『魔法猫ファルカ』  セップ島のどこかに、不思議な猫たちの国がある。  古い記録に猫の国と示される楽園が。  そこに棲む猫はみな二本の足で立ち、人の言葉を話すという。彼らは自らを魔法猫と呼び、その名のとおり不可思議なる魔法を使う。彼らは自分たちが猫以上の存在であると自負しているが、やはり猫なのだからマタタビには滅法弱いし、熱いスープを飲むと舌を火傷して大騒ぎする。  セップ島の人々が出会う魔法猫たちは、猫の言葉を信じるならば楽園を飛び出した変わり者ばかりだ。彼らは純粋に旅を愛し、人々との出会いを楽しむ。困った人を見ると、やれやれ魔法の使えない者は不便なものだと言いながらも自慢の魔法で助けてくれる。だから魔法猫を知る者は旅する猫たちを歓迎するし、猫たちもまた人々の良き友として旅をする。魔法猫と出会う者は、彼らがいかに旅を愛し冒険を求めているのかを理解するだろう。幸運にも魔法猫と出会った旅人たちや猫を愛してやまない人々は、いつの日か彼らの故郷を訪れてみたいと願う者が少なくないという。  しかし残念ながら人は猫の国の在処を知らず、そこに到った者は数えるほどもない。山のような金銀を魔法猫の前に積んでも、猫たちは決して教えてくれはしない。力ずくで聞き出そうとしても、彼らは魔法の力で逃げ出してしまう。  それでも猫の国を訪れてみたいのならば、あくまでも誠実に接することだ。魔法猫が本当の友人と認めてくれれば、彼らは猫の国へと至る秘密と一緒にとっておきの話を聞かせてくれるだろう。偉大なる始祖猫の冒険、勇敢なる猫姫の機知に富んだ小話。  そして。  これは、そんな旅の魔法猫が話してくれた物語の一つである。 【旅猫と牧童】  それは、ある星降る夜の出来事だった。  羊飼いの子たる少年はいつものように草原に三百もの羊を放ち、そこで一夜を過ごそうとしていた。十三の誕生日を迎えたばかりの少年は牧童の中では一番の年長で、誰よりも羊の扱いに長けていた。羊飼いに求められるのは羊を追う才能だけではないが、少年はまさしく羊飼いの素質に恵まれていた。それを知る村人は安心して少年に羊を任せていたし、彼もまた自分の仕事に誇りを抱いていた。  自分は、村一番の羊飼いになるのだ。  自分の育った村が好きだったし、その気持ちにいつわりはなかった。孤児だった自分を我が子同然に育ててくれた両親と、自分を慕ってくれる妹のためになにかをしたいとも考えていた。普通に比べると少々個性的な家族だと村人は言うが、だからこそ少年は家族のために頑張りたいと願っていた。  でも、父さんはそんなに無理をすることはないと言った。  どうしてなのだろう、なにがいけなかったのだろうと少年は星を見てため息をつく。ひとりで羊を追い始めて彼は草原で寝起きするようになったが、少年の義父はいい顔をしないのだ。  お前は世界がどれほど広いのか、まだ知らない。お前は生きることを急ぎすぎて、多くのことを見落としているかもしれない。それを知ってから将来を決めて、それから頑張っても遅くないのだと義父は言うのだ。自分は良いことを、褒められることをしていると思っていただけに、少年は驚きを隠せなかった。  だから少年はなかなか寝つけずに、星空を見上げていた。いろいろのことを考えようとして、ただ夜空の深い藍色に圧倒されてしまう。今まで何度も見ていたはずの星空がその夜はなぜかとても深い藍色で、それを引き裂く銀色の軌跡が何条も夜空に描かれる。 「すごい」  悩んでいたこともしばし忘れ、少年はかすれるような声を出した。流れる星に見とれたのか、虫の鳴き声さえ聞こえない草原には焚き木が爆ぜるバチバチという音しか聞こえてこず、その音さえも草原の果てまで届いているような、そういう錯覚を少年は抱いた。 「すごい」  もう一度、少年は唸った。何が凄いのか、何に心を動かされているのか。少年はそんな単純なことさえ理解出来ないほど星空に見入っていた。 『確かに、見事な星空ではあるな』 「うん」  不意に。  すぐ傍より呑気な声が聞こえてきた。少年は最初なんの違和感も抱かずに相槌を打ち、ややあって視線を星空から焚き火へと向けた。 『いよう、少年』  焚き火を挟んで向かい側。  一匹の猫が金串に川鱒を刺しつつ挨拶をする。焚き火に照らされる毛並は黒曜石のように透き通り、ひげはぴんと張っている。大人猫と呼ぶには少々若い気もするが、すこしずんぐりとした身体は意外と貫禄を感じさせる。  その猫が。  人と同じく手ごろな石に腰掛けて、鼻歌なぞうたいつつ川鱒を串で焼こうとしているわけだ。少年は呆気に取られて猫を見て、その様子に気付いた猫は魚を一尾、少年に差し出した。 『食うかね、なかなか美味であるぞ』 「……ありがとう」  とりあえず礼を述べて魚を受け取り、少年は自分の頬をつねってみることにした。  三尾目の川鱒を平らげた後、猫は自ら名乗った。 「ファールーカ?」 『ファルカ、である』  発音はしっかりするようにと猫ファルカはたしなめ、少年は珍しい名前だねと感心する。すると猫は偉そうに胸を張り『良い名前であろう』と金串を振り、ふふふと笑った。 『我も、この名を気に入っている』  偉大なる始祖猫の名と同じなのだと猫は言い、大きく開いた口と金色の瞳が焚き火に照らされて闇夜に浮かぶ。