『はじまりのけもの』  世界を創ったのは、恐るべき獣といわれている。  彼らの多くは空の彼方へと姿を消し、残る一匹が二人の魔女にその身を差し出して竜と妖精を生み出した。 「じゃあ、彼らはどんな姿をしていたの?」  子供の頃、ニコラスは義父にそう尋ねた。  樫の杖を担いでいた若い義父は、なるほどそれは良い質問だと感心し、しばらくの後にこう答えた。 「恐るべき獣を見たものは二人しかいないんだよ、ニコラス」 「……おかあさんと、サージェリカ?」  数日前、寝る前に聞かされた物語を思い出すニコラス。 「暁の魔女と宵の魔女だよ、ニコラス」 「だから、おかあさんとサージェリカなんでしょ?」 「うーん」  今ひとつ要領を得ないのか正鵠を射ているのか微妙なニコラスの言葉に、義父は「間違っているような、いないような」とその日中唸り続けていたという。  それは尋常なる獣ではなかった。  毛の一本に至るまで輝く金鉄で出来ており、その大きさたるや見上げるほどもある。よくよく見れば竜に似てなくもないが、捻じれた一本角が紅の輝きを帯び三対の翼を持つ生き物などニコラスは知らない。  獣は、遺跡の奥でうずくまっていた。傷を負っているわけでも、疲れているわけでもない。眠っているようにも見えたが、その瞳はじいっと、探索者ニコラスを見つめていた。 『やあ』  獣は、紅の瞳をニコラスに向けて言う。人の言葉を優雅に話す獣は、頭をニコラスの前に降ろし、まじまじとニコラスの姿を観察している。 『困り事のようだね』  ニコラスは、その腕に耳なが王女を抱えていた。傷口を塞ぎ包帯を巻きつけても失った血の量はあまりにも多く、生命を繋ぎ止めてはいたがそれはニコラス自身の生命を絶えず注がなければ途切れてしまいそうだった。  辺りには、砕けた歯車の異形たち。  一歩でも動けば、それだけで耳なが王女は今度こそ命を落とすだろう。ニコラスは獣を前にして動くことも出来ず、ただ己の身を盾にしようと獣を睨んだ。獣はその仕草に『ほうほう』と感心して何度も頷き、こう続けた。 『そのままでは、君が死ぬぞ?』 「そうだね」  短く、しかし納得してニコラスは答えた。事実、ニコラスは耳なが王女の命を救えるのならば喜んで死んでやろうという覚悟を抱いていたので、獣の言葉を素直に受け止めた。 「僕はとても困っている。僕には手段が残されているだけ救いがあるけど、余裕はない」 『理解できる事情だ』  獣は鉤爪をニコラスへと伸ばす。動くに動けないニコラスではなく、半死半生の耳なが王女に鉤爪を伸ばし、その爪先より紅く輝く血を滴らせて王女に飲ませた。  するとどうであろう。  王女の身体に圧倒的な精気が満ち、その傷が完全に塞がった。失血により青ざめていた肌も健康的な朱を帯び、体温が回復している。損傷していた内蔵も再生しているのが理解できる      信じられないことだが。 『理解できるゆえに、これをもって交渉の材料としたい』  耳なが王女の呼吸が安定し、眠っているのを確認するとニコラスは彼女を床に横たえて獣を見る。 「交渉ってのは、対等な立場で進めるものでしょ」 『それもそうか』  獣は人間のように苦笑し、一つのことをニコラスに命じた。 「……そういうわけで、僕は造物主の尻拭いをね」  街道筋にある小さな宿屋。  根気良くニコラスは説明を続けた。耳なが王女が命を落としかけたこと、それを救ってくれたのが「恐るべき獣」であること。獣は王女の命を救った代償に、一つの仕事をニコラスに命じたこと。 「長くかかるかもしれないし、早めに終わるかもしれない。でも『彼』は僕が仕事を遂行するように呪いを施したんだ……」  言いかけて、ニコラスは口元を押さえた。 「へーくちっ、くちっ」  可愛らしいくしゃみをするニコラス。初めて着用するスカートにより膝や腿が露出しているせいか、少し寒いらしい。