾向どころか力の強ささえ把握の難しいものだった。 『状況としては、まあ三すくみだったのである。先に奪ったもの、それを奪おうとするものの戦いであるな。我らは、そいつをなんとか回収しようと思っていた』 「そいつ?」  猫は崩れた城塞都市に肉球つきの手を向けた。 『おそらくは、あの教会に』 「殺し合いを肯定するようなものか」 『知らんのか』さも意外そうに首を振る猫『人間は一杯の水を求めて殺し合うことのできる生物なのだぞ。世にある大抵の物事は戦争の原因になりうるというわけだ』  違いない。  あからさまに異世界とわかる地にあって、猫の言葉が文彦の胸に刺さった。どうやら如何なる世界かは分からずとも、そこに生きる人間の本質は大差ないということなのだろう。  そして文彦の世界では人間が特に顕著に抱えていたそれらの業を、魔族と思しき異形たちも背負っている。邪に染まるのではなく、世界に生きる住人のひとりとして。彼らは欲望や損得勘定そしてちっぽけな主義主張によって生きて、殺し合いをしているのだろう。  それはある意味で文彦が思い描き実現しようとしていた、人と異形の共存する世界なのかもしれない。  理想とはかけ離れていたが、現実というものは大概にしてそういうものだ。 『我らに助力してくれるか、邪悪生命よ』 「影法師だ」  耳を引っ張るようにして向き合わせ、文彦は唸った。言葉が通じる以上、本名をさらすのは呪術の対象にもなりかねない。元素魔術とは系統が異なるとはいえエーテルを媒介する術式が組み立てられた以上、この異世界の術式が文彦に影響を及ぼすこともある。そもそも文彦をこの世界に召喚したのは、足下で今も妙な踊りを繰り返している二足歩行の猫たちではないか。 (手段を忘れたといっても、こいつらが正解に近いんだろうな)  だとすれば文彦に選択の自由はあまりない。 「それで、あの建物にはなにがあるんだ」 『姫である』 「猫の姫か」  あまり興味なさそうに呟けば、猫もまた苦々しく言葉を返す。 『うんにゃ、旧い国の姫君である。我の二代前の王が治世の頃に滅んだ国である』 「ふん」  猫の寿命がどれほどのものかは知らないが、文彦の世界のそれと大差ないのであれば、軽く十年は経過しているだろう。あるいは千秋に関係する情報でも掴めるかとも思ったが、彼女が消えたのはほんの数日前だ。残念ではあるが、仕方ない。  脚に気を込め踏み出せば、石巨人もかくやという速度で文彦の身体は空気を裂いて走り出す。猫たちは慌てて文彦の服にしがみつき、数珠のように宙に浮く。  駆ける。  むしろ跳ぶという表現こそ相応しい脚力で文彦は足場の悪い丘を駆け下りて崩れた城塞都市に突入する。死臭を発するべき亡骸の多くは文彦が術式で生み出した石の刃と共に大地に飲み込まれていた。特異点都市である犬上では押さえ込まれている文彦の力も、異世界では一気に解放される。高レベルで安定しているエーテルの密度も文彦の術式を高い水準で昇華させているのだろう、反動らしい反動もなく文彦は普段ならば抑えているはずの力を存分に行使することができた。  ものの十数秒。  健脚を誇る戦馬でさえ、なかなかに真似できぬ速度。それをあっさりと凌駕して文彦は廃墟と化した城塞都市に到達し、教会の前にいた。途中で猫が数匹しがみつけずに吹き飛んだが、覚醒し拡大する文彦の意識は宙を舞うそれら猫を認識し、伸びる影を引っ掛けて連れて行く。特異点都市である石杜を訪れた時でさえ、これほどの魔力の昂ぶりを実感したことはない。軽い興奮状態に我を失いつつ、それでも思考の片隅に理性を残そうと努力しながら文彦は教会の扉を無造作に開けた。  ぎ。  ぎぎぎ。ぎ。  蝶番の手入れではなく、おそらくは文彦の放った術式の影響により土台が歪んだのだろう、それは半分ほども開くことはなく、途中で力任せに蹴破った。 「とことん悪趣味だとおもわねえか」  埃を巻き上げながら倒れる扉。  途端、奏で始められるパイプオルガンの荘厳な宗教音楽。時代を問うならば数百年もの昔に全盛期を迎え、博愛と狂気の狭間に信仰という言葉を押し込めていた頃に生み出された音楽だ。  異世界のものではない。  文彦自身熟知しているわけではないが、かといって無知というわけでもない。日本という国で、義務教育課程の中で一通り当たり障りのない音楽に触れているからこそ、辛うじて聞き覚えのある程度の知識に過ぎない。強いて言えば、友人である桐山沙穂との関係で耳にする機会が若干増えていたかもしれない。 「ここがどういう世界かなんて質問は野暮極まりねえが」  外見に劣らず、教会の内部は豪華な装飾があちこちに施されていた。なかでも一際目を惹くのは極彩色のステンドグラスで描かれた聖母と、身の丈ほどもある黄金の十字架だ。  そう。  聖母と十字架が、この教会の象徴だった。