自分が旅の魔法猫だということ、この辺りの川には良い鱒が棲んでいること、焚き火を見付けたので火を借りに来たことを猫は告げた。魔法猫という生き物を初めて目にした少年は大層驚き、君のような礼儀正しい猫を初めて見たことや、自分がどうして草原にいるのか正直に伝え、そしてため息混じりにこう尋ねた。 「こんなへんぴな村まで、わざわざ来たのはどうしてなの」  海風が吹く草原、それに山があるだけの村。特に美しい花が咲いているわけでも、水の澄んだ湖があるわけでもない。道楽でこの村を訪れるものは数えるほどもなく、物見遊山の類で猫が来たとは思えないのだ。そんな少年の心を読んだのか、猫は少しばかり気まずそうに 『物見遊山の類では駄目かね』  と頭をかく。 『無論そればかりではないのだが、この地は少年が考えるよりも魅力的な土地であるぞ』  我も急ぎの旅でなければ漫遊したいものだ。  焚き火をながめていた視線を星空に移し、猫は歌う。遠い異国の言葉と猫の言葉を交えた短い歌が星空に吸い込まれ、少年はその歌に聞き惚れた。四拍子でも三拍子でもない不規則な旋律、二十四階調の音色で分けた声。人の「のど」(編注:括弧内を傍点)ではまねできそうにない複雑で短い歌。吠えるような、鳴き声に近い歌声は一呼吸で終わる。  これでおしまいなのか。  少年はちょっともったいない気分で、猫の視線を追って星空を見上げた。流れる星が雨のように絶え間なく激しく降り続け、流星の軌跡はその輝きを失うことなくしろがねの糸をつむぐ。しろがねの糸は無数に交差して天幕を編み、深い藍色の闇はいつのまにか銀色の天幕に覆われてしまっていた。今や空は真昼のように輝き、焚き火を起こす意味は失せていた。  なんだ、これは?  生まれてより十三年の経験を振り返り、それが何であるのかを理解しようと努力する。もっともその努力は無駄に近いもので、少年は至極簡単かつ安直な結論を導き出した。 「これは魔法なのかい」 『星の輝く時間を繰り、夜を際限なく引き伸ばしたのである』  星の光は時を越えて輝くものだから、時を操る力になるのだ。  猫は言う。その時が来るまで夜は明けないし、世界は眠りについたままだと。自分と少年だけがしろがねの天幕の下で動くことが出来るのだと。言われて少年は周囲の草原で眠る羊たちを見るが、これほど空が明るいのにただの一頭さえ目を覚ます様子がない。羊だけではなく虫も、草も、全てが眠りについたままだ。 『夜が明けるまでの短い時間ではあるが、我と共に旅をしてみないか』  嫌ならば、時はすぐに戻そう。  猫の言葉に嘘はなさそうだ。少年は猫をじいっと見つめ、 「でも一晩だけだからね」  と笑い、猫と握手すると旅に出た。 【世界の果てと始まり】  村の外には草原がある。  草原を越えると、森と山がある。反対側に行けば、海がある。  それが少年の知る世界の全てだった。羊を飼うにはそれだけで十分だったので、そこから先に出ていく必要もなかった。生きる上で必要な物は作って済ませていたし、それでも足りないものは行商人が持ってくる。だから少年は今まで隣の村にも行ったことがないし、これからもないと思っていた。 『勿体ない話である』  少年の話を聞いていた猫ファルカは草原のある一点で立ち止まった。それは猫の意思ではなく、横を歩いていた少年がそこで歩みを止めたから応じたのである。少年は樫の杖を振るい、短い丈の草を払うと茂みに隠れた小さな切り株を猫に見せた。手首ほどの太さもない細い切り株が打ち付けた杭のように草原にあり、その脇より細い枝が伸びつつある。草が生い茂る今の季節ならばともかく、秋を過ぎるとこの小さな切り株がやけに目立つのだと少年は言う。 『これはなんであるか?』 「ここが僕にとって世界の果て」  猫ではなく自分に言い聞かせる少年。切り株の前に立って、その向こう側を指差した。 「ここから先は僕の知らない世界」  草原はいましばらく続いている。生えている草も、土の色も変わらない。森の木が遠くに見えて、その枝が風に揺れている。少年は一度だけ振り返って村を眺め、切り株をまたいで越えた。実にあっさりと越えたので猫は『ほう』と感嘆の声をあげ、『では少年よ、君はどこへ行ってみたい?』ときいた。  大きな街、美しい城、広い海。猫は己が知る限りの珍しい場所や楽しそうな場所をあげた。少年が見たことも聞いた事もないものを、猫はたくさん知っている。空とぶ都市、霧巨人が住む丘、恐ろしい魔人が暴れている北の果て。人がまだ踏み入れたことのない場所を猫は知っていた、それこそ世界の果てまでも、猫は知っているようだった。 『どこでも良いぞ、我が案内してやろう』 「僕は」  ふと言葉が止まった。  猫はたくさんの場所を訪れている。そのどれもが少年の心をおどらせる場所に思えたのだが、少年は首を振った。 「僕が行かなきゃいけない場所は、自分で探すことにするよ」 『それでは旅にならないのである』 「今夜の旅は、君が本当に行きたい場所が目的地」  さあ、君はどこに行きたいのさ?  笑顔の少年と対照的に猫は目を丸くし、言葉を失う。 『我が、本当に行きたいと願っている場所であるか』  風が吹く。   