夜の荒野を何艘もの船が進む。  水の上ではなく、まして地面の上でもない。船底は地面に触れず、そして上下にも揺れずに荒野を進む。海原を往く帆船との差は見た目にはなく、早駆けの馬ほどの速さで船は動く。甲板では十名ほどの船員が、慣れぬ手つきで帆の向きを変え舵を切っている。元は優秀な水兵だろうが、陸を進む船の勝手は掴みきれないようだ。統制は取れているものの、彼らが不安を抱いているのは確かだった。 「諸君、ご苦労」  張りのある声が甲板に響き、船員たちが作業の手を止めて顔を上げる。現れたのは三十代前半の筋肉質の男。アポロジアの海軍士官制服に袖を通しているが、純血の人間種には珍しいほど隆々とした筋肉のため胸のボタンを全て外し、褐色に日焼けした肌が露出する。ところどころに浮かぶのは刀や矢傷を受けた痕であり、男がこれまでに潜ってきた戦場の激しさを物語っている。  後ろに束ねた灰色の髪が風に揺れる。男は砂が混じる荒野の風に顔をしかめつつも、扱い始めたばかりの帆船をここまで動かしている己の部下に感心していた。彼らもまた男の表情を見て落ち着きを取り戻した。その上で男は咳払いをし、こう言った。 「戸惑うのも最初の三日だけの話だ、じきに慣れる」  船員を指揮する男が、上空を指差した。船員たちがつられて見上げれば、巨大な木製の樽としか表現のできないものが雲間を縫うようにして飛んでいる。近づいて観察すれば魚類のような流線型でヒレを思わせる突起が各所についているのだが、遠めには樽でしかない。 「あれに比べれば、こっちは気楽なもんだ」  地上から見てもそれとわかる揺れ方に、心底同情しながら男はうめいた。速度では帆船の比ではないだろうが、乗っている者は無事では済むまい。 「……空を飛ぼうって連中の気が知れんよ、まったく」  わざとらしく男がおびえて見せると船員たちはたまらず噴き出し、それから帆船は順調に荒野を進んでいった。  II.空船と陸船  心と身体の疲労は、そう簡単には癒せない。  生を放棄しかけた少女の場合、それは深刻だった。たとえ非常識な方法で救われようと、傷ついた心身が一晩で癒される道理はない。 『二晩は必要やな』  騎竜ベリアルは軽口を叩き、薬茶を飲んで眠った少女を見た。骨格に損傷はなく、内臓の疲労も急速に回復している。巻きつけた包帯の下ではぼろぼろになっていたはずの皮膚や筋肉が再生し、強烈な日差しの影響もない。本来な全治二週間の怪我なのだから医師でなくとも驚くべき回復である。 『天幕の準備はあるし、もう一日ここで安静した方がええやろ。水や食料の心配も今のところはないし、うちらもそれほど急ぎの旅やない』  尾を振り白み始めた東の空を眺め、ベルアルは暢気な声を上げる。夜通し焚き火を見守り同時に周囲を警戒していた騎竜は、地べたに寝転がっていた己の主人を軽く蹴る。 『どうせ起きてるんやろ、旦那』 「いま目が覚めた」  寝起きとは思えぬほどはっきりした声で答え、クロルは上体を起こす。やや長めの髪は後ろで束ね、白玉石の筒で留めている。適度に小麦色に焼けた肌が襟や袖より露出するが、着ている服は全身を覆っている。肌に密着するような厚手の下着の上に、幅広の布を巻きつけるような衣装はアポロジア大陸では珍しい。布地は少女が着ている貫頭衣と同様の素材であり、不思議な光沢を発している。  年の頃は二十を越えたあたりだろうか、彫りの深い顔立ちに鷲鼻であり、無駄のない肉付きは適度な鍛錬を受けた者の証明である。脛当てを組み込んだ長靴は煮固めた皮革に樹皮を編みこみ、漆を幾重にも塗った鋼板を重ねて当てている。見れば幅広布にて隠しているものの、両腕にも同様の手甲。こんなものを着けて寝ていれば節々を傷めてしまいそうなものだが、起き抜けのクロルに苦痛の色はない。 「現地事情に詳しい人間の協力は必要だ。それに、なにも分からぬまま動いても得られるものはあるまい」 『下っ端のつらいところでんなぁ』愚痴をもらすベリアル『ゲートに干渉喰らうくらいの一大事なんやから素直に保有戦力ぜんぶ突っ込んで即時解決すりゃええのに、あのアホ女。「あなたとベリアルなら大丈夫です、信じてます」って生娘みたいに目ぇ潤ませてくるし、旦那は旦那でその気になるしなぁ』  言ってて腹が立ったのかベリアルは岩を蹴る。人ひとり隠れるほどの大岩にベリアルの金属製の爪が突き刺さり、そのまま岩を砕いてしまう。恐るべき硬度と脚力である。 『あの詐欺師寸前女の無茶な命令のおかげでうちら何度も死ぬような目にあってるのに、なんで旦那は学習せんのやろ』 「我らが王国において騎士とはそういうものだからだ」 『土地も城も持たずに便利屋扱いされてるやないですか。あんな性悪アホ女に見切りつけて、胸と尻のでっかい女を嫁はんに迎えればええのに』 「愚痴はいいから索敵を続けろ」  ベリアルの金属質の頭部を拳で軽く叩くクロル。痛めつけるというよりは気づかせる素振りに近く、ベリアルは首だけをクロルに向ける。 「我はこういう生き方が合っているのだ。お前には苦労をかけるがな」 『それは言わない約束や、おとっつぁん』  からからと騎竜と騎士は笑う。  それより数秒後。  クロルの表情が猛禽のように険しくなる、ベリアルも同様で一人と一匹は東の方角を睨み無意識に声を潜めた。 「見えたか」 『旧式船が数隻、鎧牛に引かれてこっちに向かってますわ』 「識別は」 『アポロジアの旗、嬢ちゃんの記憶にあった奴隷商のキャラバンやろ』 「了解した」  猛禽のような鋭さを瞳に宿したまま、クロルはひどく残忍な笑みを浮かべた。