異形の魔族が暴れ猫が二足歩行で喋る異世界にあって、その二つは文彦の記憶にあるものと何一つ変わらず存在し、嘔吐感さえ伴う不快を与えている。 「趣味が悪すぎる」 『いやはや、まったく』  おそらくは文彦と別観点から同意する猫。視線の先には真紅の法衣を身につけた司教風の老人と、引きずられるようにして立ち上がる幼い少女の姿。少女は十歳ほどの小娘に見えたが衣服を全て剥ぎ取られており、重く頑丈な鎖付の首輪と、白い肌に刻まれた烙印やナイフによる裂傷が装飾代わりに少女の身体を覆っている。  苦痛と恥辱で理性を徹底的に犯され、少女は原始的な憎悪を向けることさえできずにいる。長く尖った耳と切れ長の目だけが、少女が人間ではないことの証。それさえも髪や帽子で隠してしまえば、そこらの人間と全く区別できなくなるほどの差でしかない。  凛。  空間が軋んだ。 「総本山じゃあとっくに悔い改めてるような真似を、今でもやってる莫迦がいるとは思わなかった……この恥さらしが」  血液が沸騰するような錯覚に、文彦はほんの少しだけ声を震わせた。  司教の胸元には珊瑚の宝珠でつなぎとめた白金地にエメラルドのロザリオが輝いている。扱いさえ間違えなければ神々しく輝くそれも、今の文彦には下卑で安っぽいものでしかない。 「!!!」  老人は何かを訴えていた。  英語ではなさそうだ。もちろん日本語でもない。ヨーロッパ諸国かどこかの言語かもしれないが、言葉の種類など最初から関心外だった。  文彦は歩く。  老人がロザリオを掴んで叫べば、老人の足下より疫病を宿したネズミの群れが湧き出して文彦に襲い掛かる。文彦は歩みを止めず右腕を横に一閃し、教会の影という影より闇色の鋭い針を生み出すとネズミの群れを残らず貫いた。ネズミは血を噴く間もなく闇に飲み込まれ、悲鳴ごと塵に還る。  文彦は呪文さえ唱えてはいない。 『影法師よ、そなた怒っているのか』 「まあ、身内の恥を見ちまったからな」  言葉を濁しつつ更に進む。老人はロザリオを文彦へと突きつければ、やはり分からぬ言葉で何かを叫ぶ。  歪む空気と耳障りな羽音が教会の内部に反響する。  現れたのは牛ほどもある鋼のイナゴだった。それらはガチガチと鋭い牙を鳴らし弾丸にも迫る勢いで老人の背後より現れると、文彦の頭を食いちぎろうと襲いかかる。逃げるにも迎撃するにも時間は足りず、恐怖に絶叫する間さえ残されているかどうか。猫たちは文彦の危機に慌てたが、彼らにもできる事とできない事がある。そして鋼のイナゴというものは、猫たちの力でなんとかなる相手ではない。 『か、影法師っ?』  猫は叫ぶしかなかった。  叫び、それから絶句した。イナゴは咀嚼するが、削れるのは文彦の頭ではなくイナゴ自身の身体だった。鋼のイナゴは飢えが満たされぬように乱暴な咀嚼を繰り返し、身体がどんどん減っていく。数秒も保たず、鋼のイナゴは自らの胃袋に己自身を収めて消えた。文彦の身体には傷一つついていない。 『……なにをやったので、あるか?』 「んー」面倒そうに、肩越しに答える「空間歪曲と、意味の交換。虚実を入れ替えて召喚物の陰陽を逆転させた」  文彦の中でそれは論理的な説明だった。術式を少しばかりかじったものならば、その意味するところに驚愕を禁じえないだろう。だが猫たちは首を傾げるばかりである。 『さっぱり』 「おれも、お前らの術体系はさっぱりわかんねえしな」  予測済みの会話を適度に流し、歩を進める。老人は既に逃げ場はなく、緊張と焦燥で表情は引きつっている。ロザリオを掲げたままの腕は小刻みに震え、噴出す汗に手はすべり白金地の十字飾りは今にも老人の手より落ちそうだ。  老人が叫ぶ。 「何故ダッ!」  初めて理解できる絶叫だった。否、最初から老人は同じ言葉を叫び続けていたのかもしれない。無論、分かったところで文彦の行動は変わらない。 「貴様ハ我ガ同胞デハナイノカ、我ト共ニ我ガ神ノ威光ヲコノ蛮族ノ地ニ広メヨウトハシナイノカ! コノ娘ノ持テルチカラヲ解放スレバ我ラハ無敵ナノダゾ! 貴様モ人ノ子ナラバ手ヲ貸セッ!!」 「やなこった」  沈黙が生じる。  文彦の表情は変わらない。老人はロザリオを捨て、短剣を内懐より引き抜くと、つかんでいた鎖をたぐりよせて少女の首輪を掴み、刃を彼女の咽喉元に強く押し当てた。刃の鋭さは大したものではないが、前後に引けば摩擦の力で少女の咽喉は切り裂かれる。拷問を受け続けていたため、数瞬の時間さえ少女の皮膚は耐えられそうにない。 「コノ娘ヲ殺シテモイイノカ!」 『ああ、それは困るであるなあ』  文彦の代わりに猫の一匹が呟いた。猫たちが文彦を召喚した目的がこの少女の奪還だとすれば、拷問じみた数々の責めで心身を穢された少女こそ亡国の姫君ということになる。 