少年は、目の前に広がる『新しい世界』を満足そうにながめている。 【道の上にて】  道がある。  どこかへと至る道がある。土を踏み固め、固い雑草がところどころ生えている小さな道。農夫が拾い忘れた馬の糞が転がって、ほとんど土くれと化しているような道。この数日、いや、もっと長い間、誰も通っていないのかもしれない道だ。 『気がついた時、我はこの道の上に立っていた』  そこがどこなのか、少年にはよくわからなかった。道の脇はちょっとした雑木林になっていて、それこそ少年の村にも似たようなものがありそうな、そんなありふれた景色だった。 『どれほど昔の事なのかも思い出せないが、かつて我は猫の国に住んでいたのである』  ところがある日突然、猫ファルカは生まれ育った国を追い出された。  好奇心旺盛で旅が好きな猫は、どこかにあるはずの故郷を探すために世界中を旅して回った。それこそ人が訪れたことのないような世界の果てまで歩き回り、驚くような出会いを何度も経験し、きっと世界のどこかに自分の故郷があるに違いないと気楽に考えながら。 『しかし我が故郷はどこにもなかった』  気がつけば猫は世界のすみずみまで訪れていた。もはや好奇心を満たす場所もなく、帰還するべき故郷も見つけられず、猫は暇で暇で仕方がなくなっていた。一緒に暮らさないかと言ってくれた老婦人や、旅の話を聞かせてほしいという者たちもいたが、一箇所に留まって暮らすのは何か大きなものをあきらめるような気がして嫌だったのだ。 『それならば誰かを旅に誘い、一緒に楽しもうと考えたのである』  それが少年だった。  変わり者の牧童がいると猫は旅先で聞いていた。犬を使わず羊の群を操る牧童、言葉を使わず羊と心を通わせ羊たちの信頼を得ている牧童。賢く、強く、不可思議な力を持っているという噂の牧童。そんな少年と一緒なら、もう一度この世界を旅して廻ってもきっと面白いに違いない。 『だが少年には特別な力もなさそうだし、無茶な場所へ連れて行けというし』 「君が故郷を追い出されていたとは思わなかったんだよ」  それに不思議な力を持っているのは僕ではなく、父さんなんだ。  よく間違われるんだけどねと、少年。本当に血がつながっていたら色々と面白い事ができるのだけど、こればかりは仕方がないよと苦笑して少年は道脇の草むらに腰を下ろした。なんの変哲もない場所だったし、猫がここに降り立ったのは思い出せないくらい昔の話だというから、地面や草むらを探しても何かが見つかるわけでもないだろう。事実、猫は以前にもこの辺りの地面を調べ、結局なにも見つけられなかったと答えた。 「そういえば君を追い出した奴に心当たりはないのかい」 『我が故郷に住まう猫はみな優れた魔法使いであるからして、我を国の外に転送するなど朝飯前なのである』  えへんと胸を張る猫。少年はほお杖をつき、 「じゃあ君は国中のみんなから嫌われるようなことばかりしてきたってことなの?」  と呆れ気味に呟いた。僕は君を恨んでいるような猫に心当たりはないのかいと尋ねたんだよと丁寧に言って、猫は初めてその意味を理解した。猫は首を振り、尻尾を逆立てる。 『我が故郷の猫たちは、悪戯好きはいても邪悪な意思を持つものなどいないのである。故郷を追われた猫がいても、彼らは自らの意思で帰還する事ができたのである!』  失礼なことを言わないで欲しいのであると猫は両腕をぶんぶん振りまわすが、 『……ただ、猫の国の大臣猫にはあまり好かれていなかったのである』  と続けた。少年は感心して「大臣猫に嫌われるなんて、君ってすごいことをやっていたんだね」と面白そうな顔だ。 『大臣猫は長毛猫だから、夏は暑かろうと思って五分刈りにしてやっただけであるが』 「うわあ」 『そんな事で猫の国を追い出されるなんて考えられないである、そうは思わないか?』  少年は笑顔のまま固まった。率直な意見を言えば猫が傷つくと思ったし、この様子では他にも色々やっているのだろう。ここで事細かに聞けばもろもろの余罪も出てきそうで、共犯にされてしまいそうな雰囲気でもある。『どうしたであるか?』と猫に問われても直ぐには答えを返す事ができなかった少年だが、視線を上へと向けつつ言葉を繕おうとし、突然立ちあがると叫ぶようにきいた。 「君の国には猫しか住んでいないのかい?」 『そんなことはないのである』  なにしろ猫の国は猫の楽園なのであるからして、虫や鳥、それにネズミはいるのである……と続く猫の言葉を聞き流し、少年は空の一点を凝視する。しろがね星の天幕に覆われた空はまぶしくて直視するのも難しいが、少年は眉間にしわを寄せてじっと見ている。猫もつられて空を見上げるが、ただまぶしいばかりで何も見えない。 「いま眠らずに動けるのは僕たちだけなんだよね?」 『肯定である』  この世界の夜を際限なく引き伸ばすことで、この世界は眠りにつく。この世界に住むものである限り、その影響を免れることはできない。猫の説明をもう一度聞いた少年は空に向って指笛を鳴らした。  高く澄んだ音色。至極単調だが歪みも澱みもない音が長く続き、なにもないはずの空に吸い込まれる。しばらく猫は少年と一緒に空の一点を眺めていたが、やがて飽きると『なにをしたのか我にはさっぱりである』とつまらなさそうに声を上げた。  