体つきも随分華奢になり、何より胴がくびれ胸が膨らんでいる。心なしかまつげも長くなっているようだ。  姿も仕草も、可愛らしい少女のそれである。 「……」 「ねえ、聞いている?」  寝台の上で呆然としていた耳なが王女だが、妙に色っぽいニコラスの言葉に息を呑み、思わず呟いた。 「なんだか可愛らしいくしゃみだな、ニコラス」 「だ、大丈夫だから。うん、ははははは」  思わず胸元を隠すようにして照れるニコラス、耳なが王女は巻き込むようにしてニコラスをベッドに押し倒した。 「ちょ、ちょっとエリス……今の僕相手だと子供作れないよ?」 「理解している」  真顔で、とても真剣に耳なが王女は娘ニコラスを見つめた。出会った頃を思わせる華奢な雰囲気に、耳なが王女の理性は崩れそうになった。 「だったら、ほら。養生してよ、再生しても調子を戻すには時間がかかるよ」 「……他の男に貞操を奪われるくらいなら、いっそ私が!」 「ちょ、ちょっと待ってよ! その指とか手つきは洒落になら……」  覆いかぶさるように迫る耳なが王女の『攻撃』に。  危うく理性を失い貞操を奪われるところだったとニコラスは語っている。  その日、人形師フランツ・バルゼットは御機嫌だった。 「情報は確かだろうな」 『私の見立てに間違いがなければ、現在応接室で待っていらっしゃる女性は金髪碧眼で双剣を腰に差し、ややスレンダーながらもメリハリの利いた肢体の持ち主でございます』 「ほう」  語尾がオクターブ上がるのも構わずフランツは機械油に汚れた白衣を脱ぎ、とっておきのシャツに袖を通した。 『腰まで伸びた金髪を後ろに軽く結い、象牙より造った筒状の髪留めを用いております。衣服は活動を重視したもので、質の良い革服を重ね着ていらっしゃいました。歳は二十に手が届くかどうか、しかし童顔気味でありましたな。無駄な化粧を用いず素顔の美しさを引き立てております』 「ほうほう!」  靴下を換え、上等の香油を脇や胸元に塗り歓喜の声を上げる。後ろで控えていた半人半蛇のメイドが脱ぎ捨てた衣類を回収し、給仕服の人形達が掃除をする。フランツの機嫌が良いのでカエル執事はますます大きな声で、楽しげに続けた。 『お客様はフランツ様の大好物である砂糖椰子とクランベリーのプディングを丸ごと持っていらっしゃいました。都で名の知られている菓子職人が一日限定三個で販売しているという極めて希少価値の高い代物です』 「ほうほうほう!」  いよいよフランツは目を大きくし、まるでスキップするかのように増築したばかりの廊下を早足で歩く。その間もブラシで乱れた髪を整えて、椿油を塗ってこれが崩れないようにした。我が世の春よと口ずさみ、応接室の扉の前に立つ。 「それで、その御婦人の御名前は?」 『はい』  恭しく頭を垂れ扉を開けて、カエル執事はこう続けた。 『ニコ・ハワド様でございます!』 「や、久しぶり」  カエル執事の描写そのものの美女が、しかしどこをどう見てもニコラス・ハワドと認識することのできる美女が、やけに淡々とした表情で片手を挙げ挨拶した。 『いつぞやフランツ様が酔っ払いながら熱狂的に主張された、まさに理想の女性という条件をこれ以上ないほど満たされた素晴らしいお客様です! ささ、ここは私めが情熱的かつ官能的気分を増幅させる不可思議ダンスと音楽でお二人を盛り上げますので』  しっぽりと。  と続ける前にフランツはカエル執事を踏み潰した。  フランツは不機嫌そうにプディングを頬張った。  酸味と甘味のバランスが絶妙な焼き菓子は都でも人気の高い代物で、ついでに言えば一緒に食べているのは文句のつけようのない美人だった。  否、美人だけに腹立たしいのかもしれない。 (嗚呼、人はこういうときに殺意が芽生えるのだな)  世の中の諸々のことを恨みつつ、大好物のプディングを頬張る。