『お主、その姫君が何者か理解しているから封印を解いて魔族から奪い取ったであろう?』  猫の瞳が、すぅっと細くなる。言動はのほほんとしても狩猟する動物としての本能的な迫力は、いかなる姿であろうとも変わらない。 『旧王国最後の姫君、生れ落ちた時よりはじまりの獣と盟約を結んでいた娘である』 「はじまりの獣」  文彦の表情が、教会に侵入してはじめて変化した。  人質にされた少女の身体を気遣う素振りも見せず、文彦は残像を生むほどの速度で一気に踏み込む。老人が汗で滑りかけた短剣の柄を握り直し力を込める前に、鋭くも機械的な貌の文彦は、短剣を握りしめたままの老人の手首を掴み、そのまま引き抜いた。  ばつん。  関節ではない部分で、腕が千切れた。野の花を摘むように、あっさりと。少女の首に僅かに食い込んでいた刃には薄く血がついていた。直後、文彦は千切った老人の手首を捨て、己の掌を少女の咽喉に押し当てる。空いた左の手刀をもって少女の首輪の鎖を断てば、腕を巻き込むようにして少女の肩を抱き己の胸元に引き寄せる。  三歩離れて、はじめて傷の痛みに咆哮する老人。少女は他者の痛みを生まれて初めて知ったのか、消失しかけていた感情の色が瞳に戻りかける。 「ア、アアア……悪魔ノ申シ子メ、呪ワレテシマエ!」  激痛と恐怖によるものか涙と洟と涎を垂れ流すように、しかし噴き出す勢いは手首の出血とは比べものにもならず、発狂寸前の老人の呪詛はパイプオルガンの宗教音楽さえかき消すように響く。  が。 「悪魔ヨ、神ノ名ニオイテ退ケ!」 「やなこった」  それが老人がこの世で耳にした最後の言葉だった。流星のごとき勢いで垂直に振り下ろされた文彦のかかとは老人の後頭部を確実に捕らえ、それは命中した後も勢いが全く衰えず、固い大理石の床を砕くほどに強烈に叩きつけられた。  人間の頭蓋骨はどれほど頑丈であっても、それだけの衝撃を受けて無事に済むようには作られていない。無慈悲にして絶望的な一撃に、声を発することもできなかった猫たちが今になって『うわあ』と微妙な歓声をあげる。 『影法師、これはちょっと』  文彦をたしなめようと猫の一匹が言いかけて、頭部が消滅した老人が灰色の塵となって崩れたのを見て息をのむ。ネズミを飲み込んだ術式ならいざ知らず、文彦が今繰り出したのは人類の運動能力を超越していたとはいえ体術の一種である。魔力と呼べる力は微塵も使わなかった。  ならば、司教の衣装をまとっていたこの老人こそ人外の化生そのものではないか。 「こいつだけじゃねえ」  凛。  魔力が収束する。  犬上の地でさえこれほど高めたことはないと思うほど、鋭く、素早く、文彦の内外に巡る魔力が術式という形を得て、世界に干渉するための意味を持つ。言葉の形での呪文など必要ない。優れた魔術師は、その肉体そのものが術式の制御機構であり、その究極に達すれば結印も詠唱も練気も介さず、ただ思考するのみで術式を発動できるのだ。  そういう意味で現状の文彦は、術師の理想形に限りなく近い。 「この建物、いやさ、この街そのものが」  凛。  解放された術式が教会の大聖堂と、廃墟と化した城塞都市を駆け巡る。  凛。  文彦の組み立てた術式、万物の陰陽に基づき虚像を虚無に還す解呪の魔術は、波紋のように文彦を中心として広がり、術式の波紋に触れた全てを塵に還した。 「……どこかの誰かが魔力を込めて生み出した、まがい物だ。何もかもが」  パイプオルガンの曲はいつの間にか消えていた。あるいは、その音色が虚像に実態を与えた術式だったのかもしれないと文彦は唸る。  奏者の姿はなかった。  気配さえ感じ取れなかった。ロザリオの老人を消滅させた後も教会と城塞都市は存在していたのだから、その術式を組み立てた人物は別にいる。あるいは、人間ではないのかもしれない。  前方に広がるのは、半刻前までの戦場跡。元は牧羊にでも使われていただろう草原も、今は血と泥と砕けた岩によってかき混ぜられ、赤黒い地肌を露出している。ところどころ白っぽく見えるのは、肉が削げ落ちた骨なのだろう。 「はじまりの獣、恐るべき獣。獣の王」  凛。  文彦の胸元で、鈴の音が響く。文彦の呟きは、抱き寄せた少女にしか聞こえなかった。  音は少女から。  文彦の言葉が禁忌の呪文であるかのように、少女の肌に刻まれた傷が輝いた。      凛、と澄んだ音が爆音にかき消される。  原始的な術式ですらない、純粋な力の放出である。直後、文彦や猫たちを数メートル吹き飛ばすほどの突風が、少女の傷口より生まれた。  皮膚の裂け目から。  気付いたのは、吹き飛ばされて数度転がる前。突風と呼ぶには鋭すぎる空気の流れは、真空の層を何条も生み出している。不可視のはずのそれを相殺すべく文彦は宙に舞いながら瞬間的に術式を組み立て、猫たちの周囲に防護壁を巡らせる。