その時だ。  白く輝く空から突然一羽の鳥が降りてきた。銀色の羽根と大きな翼を持つ猛禽は少年が掲げた腕にとまり、少年が出した羊のチーズをつまんで美味そうに飲みこむ。飼い慣らされたわけではない、野生の鳥に違いないというのに銀の猛禽は嬉しそうだ。猫はというと猛禽が降りてくる時の突風に吹き飛ばされて後ろに二度三度と転び、千切れた草と土埃まみれになりながらなんとか起き上がるが、猛禽と目が合って再び後ろに転んでしまう。 「お前は猫の国からきたんだね?」  少年の問いに、猛禽は空に向って啼いて応える。猛禽の視線を追ってみれば、道より離れた草地の上、森の木々より人の背丈ほど高い空の一点から小鳥たちが飛び出してくる。一人と一匹が慎重に廻りこんでみれば、宙に浮かぶ小さな窓が突如として視界に現れる。  しかも窓は一つだけではない。少年と猫が立つ位置からは、数えきれないほどの窓が見えた。それらの窓はすべて梢よりも高く、梯子をかけることもできない。一歩でも横に動けば窓は空に変わり、そこから覗く小鳥の尾羽や頭だけが宙に現れる。小鳥たちは少年を見ると嬉しそうになにごとかをさえずり、それを聞いて少年は何度も頷き笑う。 「猫の視点では見えてこないね、これ」  地面を調べても、なにも見つかるはずがない。人の視点で調べても分からないだろう。良くできた仕掛けだよねと面白そうに少年が指差し、 『そうであるな』  と猫もしぶしぶ同意した。少年の招きに応じた猛禽にもう一切れのチーズを与えると猛禽は少年の頬に頭をすり寄せ、大きくはばたいて宙に浮かぶ窓に飛びこんでいく。  猛禽が飛び込んで姿を消した窓をしばらくながめ、その後に呆れたような驚いたような表情で猫は少年の裾を引っ張った。 『少年よ。いま君は空飛ぶ鳥を招き、意思を交わしたであるな』 「うん」  あっさりと少年は頷いた。できないの?と少年は不思議そうな顔だ。 『こういう芸当は魔法使いの領分である』  それなのに少年はまじないの言葉も唱えずに、ただ指笛だけで鳥を招き心を通わせた。十分不思議な力を持っているのであると猫は思ったのだが、それを口に出す事はなかった。 【猫の国】  箱庭の楽園。  奇妙なる窓を越えて飛びこんだ少年は、猫の国を見てそんな感想を抱いた。空には太陽が昇り、穏やかな陽が差し、さわやかな風が吹いている。短く刈られた芝の草原は緑の絨毯のようで、わずかに蜜の香が漂っている。少しばかり先に見える小さな街。そこに至る細い道には石畳が敷き詰められ、それは常春の陽気でほどよく温められていた。 「ここが君の生まれ故郷かい」  芝生には小石一つ転がっていない。偏執狂と呼ばれるほど庭の手入れにこだわっていた隣家の老夫婦がこの草原を歩いたらきっと喜ぶだろう。父さんあたりは「ぜいたく過ぎて長居する気になれない草原だ」とか言いそうだが、ここは猫の楽園なのだから仕方ない。妹をここに連れて来ればお転婆も少しは直ってくれるだろうか。そんなことを考えながら、少年は猫ファルカの長ったらしくもったいぶった解説を待った。  が、即座に返ってくるとばかり思っていた言葉がいつまで経っても来ない。どうしたものかとあたりを見渡せば、近くの石畳の上に紙片が一枚置いてある。 『小用あるゆえ、街でゆっくりしているが良し』  紙片にはそれだけが書かれており、猫の肉球を刻印した小さな金貨が数枚、重石代わりに沿えてあった。やはり後ろめたいことの一つや二つくらいあるのだろうかと少年は嘆くと共に息を吐き、金貨と置手紙を拾って小さな街へと向かう。草原は数分も歩かぬ内にちょっとした林になり、そこでは少年を猫の国へと導いた銀色の猛禽が枝にとまり、こちらを見つめていた。 「よろしく」  少年の言葉に猛禽は一度だけ啼き、再びいずこかへと飛び去っていく。  少年は数分かけて林を抜け、街に至った。魔法猫の街はとても綺麗で、驚くほど人間の国に似ていた。正確に言えば、その造りは少年が住む村のものよりも遥かに立派なものだった。黄色に焼いたタイルや真珠色の壁土など、少年が生まれてより見たこともないものが街中を飾り、色彩豊かな街中を猫ファルカと同じく二足歩行の魔法猫たちが闊歩している。彼らは背筋をぴんと伸ばし胸をこれでもかといわんばかりに張っており、屋根の上や縁側で丸くなっているような猫は一匹たりとも見当たらなかった。  これが猫の国か。  世界が縮んでしまったような錯覚に襲われる。家も椅子も道の幅も何もかもが猫の大きさに合わせて造られており、その細工は驚くほど精緻なものだ。住民もやはり猫。兵士も農夫もウェイトレスも全部が猫で、猫ではないのは少年だけだ。猫以外の生き物にとって、この街はさぞかし住みにくい場所だろう。少なくとも少年は、この街に長居する気にはなれない。  どうしてくつろげるというのか。  魔法猫たちは突如現れた少年をじいっと見つめている。歩いていた猫、テラスで談笑していた猫、そのすべての猫が己の仕事を止めて少年を見た。ひそひそと声をひそめ、少年が視線を向けると顔を逸らしたり走り去ったりすることで少年の存在を無視する。少年が何か声をかけようとすれば、何匹もの猫が逃げ出す始末だ。  お前は存在しない。  彼らはそう言いたげであった。