しかし己の分までは間に合わず、交差した腕に幾つかの裂傷が生じ、鮮血が散る。三課のいわば最高会議に出席するために着ていたジャケットは、防護術式の符を何枚も縫いこんでいたし、もともとの素材も防弾防刃性をある程度持たせていた。強力な術や異形の攻撃の前では気休め程度の防具でしかないが、それでも狩猟鉈を叩きつけた程度では敗れぬほどの強度はあった。  それが、少女の身体より噴出す風の刃の前では面白いほど容易に切断され、薄皮一枚分とはいえ文彦の腕に傷を負わせた。 「風」  魔族独特の驚異的な再生能力により、傷自体はものの数秒で塞がる。神経を刺激する痛みは組織再生の兆しであり、それさえ皮膚と筋肉の熱感覚を残して痛みそのものは消えつつある。 『風には違いないのではあるが』 「なんだよ」 『どこから吹く風なのであるか?』  分かりきっていた質問だった。  風というのは、流れる空気だ。門のように何処からか導くのでなければ、己の身を袋として空気を溜め込むしかない。しかし少女の身体は華奢で、傷口より出でる風の量はあまりにも多い。空気を吸い込んでいる様子はなく、風の勢いが止まる気配はない。 『あれが風の始まりなのであるか!』 「そうだ」  断言する文彦。  猫たちは絶望的な顔で文彦の足に膝あたりにしがみつく。 『虚無に至る風であるかっ』 「博識じゃないか」  防御のための術式を維持しながら少女より吹く風を睨み、文彦は余裕のない笑みを見せた。風は地面を削り、削られた土くれや岩塊は塵となり風に溶けて消える。文彦の防御術、掌より生じる黒色透明の障壁も、生み出すそばから消滅している。それに耐えているのは文彦の魔術出力が桁外れに大きいためだが、いかに規格外の力を備えているとはいえ文彦の生み出す魔力は有限である。特異点より無尽蔵の力を引き出すことのできる元の世界ならともかく、訪れて間もない世界の構造を理解しないことには地に流れる魔力を我が物とすることはできない。いま文彦が放っている術式は、彼の身体に残留しているものを極限にまで増幅して繰り出したものなのだ。 「あの娘が獣の王と盟約を結んでいるってのは、あながち嘘とも言えないな」 『ちがうぞ影法師、盟約を結んだのは恐るべき獣である』 「似たようなものだ、覚えておけ哺乳類」猫の指摘を無視して唸る文彦「万物を十二の因素に分け、その一つ一つを支配する獣の王。獣騎の神。極界の王……呼び方なんざ、幾らでもある。だがな!」  凛。  闇色の障壁が形を変える。黒一色だったそれは光と闇の輝きの組み合わせとなり、五角四角三角の図形が複雑に組み合わさる紋様に変化した。異形を封じ込めるために術師たちが組み立てる魔術図形に酷似したそれは、文彦にとって最後の手段に近かった。元より石巨人を砦ごと葬り、城塞都市ごと老司祭を形作っていた術式を解除したのだ。普通の術師なら最初の時点で意識を失うほど消耗しているところを、文彦は今も耐えているのだ。可能な限り効率よく術を唱えようとしても、文彦とこの世界の相性は犬上のそれとは大きく異なるらしく、抑え目に術を組み立てることがきわめて難しい。 「あれが本当に風を司る獣の王なら、おれごときの術で防げるはずがねえ。だが、あの力は間違いなく霊鷹だ」  凛。  障壁が変化した法円が空気を震わせる。術を組み立てた文彦とて数度も目にしたことのない、特殊な魔術紋様が震える。文彦の身体に残っていた魔力の、最後の一滴までも絞りつくすかのように法円は注がれた魔力を収束させる。 「放っておけば、間もなくてめえ自身の力で破滅する。別に絶対適応者がいる以上、あの子にどんな素質があっても霊鷹の力が彼女に味方することはねえ……それを承知で、強引に突っ込みやがったのか!」 『誰が、であるか』 「知るか」吐き捨てる文彦「あの子が姫さんなら、王様か? それとも異端審問ばりにあの子を痛めつけた、さっきの変態爺ぃか? 誰がやったのか主犯が分かったとしても、そいつ自身でもどうしようもねえ状況だ」  凛。  少女より吹く風は勢いを増す。既に彼女の両足は地面についておらず虚無に至る風は地面を広範囲に削っている。その広がりと深さは巨大なクレーターとも呼べるものであり、後しばらくの間これが続けば溶岩が露出するまで大地が割れるのは必至だ。 (獣の王って言葉に反応したんだ、仕掛けた奴は正しい名前を理解していた)  その上で、施術者はこの世界においては誤った名を広めた。  異界より獣の王を求めて侵入するものがいれば、獣の王の言葉を引き金に全てを滅ぼす。自身が破滅する時を予見し、世界を巻き添えにしようと考えたのか。  追究しようにも、おそらくは仕掛けたものはこの世にはいない。聖堂のオルガン奏者もこれについては無関係のはずだ……こんな罠を仕掛けられていたと知っていればそもそも手を出したりはしない。暴走する力を制御し破滅を食い止めるための理性を徹底的に犯し抜いたのは、他ならぬ彼らなのだから。 「趣味が悪すぎる」  凛。  法円がひときわ大きな音と共に収束を始める。虚無に至る風が文彦と猫たちを飲み込まんと襲いかかかる。 (そんなものに殺されたくはない)  凛。  風が割れた。  虚無に至るはずの風は文彦と猫を避けるように二つに割れ、竜巻を生む。文彦の手には、緑青にも似た光沢の、古式の直剣。切っ先が風に触れるや、虚無に至るべき力は途絶え空気の流れさえ止まる。  凪が訪れたのは、文彦の周囲だけではない。空気の静止領域は爆発的に広がり、拡大するたびに大地の消滅が食い止められていく。音が伝わるほどの速さで十数秒、世界に吹き荒れんとしていた破壊は消滅した。それでも広大な土地の端にまで地面の消失は続いたのだろう、おびただしい量の海水が流れ込んでいるのか地平線の一部が光沢を帯びているように見える。 『中和したで、あるのか』  現象を目の当たりにしてなお猫は事実を認めることを躊躇した。  虚空より現れ文彦の手にある直剣、魔族が振るうものに比べれば、いかにも華奢かつ繊細で、儀式用の実用性皆無とも思えるほどだ。だから、それは剣という形を採ってはいるものの、その本質は術式の組み立てを補助する法具の類なのだろうと猫たちは考えた。  さもなければ、たかが一振りの、細身ともいえる剣の力が、不完全な形とはいえ恐るべき獣の力を抑えこんだことになってしまう。そんなものが存在するはずはなく、存在していいはずがない。 「てめえで考えろ」  猫たちの絶句よりなにかを読み取ったのか、文彦は説明せず……いや、説明する時間と余力さえ惜しんで少女へと駆け出した。空気の壁を感じるほどの踏み込み、現実にはありえない加速さえ用いて文彦は、風を噴き出すことにより全身の傷口が開いてしまった少女へと迫る。風が吹き出さずに傷口が開いたままであれば、彼女の身体はその矛盾を最も現実的な方法で解決するしかない。  たとえ、それが明確な死につながったとしてもだ。  断裂した筋肉や神経そして血管が生物細胞としての最初の活動を開始するより僅かに早く、文彦の手は少女の身体に触れた。あるかどうか判断しがたい乳房の膨らみ越しに、心臓のあるべき場所の上に己の掌を当てていた。 (これは、賭けだ)  確証は全くない。  少女の耳は、彼女が人間ではないことを物語っている。これから文彦がやろうとしていることは、人間とひとでなし相手にしか試したことのない術式だ。少女が何者なのか、それは外見から判断するしかない。  人間との差異は、とりあえずは耳の形だけだ。  そういうことにした。  マニアックな趣味で知られている同級生が愛読するアニメ雑誌で時々目にするような、その程度の違いだ。ちらと見た少女の身体は傷だらけだけど、文彦が知る女性たちの裸体と明らかに違うものはなかった。元より魔族に近しいものとて、肉体的には人間と変わりないものだ。  迷ったのはごく僅かな時間。指を弾くほどの間でもない。世界最高の外科医でさえ対処できないような、そういう状況にある。ここで少女を見捨てたとしても、誰も責めたりはしない。彼女の身体に生じた裂け目は重要な器官の幾つかを切断するような位置にあったし、そこから風が吹くように血液が流れ出すとしたら、ほんの数秒で全ての液体が失われてしまうだろう。  確証のない賭けは、望むところではない。  他に選択肢があれば、そちらを試すだろう。文彦がそれを実行するのは、たとえどれほど時間をかけたところで現状の彼にそれ以外の適当な手段が残されていなかったことを理解していたからだ。術師という種類の人間は、限られた状況で最善の一手を迅速に繰り出さねば生きていけないからだ。 (獣の王たる力の本質が、この娘の傷口と直結している。だから)  それを分離すればいい。  かつて同級生の内より特異点とそれを含む人格を切り離したように。  かつて己の身より分離した陽神を母の身体と融合させたように。  万物の陰陽を支配し影の交わりをもって世界の本質に触れる影使いは、元素術師たちとは全く違った視点で世界を認識する。衝撃波さえ伴って繰り出した掌打は、実に零距離より放たれた。寸剄にも似た打撃の技は、少女の心身に染み込んでいた霊鷹の因子のみに作用し、文彦の踏み込みと共に少女の身体より解き放たれて独立した存在を形成した。  しゅぽん。  そんな間抜けな音さえ聞こえてきそうなほどの、あっけない一撃。ダルマ落としでもしたかのように、少女の体から傷口が全て消滅し、その代わりといってはなんだが、背中より一羽の猛禽が飛び出して地面に転がった。  その姿。羽毛はもちろん嘴や爪に至るまでが鈍い銀色の猛禽は何が起こったのか理解できていないようで、なすがままに地面を転がり、それから文彦に首と羽根の付け根を掴むようにして捕らえられた。