魔法猫というのは総じて好奇心が強いものだと猫ファルカより話を聞いていたのだが、彼に再会したら文句のひとつでも言ってやろうと考えてしまう。確かに人間である自分は猫の国にとっては闖入者に他ならない、それならば警備の兵でも呼び出してさっさと追放すればいい。数分経って兜をかぶって槍を抱えた兵士猫たちが駆けてきたが、彼らもまた少年を遠巻きに囲み、襲ってくるどころか声をかけてくる様子さえない。  ゆっくりしていると良い。  猫ファルカの置手紙を思い出し、少年は広場と思しき場所で腰を下ろした。少しばかり離れた場所に建つ極彩色かつ悪趣味な形状の城をながめ、自分はあとどれくらい我慢できるのだろうと指を折りつつ考えてみた。百を数えられるだけの時間を目安にしよう。百を数えたら猫ファルカを探そう、探し出して「君には悪いけど、この国を追放されたのは正解だったと思うよ」と言ってやるのだ。  頭の中で五十を数え終えた頃。  少年の腹が鳴った。ぐきゅるるると、なんの手加減も優雅さもなく響き渡る腹の虫の音に、少年は顔を赤くした。魔法猫たちは耳を立て尻尾を揺らし、ひげをぴんと張って少年の腹より生じる音色を聞いた。それは街中に流れていたオルゴールやオルガンの音色をかき消すような、盛大なる腹の虫だった。音がやみややあって、いかなる現象に由来する音色なのか全員が理解した頃、コック帽をかぶった魔法猫の一匹が猫の群れをかき分けるように現れて、 『食え』  と、馬鈴薯のパンケーキを皿ごと少年の前に出した。半ば押し付けられたように皿を受け取った少年だが、 「ありがとう、とてもおいしいよ」  パンケーキを気恥ずかしくも実に美味そうに頬張れば、それを見た他の魔法猫たちも次々と少年の前に来て、 『まあ食べるがいい、餓えた客人よ』  笑いをこらえたり無表情だったり。個性豊かな魔法猫たちは、ともかく味も見た目も珍妙なる食い物を次から次へと押しつけてくる。十を数える間もなく少年の両手は食べ物でいっぱいになって、気が付けば彼の周りにはたくさんの魔法猫たちが集まっていた。  どこに住んでいたのか。  どうやって来たのか。  今まで我慢していたのか、せきを切ったように質問を繰りだす魔法猫たち。少年が食い物を抱えたままでは話を聞くには十分ではないと見るや、数匹の魔法猫たちが大きなテーブルを持ってきて荷物を置くがよいと促してくる。ありがとうと礼を述べれば、そんな社交辞令など必要ないから色々と話を聞かせて欲しいと更に迫る。 『先刻までの無礼を許して欲しい、客人よ』  兵士猫の一匹がうやうやしい口調で兜を脱ぎ、頭を下げた。この猫の国を訪れた客は実に百年ぶりであり、人間をこれほど間近に見た魔法猫も少なくないのだと兵士猫たちは謝罪した。確かにあのような場所に入り口があるのでは猫の国を訪れる人間は少ないだろうと納得しつつ、少年は先刻までとはうって変わった歓迎振りに逆に困惑してしまう。  好奇心旺盛な魔法猫たちの質問は実に個性的だ。  海には本当にたくさんの魚がいるのか。空から雪というものが降るのは本当なのか。  今まで猫の国の外に出たことがないという魔法猫たちは、たくさんの質問を少年にぶつけてくる。少年も彼らと同じくらい外の世界については無知に等しかったのだが、それでも人の暮らしに興味を示した猫たちのために知る限りの事を話した。  自分が飼っている羊の話、雷王と呼ばれた美しい竜の話、それに妖精の血が流れる勇ましい姫君の話。決して多くの話をしたわけではない。だがそれらはどれも猫の国にはないものであり、やはり外の世界には色々のものがあるのだなと魔法猫たちは目を輝かせる。  ひととおり話し終えた少年は、今度はこの国について色々教えて欲しいと頼んだ。まず魔法猫たちは、我々はみな魔法使いなのだから、たとえ人間が一人暴れたとしても簡単に退治できるので少年が現れたときもそれほどのパニックにはならなかったのだと揃って胸を張った。彼らは、この魔法猫たちの楽園を生み出した偉大なる始祖猫の話や、人形王子と呼ばれた若者と一緒に悪魔を退治した勇ましい昔の王様の話をオルガンの演奏を交えて語り始める。まるで歌劇のような華やかな話に、少年もまた魔法猫たちに負けないほどに目を輝かせて話に聞き入った。  偉大なる始祖猫のおかげで魔法猫たちは永遠の楽園にすむことを許されたのだ。  魔法猫の一匹が教えてくれる。ここでは飢えることもなければ寒さに震えることもない。猫の天敵はいないし、万が一に攻めて来たとしても自分たちは魔法猫なのだから決して負けることはない。どの魔法猫も同じ言葉を口にする、自分たちが住む国が最も素晴らしいと。 「外の世界に行ったことはあるのかい?」  窓の外に見える人間の世界なら少しだけ知っていると彼らは答えた。  別の魔法猫が言う。ここには色々な場所に窓があって、そこから外の世界を見る事ができる。もっとも窓に映る世界は氷に閉ざされていたり醜い化け物が住んでいたりするので『やはり猫の国が一番素晴らしい』とほとんどの魔法猫が考えていると。 「でも、君たちは僕の話を楽しそうに聞いてくれたよね。それに世界を旅した昔の王様のことを君たちは誇りに思っているから、歌まで作った」  何気ない少年の言葉に数匹の魔法猫が息を呑んだ。  同時に、たくさんいた魔法猫たちの表情から余裕が消えた。不安そうに少年から視線を外す魔法猫もいる。 「君たちは、本当は冒険や旅が大好きじゃないのかな」  だまれと怒鳴り、両脇に立っていた兵士猫は少年に槍を突きつけようとする。ところが肉球の手では上手に槍を持つことができずふらふらとしてしまうので、少年は兵士猫が落としそうになった槍が倒れないように支え、慌てることなんてないよと槍を返した。 「大体、君たちは魔法が使えて十分に強いだろう」  その通りだとすべての魔法猫が頷いた。 「だったら」  君たちは広い外の世界でも立派にやっていけると思うよ。どうして外の世界に出ないのかな? 少年は軽い気持ちで言ったのだが、この言葉に魔法猫たちは一斉に肩を落とす。 『外に出たくても出られないのだ』  兵士猫が視線を落とし、楽園の住民は猫の王様が許してくれないと外の世界に出られないと呟いた。以前の王様は出入りを認めてくれたけど、今は罪人でも国を追い出されることはない。食べるものも住む場所も総てが満ち足りているけれど、ここは牢獄と変わらないのだと。君のような旅人ならば自由に出入りすることができるかもしれないが、我々は一生を楽園の中で過ごさなければいけないのだと嘆いた。 「でもファルカは『気がついたら故郷の外に放り出されていた』って言っていた」  どうしてなのだろうと首を傾げる少年。  ファルカってば僕と一緒に来たのに、用事があるとか言って途中で姿を消したんだよ。でも大臣猫の毛を刈ったって言ってたから、みんなに会うと捕まってしまうのかもしれないねと乾いた声で笑う。  ところがその話を聞いていた魔法猫たちは心臓も止まらんばかり驚いて飛びあがり、少年の身体にしがみつくように次々と詰め寄った。 『今、ファルカといったな!』  そうそう、偉大なる始祖猫と同じ名前だって聞いたと少年が返せば、魔法猫たちは揃いもそろって『当たり前だ、王様の名前なのだから!』と叫ぶ。魔法猫たちは、これは一大事と口々に言うと遠くに見える猫の国の城へと駆け出し、少年はその場に残された。 【王様の資格】  それは砦でも神殿でもない建物だった。  ひたすらに豪華さを追い求め、それがすべての目的となった建物だった。外側に所狭しと並んだ大理石の彫像には金銀の装飾が施され、壁一面には無数の宝石が埋めこまれている。猫ファルカが知る限りこの建物は猫の城のはずだった。  否、今でもそこは城なのかもしれない。正門には見慣れた顔の兵士猫が門番として立っており、ファルカの姿を見ると背筋を伸ばして敬礼したのだから。 『よくぞ帰還された、猫の王様』  城の広間。  もはや趣味の悪さという言葉だけでは片付けられないような、冒涜的な調度品の数々にめまいさえ感じるファルカを出迎えたのは、彼そっくりの猫。その猫は金色の冠を頭に載せ、紅白縦縞のマントを身につけていた。ぴんと張ったヒゲも、その不適な眼差しも、声や話し方までもが彼に瓜二つだった。  たとえ双子でもここまで似ることはあるまい。  似すぎているからこその嫌悪感、それをファルカは抱いた。それを見透かすかのように、玉座にて彼を出迎えた猫はこれ以上ないほどご機嫌の笑みを浮かべ、ダイヤモンドを埋め込んだ立派な杖を肩に担いでいる。 『君が楽園を追われている間、私なりにここを維持してきたよ。民は餓えることもなく、争いごとも皆無だった』  君は民に慕われていたからね。  玉座の猫は笑いを隠そうともしなかった。それはもう楽しそうに、この瞬間を待っていたかのように。玉座の猫はその高みよりファルカを見下ろし、あははははと声を出した。二匹以外誰もいない広間に、玉座の猫の笑い声が響き渡る。 『君が愛する民、賢く尊い魔法猫たち。この百年間、君が消えたことに気付きもしなかった』 『その趣味の悪さでよくも我の代わりを果たせたものである。』  感心さえするファルカ。鏡を見ているような感覚だが、腹の底に悪意と怒りが溜まっていくのが分かる。 『衣食住を満たしてやれば文句は出ないのだよ』  魔法が使えても、猫は猫。  愚かとは言わない。間抜けとも言わない。しかし玉座の猫が発した台詞は魔法猫の誇りをひどく傷つけるものである。ファルカの瞳が鋭くなり、玉座の猫をにらみみ付ける。 『誰が支配者であろうとも、毎日を幸せに過ごせるのなら彼らは何も文句を言いはしないのだ』  そうは思わないか?  玉座の猫は笑う。確かに否定はできないとファルカは認めるが、奥歯がぎりぎりと軋む。猫はファルカの表情を楽しそうに眺めていた、これ以上ないという悦楽の笑顔で。おそらくはその顔を見たいがために百年もの時間を待ったのだろう、その苦労が報われたと言わんばかりに手足を振り杖で玉座を何度もたたき、ファルカを笑う。  国を追い出された間抜けな王を。  そのことに気付かず百年を過ごした間抜けな民を。  玉座の猫は笑っているのだ。いや、こいつは魔法猫ではない。ファルカは確信している。自分より強い魔法の力を持っているからこそ、こいつは余裕をもってファルカと対峙しているのだ。 『王座を取り戻したくはないのかね、偉大なる猫の王様よ』  取り戻せるわけもないか。  一層大きな声で笑った時である。  