文彦は知っている。この白銀の猛禽もまた少女の本質なのだ。文彦が知る霊鷹とは似てもにつかぬ姿ではあるが、放出される力の大きさに、それが誤解や誇張ではなく獣の王の眷属と名乗ってよいほどの存在なのだと実感する。 「お前は、この娘と同一だ。しかし別個の存在でもある」  猛禽を前に、放心状態の少女を再び胸元に巻き込むように抱き寄せた上で、文彦は囁いた。 「お前の本質たる獣の王の力は、その姿で安定する。人の身を得て動くには、本体の成長を待て。時が来ればおのずと力の制御法を身につける……それができるはずだ」  猛禽は、小さく頷く。  少女と独立した人格ゆえか、己の持てる力の意味を理解しているのかもしれない。猛禽は一声啼くと文彦の手を離れ、上空を旋回して遠くへと飛び去って消える。 (あとは、こっちの娘か)  傷が癒えたとはいえ、消耗した体力は尋常ではない。文彦は己の上着を脱いで少女に着せ、それから目線を合わせるように、僅かに膝を落とした。  尖った耳は、それほど意識しなければ普通の人間との差はない。その程度のものでしかない。 「おれの名前は、文彦だ」  猫たちに聞こえないように、隠すべきと自身で判断したはずの己の名を文彦は口にした。術師にとって最も大事な「名」を告げることが、少女に示せる数少ない誠意だと信じたからだ。 「村上文彦だ。憎む気持ちをまだ抱えてるなら、全部おれにぶつけろ。だけど、世界を憎むな。あの猫連中は、お前を助けるためにおれを異界から呼び出した。おまえの味方はまだ世の中にいる、敵もいる。それでも生き続けて、自分自身でいたかったら、そのための力をくれてやる」  目の前で父を封印された時。  自身の内に眠る魔の衝動に飲まれ術師を何十人と屠った時。  屋島英美が命がけで自分の暴走を食い止めてくれた時。  その時にいわれた言葉を、文彦は口にしていた。それが自分を絶望から救ってくれたと信じているから、文彦は英美の言葉を借りた。そこに込めた気持ちは彼自身のものだったが。 「もう一度いうぞ」  何度でも繰り返すつもりで、文彦は少女の顔を見た。 「おれの名前は、ムラカミフミヒコだ」 「わたしは……」  随分と間が空いた。  少女の瞳に意思の光が戻るのを待ちながら、文彦は少女の言葉を真剣に聞いた。 「わたしは、シュゼッタ。エーテル王国最後の王女、シュゼッタ」  かすれるような声でその名を口にして、少女シュゼッタは文彦の肩にしがみつくと嗚咽を漏らした。     『取り込み中、申し訳ないのであるがな。影法師よ』  剣呑とした猫たちの声が、その場の雰囲気を素敵に台無しにしてくれた。  シュゼッタは我に返っていたが恥ずかしくて文彦の肩にしがみついたままだし、しがみつかれた文彦も、実はとんでもないことをやってしまったのではないかと今更ながらに考えてしまう。 「なんだよ」 『とても言いにくいことなのであるが』 「手短に頼む」  あいわかったと。  猫たちは一斉に地平線を指差した。周囲の大地すべてが虚無に至る風に削られクレーターと化していた中で、その方角だけが眩い銀と碧に輝いている。 『津波である』  波は轟音を立てて迫っていた。  少し前までは地平線と大差なかったものが。 『おお、山も飲み込めそうであるな』 「そぉれを早く言えええええっ!」  その日何度目の絶叫を口にしたのか思い出す暇さえなく、文彦はシュゼッタと猫たちを抱えたり背負ったりしながら全速力で駆け出した。転移術で逃れようにも、水平線より高い土地など周囲を見渡しても、どこにもない。  あるはずがない。 『ここがクレーターの中心であるわけで、とにかく走るのであるー邪悪生命体』 「影法師と、呼べええええ!」  不運と不幸が日常と諦めているとはいえ。  そろそろ別の人生歩みたいと脳裏で嘆息しつつ、文彦はとにかく力の限りに走った。         【承引】  世界は理不尽で満ちている。  その言葉を文彦に教えたのは、とある事情で義理の妹と一つ屋根の下で暮らすことになった同級生だった。文彦に言わせれば彼が陥った境遇をして理不尽と呼ぶのは雄性生物として度し難いものがあるのだが、他人の抱える不運や悩みというのは当人でなければ理解しようがないのも事実だ。  なるほど世界は理不尽で満ちているのかもしれない。  そしてそれは世界の種類を問わないらしい。 「戻す方法を知らないってのは、どういうことだ」  二足歩行で喋る哺乳類、彼らの主張を呑むなら魔法猫たちの説明を一通り聞き、たっぷり数分間は己の頭の中で思考を組み立てて、それから文彦は近くでふんぞり返っていた魔法猫の一匹の首根っこを掴んで持ち上げた。  あぐらをかく下には座布団代わりに叩いた藁束が敷かれており、叩き固めた土床越しに身体を冷やさずに済んでいる。