悪趣味な装飾を施した扉が蝶つがいごと吹き飛んで、少年が現れた。その両脇に走る途中で力尽きてしまった兵士猫などを抱えており、背中や肩にもたくさんの魔法猫たちがしがみついている。十や二十ではない数の猫たちを運んできた少年だが、汗を流しているわけでもなく平然とした顔である。 「おまたせ」  何気なく、そして躊躇なく少年はファルカに声をかけた。玉座の猫も見ただろうに何の迷いもなく声をかけたこと、何よりも人間が現れたことに玉座の猫は驚き、つい先刻までの余裕を失った。 『いよう、少年』  ファルカは自分の中に溜まりつつあったどす黒いものが消えるのを確かに感じていた。    猫の裸婦像。  考える猫の像。  犬を駆り凱旋する猫将軍の像。  大理石を彫って作られたこれらの像が、生き物のように動き出す。気が遠くなるほど繊細な彫刻を施された三体の像は玉座の猫を守るように並び、短剣を抜いたファルカたちに牙と爪を向ける。また城の外に並んでいた彫像もまた動き出し、こちらに迫ってきている。少年が連れてきた数十匹の猫は『王様を守れ』とばかりにファルカを囲み、構えた槍や剣を彫像猫へとむけていた。  一人残された少年は城の中を見渡し、玉座の猫をちらと見た。容姿こそファルカに瓜二つの猫だが、まるで別物だと少年は感じた。連れてきた沢山の魔法猫たちも、今はどちらが本物なのかを理解している。 『人間の子供か』  一方で、値踏みするような視線で玉座の猫は少年を見ていた。樫の杖はなんの仕掛けもないし、着ているのは質素な麻の服だ。剣や弓矢を持っていれば危険だが、そのような武器も見当たらない。恐れるに足らないと判断した玉座の猫はダイヤの杖を少年へと向ける。 『良くぞ来られた、小さき人間よ。そしてさようなら、二度と会うこともないだろう』  ダイヤの杖を振れば、人の背丈ほどもあるそれらの彫像が一斉に少年に襲い掛かる。魔法猫よりはるかに大きいとはいえ、人間の子供を倒すことなど造作もないことだと玉座の猫は考えたのだ。魔法猫たちは『危ない!』と叫び魔法や武器を繰り出して少年を救おうとしたが、少年は樫の杖を横に振って魔法猫たちを制した。少年が観念したかと考えた玉座の猫は彫像猫に命じ、見せしめのために少年の身体を引き裂かせようとした。  が。  牙爪を少年に繰り出す寸前、彫像猫は足元を滑らせて勢いよく転倒した。顔が映るほど磨かれた大理石の床にはいつの間にか羊の乳がまかれており、大理石の彫像たちは踏ん張ることもできずに次々と転び、転倒した彫像猫に巻き込まれると連鎖的に砕けていく。魔法猫たちは足の肉球のおかげで滑る事もなく、半端に砕けた彫像猫を叩いて壊す。  唖然とするのは玉座の猫。戦力である彫像猫の大半が自滅したことの衝撃がよほど大きかったのか、ダイヤの杖を振ったままの姿勢で固まっている。 「あれが悪い奴だね?」  少年は玉座の猫を指差し、ファルカは『悪いというか抜けた奴というか』と言葉をにごす。ファルカの手には少年より受け取った革の水袋があり、そこに羊の乳が入っていた。コップ一杯分の羊乳が魔法の力でバケツ一杯分に増え、バケツ一杯分の羊乳が樽一つ分に増えて大理石の床にぶちまけられたのだ。 『同情を禁じえないのである』  うんうんとファルカが頷けば、羊乳は水袋に戻る。樽一杯分の羊乳は水袋に戻る頃にはコップ一杯分に減っていた。 『せめて銅像の類であれば転倒しても割れなかったであるがな』  大理石で華奢な彫像を造ると落としただけで直ぐに壊れてしまうのであるとファルカは呟き、その言葉で玉座の猫は我に返る。気付けば悪趣味極まりない大理石の彫像の数々は砕かれて、ただの石ころと化していた。見せしめに引き裂くはずの少年は、一歩も退いていない。大理石の粉が麻服を白く汚しはしたが、傷一つ負った様子はない。普通の人間ならば彫像が動くだけで驚き肝を潰すというのに、少年は眉一つ動かさない。 『人間よ、どうしてなのだ!』  玉座の猫は叫ぶ。 『なぜ驚かぬ。なぜ慄かぬ。貴様の眼前で動いていた大理石の彫像は、我が魔法の極み。人が目にしたこともないほど高度なものなのだぞ!』 「そうなのか」  すごいすごいと少年は手を叩く。少年にしてみれば彫像が動くことよりも、丁寧な細工を施された彫像そのものが関心の対象だった。悪意のない少年の応対だったが玉座の猫は自尊心を深く傷つけられ、身体が小刻みに震える。すると玉座の猫の耳が薄く広がり鼻が長く伸び、それとは反対に身体がだんだん小さくなっていく。 『貴様は私を愚弄するのだな』 「馬鹿になんてしないよ、ただファルカが見せてくれた魔法の方が凄いと思ったけどね」 『キキィッ!』  玉座の猫は甲高い声で叫び憤慨する。金色の瞳は小さくつぶらなものになり、尻尾は細長い鞭のようになった。変化はどんどん進み、広間にいた猫たちは言葉を失う。玉座の猫だけが、己の身体に何が起こっているのか気付いていない。 『私こそ猫の国の支配者であり、この国を百年にわたって統治してきた偉大な魔法使いだ』 「ファルカを追い出して、こっそり入れ替わって手に入れた王様の椅子だろう? それに」  やれやれと首を振り肩をすくめ、少年は鏡のように磨かれた大理石の床を樫の杖で軽く叩く。 