とはいうものの、そこはくつろぐ場所としては最低に近い。 「いいか。召喚の術式ってのは送迎一対があって初めて意味を持つんだ。それに、召喚する対象の正確な座標と存在形式を把握していないと、どんなに優れた術師でも異界から実体を持った生物を召喚するなんて真似は不可能なんだぞ」 『できてしまったものは、仕方ないであーる』 「避妊に失敗した高校生カップルの開き直りじゃねえんだ、そんな理屈を通すな」 『なんであるか、それは』  口にして、それがこの世界では通用しない概念だと理解し舌打ちする。 「物事には原因と経緯と結果が存在する、因果を越えて現象を起こしうるのは奇跡と魔法だけだ。世界の本質に基づき構築される術式には、術式として存在するために不可欠な律があるんだ……その律を教えてくれるだけでも事情はかなり違うんだよ。思い出せ、ついでに召喚式も吐け」 『難解であるなあ。とにかく呼んだら来たというだけでよいではないか』  掴まれるのに飽きたのか、魔法猫は文彦の手を離れて近くの格子を蹴った。  魔法猫が非力とは思わないが青銅でできた格子は分厚い金属棒を何本も組み合わせたもので、視界を通すことさえ難しい。  そう。  文彦と魔法猫たちは牢屋に閉じ込められていた。  津波から逃げ切ったところまでは記憶にある。気がつけば彼はそこにいた。どれだけの時間意識を失っていたのか、その感覚さえない。 『なぜであるか』  文彦もまた何度も自問したことを、魔法猫は口にした。たぶん数秒おきに。そのたびに牢番と思しき兵士は格子を強く蹴り、魔法猫たちがその何倍もの勢いで蹴り返している。  文彦はというと、魔法猫たちと共に牢屋に放り込まれてから、ただひたすらに体力の回復に努めていた。気力さえ消費して押し寄せる津波から脱出した文彦には、本当の意味で蓄えていた魔力が尽きていたのだ。地脈より精気を得ようにも、この世界との物質的な結びつきのない文彦には、面倒くさい上に厄介な「血と魂の盟約」を結ばない限り不可能であり、ついでに言えば現状でそれを行うための必要な材料もなく不可能だった。だとすれば人間として本来持っている生命力が回復するのを待ち、気を練り丹とするより他に選択肢はない。万物の陰陽を司る術師であり厳密には気功使いではない文彦にとってそれはあまり効率的な方法ではないのだが、文句を言う時間さえ惜しかった。 『なぜシュゼッタ王女は牢屋から出されて、我らが邪悪生命体と共に地面の隅っこで貯蔵されねばならんのであるー!』 「とりあえず、あの子が無事ならそれでいい」  魔法猫の暢気な主張に乗せるように、小さく低く言葉をしぼり出す。脅迫しているのではなく、事実を述べている。あるいは、何事かあったときの宣告か。  行者がする瞑想のように、文彦は牢に背を向けて胡坐を組んでいる。牢番は食事の差し入れなどしてくれないし、水の一滴も寄越さない。ことによっては、このまま餓えさせ衰弱死させるのかもしれない。 (素直に死ぬつもりもないが)  シュゼッタの暴走を食い止める時に召喚した精剣・黄泉道反は既に消滅している。文彦の記憶を頼りに強引に呼び出したそれは実体ではなく、力のある虚像でしかない。それさえ文彦の魔力をかなり消費して呼び出した代物だったが。 「傷つけるな。泣かせるな。ひもじい真似はさせるな」  指を折りつつ数える。牢番は耳を押さえて聞こえないようにしたが、文彦の言葉は容赦なく脳裏に響く。そもそも同じ言語で会話しているはずがないのだ、そこで意思疎通できるとすればおおよその仕組みが思い当たる。 「それと、あと半日で牢屋ぶっとばすから」  脅迫しているのはなく、事実を述べている。  できるできないを論ずるまでもなく。 「ぶっとばすからな」  牢番は悲鳴を上げながら走り去った。  文彦たちが解放される数分前のことである。      出迎えは、意外にも豪華かつ丁寧なものだった。  文明の程度はあれ牢というのは犯罪者や反逆の意思あるものが放り込まれる場所である。権力者がこの場にいるとすれば、その座を追われ処刑を待つ時だろうか。そうでなければ、彼らは着飾った姿でこのような場所に来たりはしない。  牢とは、国の暗部のようなものだ。  闇には闇なりの様式がある。それに違反してまで訪れるからには、相応の理由と事情があるとも考えられる。 『あー、冥土の土産に何か聞かされるであるか』  豪奢な衣装を身につけた青年を視界の隅に捉え、魔法猫が文彦の肩によじ登る。魔法猫を自称するならば魔法を使って自分達だけでも逃げ出せばよいものを、猫たちは一匹たりとも魔法を使う様子がない。 「聞く前に逆襲する気だろ、おまえら」 『なにを分かりきったことを聞くであるかね、この邪悪生物は』 「あの子を巻き込むなよ」  返事がない。 「おい」 『……シュゼッタ王女は案外丈夫であるからして、大抵の魔法の余波に耐えられると嬉しいのである』 「具体的には」 『直径40キロ程度の小惑星を衛星軌道上から落っことすだけであるよ?』 「やめろ、世界が滅ぶ」 『では地殻を割って灼熱の溶岩を』 「おれが真っ先に死ぬ」 『なら周囲を数分間だけ真空状態に』 「意味わかって言ってんのか」 『さくっと皆殺しであるが?』  嘆息。  魔法猫たちは本気である。それを可能とするだけの魔力を、今は感じている。 「それだけの力があるなら、捕まる前に逃げられただろ」  間が空いた。 『今だって逃げようと思えば余裕で逃げられるであるよ?』  魔法猫は大真面目に答える。 「おまえら愉快そうなナリして虐殺趣味か」 『そんなわけないである』  憮然として尻尾を立てる魔法猫。 『影法師が「ぶっとばす」と言うから、我らもそれに倣うだけであるが』  自衛のため瞬間的に放った術でさえ巨人兵と要塞都市を飲み込んで破壊したのだ。  本気になった文彦がぶっとばすと口にしたのだから、魔法猫たちもそれほどの破壊を予測し、これにつき従うことを決めたのだろう。 『ならば影法師はなにをするつもりだったであるか?』 「おれは」  当たり障りのない内容を口にすることで魔法猫たちをたしなめようとする文彦。 「向こうが非礼を詫びてくれるなら、ひどいことはしないぞ」 「ごごごご、ごめんなさいっ! 致し方なかったとはいえ牢に放り込んだのは本意ではなかったんです、本当です! だから、虐殺とか世界崩壊とか天変地異だけは勘弁してくださいっ!」  文彦と魔法猫の会話に割り込むように、必死の形相で這いずりながら、その青年貴族は格子越しに文彦の腕にしがみついてきた。 「しねえよ」 「でも、頭の中で一瞬でも思い浮かべたではありませんか! 恐ろしく生々しいイメージで!」  青年貴族、あるいは王族の風格さえ漂わせている男は歯の根がかみ合わないほどガチガチと震えながら、文彦に訴えかけている。日本の街を歩くなら失笑を買っても、公式の場では周囲を黙らせるほどの品格をもった男だ。それが。 「あなた様がいかなる力の持ち主かは存じませんが、なにとぞ慈悲を。 この世界に生きる民草に明日を生きるための猶予を!」  とりつく島もないとはこのことか。  仕方なく文彦は青年貴族の手を掴み、ゆっくりとそれを外す。肩に乗っている魔法猫はそのままに、太い青銅の格子に手刀を繰り出すこと数度。なんの抵抗もなく格子は断ち切られ、人ひとりが通り抜けられるほどの穴が生じる。  青年のそばにまで戻っていた牢番は悲鳴を上げ、腰を抜かす。火花でも散って轟音を当てて折れるならともかく、手刀は抵抗もなく格子を透過し、その切断面はきわめて滑らかなものだった。  よくよく注意してみれば文彦の手刀に漆黒の影がわずかに張り付いているのに気付いただろうが、そのような余裕を持ち合わせていたのは魔法猫だけ。とはいえ猫たちが文彦の動きに注目していたかというと、そんなことはない。 「おれの考えてること、筒抜けなのか?」  念のために尋ねる。 「言葉が通じる以上、思念の類が飛んでるのは覚悟してる。問題は、どこまで垂れ流しなのかだ。  おれは、普通に会話する程度にしかお前らの声が聞こえてこねえ。だけど、おれが思い描いた映像が伝わったってのなら『これ』は召喚術式に組み込まれた機能ではなく、この世界に呼ばれたおれの意識領域が身体の外にまで拡大したことになる  ……ああ、ああ。わかってるよ、あんたらに話しても猫に相談してもどうしようもねえ事だ。だから怯えたり敵意を感じさせるような振る舞いは自粛するってことなんだ、身体によって制御されない生の精神なんざ剥き出しの神経より始末が悪いんだから」  自分にそんな真似ができるとは思いもしなかった。  知識として理解していた事柄に直面したことで文彦は軽い目眩さえ覚えたが、愚痴めいた独白で多少は悟るものがあったのだろう。猫さえ聞こえぬほど短く小さな声で呟き印を組むと、青年や牢番たちの表情から不安や恐怖が消えた。 「内なる声が、聞こえなくなりました」 「そりゃ良かった。他の連中も同じだと嬉しいがな」  自分自身の精神領域を封印術式により大幅に制限した。  口にすれば簡単な話で、方法もそれほど難しくはない。しかし感情や記憶の一部まで巻き込んで閉じ込める恐れのある術式だけに、文彦は青年貴族ほど素直に喜ぶことはできない。術師としての能力も制限したに等しいのだから、ここで万が一にもシュゼッタが再び暴走すれば、文彦には打つ手もない。 「影法師と呼ばれる魔術師だ」  青年貴族を前に、文彦はそう言った。 「シュゼッタ王女を大切にしてくれる限り、滅多なことでは敵対しないと思う。たぶん」  事情も理解できぬ異世界だからこそそれを基準に動こうと、文彦はなんとなく決めた。