「君は猫じゃない」  玉座に座る『もの』が短剣のように突き出した前歯をがちがちと鳴らして身を乗り出し、床に映った己の姿を知る。黒曜石のように艶のあった毛は薄汚れた灰色に変わり、その姿は猫のものとは大きくかけ離れたものになっていた。 『あれはネズミではないか』  ファルカの言葉通り、玉座より身を乗り出したそれはネズミと呼ぶほかない生き物と化していた。大きさはファルカの半分ほどもなく、怒りと恥辱で全身を震わせる。頭に載っていた金色の王冠がネズミの頭よりずり落ちて大理石の床に転がる。 「魔法ネズミとでも呼べばいいのかな」 『天才ネズミだ』  ネズミはダイヤモンドの杖を抱え込むようにして構え、少年をにらむ。少年を黒焦げにすべくまじないの言葉を唱えようとする天才ネズミだが、少年は「ちょっと待って」と言ってくる。緊迫感のかけらもない少年の言葉にネズミはいらだち『なんだ』と声を荒げた。 『私は貴様を焼き尽くす準備で忙しいのだ!』 「そう、じゃあ言い残すことはないんだね」  なにが言いたいのだ。  ネズミが持つダイヤの杖先に火の玉が生まれた瞬間。少年の背後より銀色の猛禽が飛び出してネズミを鉤爪で捕まえた。悲鳴さえ上げる間もなく、魔法猫たちの目の前でネズミは猛禽に飲み込まれる。それはあっという間の出来事だったので、魔法猫たちはなにが起こったのか理解できなかった。  少年は床に落ちた金色の王冠を拾い、傍らに立つファルカの頭に載せる。 「おかえりなさい、王様」 『ただいまなのである』  ファルカの言葉に猛禽が啼いて応え、ややあって国中で歓声が起こった。そして…… 【夜の終わり】  少年は草原の上に立っていた。  目の前には猫の王ファルカが、金色の王冠を頭に乗せている。周りには少年が預かる三百の羊が眠っており、焚き火は今も炎を上げていた。バチバチと焚き木の爆ぜる音が、それがまぎれもない現実のものだと自覚させる。 『時間であるな』  猫の王が空を指差せば、あれほどまぶしかった星の天蓋が解けて藍色の闇が訪れる。途端に草原にはたくさんの音が蘇り、少年はなぜか懐かしい気分になった。 『一夜の旅は、これでおしまいである』 「そうだね」  猫の王は口元に笑みを浮かべる。少年も同じ顔になった。 『見付かると良いな』 「え?」 『自分が行くべき場所である』  我は、しばらくの間は旅に出られそうにないからな。猫の王は笑う。旅にも少し飽きていたのだから、退屈な城の仕事も多少は楽しめるであろう、と。 『だから、少年。君にこれを預けるのである』  猫の王は腰のベルトに差していた短剣を鞘ごと引き抜いて、少年に差し出した。精緻な細工が施され白銀に輝く短剣は、人間が持って振り回すには小さすぎる代物だ。 『君がその旅を終えた時、我が国に持って来て欲しいのだ』 「何年先になるのかも分からないよ」  ひょっとしたら旅に出ることもなく一生を過ごすかもしれない。しかし猫の王は首を振った。 『その時は、我が君を旅に連れ出すので問題ないのである』  一人と一匹はしばし沈黙し、こらえられなくなって声を出して笑う。彼らはしばらく笑い転げていたので眠っていた羊の何頭かが目を覚まし、それを見た猫の王は『これはいかんのである』とマントをひるがえした。ふわりと風が起こり猫の王の身体は宙に浮き、タンポポの綿毛のように風に乗って飛んでいく。 『いずれまた、時の定めるところで逢おうぞ!』  猫の王は消えた。  羊たちは眠たげに啼くと牧童たる少年にすりよってくる。少年は手に持った短剣を内懐に収め、猫の王が消えた空をしばらく見つめていた。寄ってくる羊の顔を撫で眠るように諭すと彼は草原に背を預け、再び流れ始めた星の行く先をぼんやりとながめながら夜を明かした。  それから少しばかり後のこと。  このセップ島に、今までにない程たくさんの魔法猫が現れた。猫たちは物珍しそうに各地を訪れては『なるほど世界は広いのだな』と感心し、人々を驚かせることになる。  そしてこの物語がニコラス・ハワド最初の冒険として人々の間で語り継がれるようになるのは、これより数年後のことである。 <劇終> 「……だから、これが猫の王様から預かった短剣。これが猫の国の金貨。猫の国で貰ったお菓子もあるよ」  ニコラスは机の上に様々な戦利品を並べた。しかしその表情に余裕はない。机の向こう側では妖精の血を引く赤髪の娘が、額に青筋浮かべたまま笑顔を浮かべている。 「それで猫の国のみんなが、王様を連れて来てくれたお礼をしたいって言ってきて」 「で?」  半妖の娘は努めて冷静に、しかし容赦なく指摘した。 「それが、お礼なのね」  それ、という言葉と共にどれほどの感情が込められていたのかニコラスは考えたくはなかった。娘が指差す先には、淡いピンクのエプロンドレスを着た可憐な少女がニコラスの腕に抱きついて頬をすり寄せゴロゴロとのどを鳴らしている。 「猫の耳と尻尾がついているわね」 「あはははははは」 「なついているわね、すっかり」 「ははは、は……」  ニコラスが笑顔のまま凍りつく。 『にゃーん、お礼にたっぷりご奉仕しますにゃあん』 「ニーコーラースー!」  ああ、旅に出る前に命を落とすかもしれない。  薄れゆく意識の中でそんなことを考えたニコラスだった。めでたしめでたし。