とても不味い。 「他人の趣味に口出しするほど野暮ではないがな」  絞り出すように、ようやくそれだけの言葉を吐き出す。一語一句を口にする度に魂が脱け出てしまいそうだったがそれを何とかこらえてフランツはニコを見る。彼女(そう認識することさえフランツにとっては苦痛だった)は極めて普段通りであり、フランツが修理した人形達を見てはその技術の高さにしきりに頷き感心している。  フランツが言わんとするところを理解したニコは、己の身体をしげしげと眺める。 「趣味じゃないよ、呪いでこうなったんだ」 「順応してんじゃねえか!」 「するしかないだろう」  なんとなく可愛らしい仕草で頬を膨らませるニコ。思わず胸の動悸を感じてしまったフランツは、自己嫌悪のあまりプディングの味もわからなくなっていた。 「走るたびに乳が揺れて痛いし、生理は重いし、スカートだと股下すぐ冷えるし。外股で歩くと咎められるし、一人で酒場に行くと酔っ払いが助平面で声かけてくるんだよ。おまけに十日も風呂に入っていないようなヒゲ面の男が鼻の穴を膨らませて 『いよぅ姐さん、あんたの可愛らしい股ぐらにオレの……』」 「わーっ、わーっ、わーっ!」  知らなければ良かった諸々の事をストレートに聞いてしまった感のあるフランツは半ば懇願するように叫びながらニコの言葉を遮った。ニコはきょとんとして、 「学舎の頃は、もっとえげつない話で盛り上がっただろ?」 「時と場合と己の状況を考えろ!」  これが紳士淑女の集う舞踏会だったら卒倒する者が続出していただろう。ニコラスは「ふむ」としばし考えこう言った。 「僕の口からえげつない話を聞きたくなかったら、力を貸してくれないか?」 「ぐっ」 「そうそう、これは温泉町の女風呂で見聞きしたことなんだけどさ。貴族令嬢って身体の手入れにも随分細かい……」 「わぁーかった! 貴様の状況は理解したし、俺の力が役に立つことも納得した! 同行するし、助力もしよう! だからっ!」 「ありがとう。フランツなら必ず助けてくれると思ってたよ」  にこりと微笑むニコの顔に。 (こいつは男だ騙されるな、こいつは男だ騙されるな、こいつは男だ騙されるな、こいつは男だ騙されるな、こいつは男だ騙されるな、こいつは男だ騙されるな)  と胸中で繰り返すフランツだったという。  フランツが「恐るべき獣」に関する詳細な話を聞いたのはそれより半刻後のことで、そのとき彼が激しく後悔したことは言うまでもない。  異変に気付いたのは、ヨセフ・ハイマンが先だった。  それは殺気ではない。  闘志を示す気配も、さりとて獣が持つ本能的な衝動でもない。敵意かもしれないが、それにしては親しみを感じるものがあった。 (値踏みされているのかな)  そこは両脇を森に挟まれた街道で、せり出す樹木の枝が巨鳥の翼のようだった。風が吹き揺れる木の葉は羽毛のようで、葉が擦れる小さな音も無数に合わされば形容し難い音色を奏でている。 「迂闊には踏み込めないわね」  数歩進んで、妖精シュゼッタが足を止める。口調はぶっきらぼうだが「先に気付きやがって」という悔しさが眉間にしわを寄せた彼女の顔に滲み出ている。無論それはヨセフに背を向けているからできることであり、一呼吸の間に彼女の表情は普段どおりのむっつり顔に戻っていた。 (気配はどこ?) (……たぶん、街道に)  そうかと小さく呟くと、シュゼッタは「まじない言葉を唱えながら」息を短く吸った。 「冬の使者」  わずかな溜めの後シュゼッタがぼそりと呟けば、森を巡る風が冷気を帯び無数の木の葉を巻き込んで街道を吹き抜ける。周囲の森には一切の影響を及ぼさず、ただ街道の踏み固められた土だけを凍らせる。たとえ真冬であろうともここまでは凍らないだろう、確実なる死を導く冷気は一呼吸で消え失せたが凍った道はそのままだった。 「う、わあ」  ここ数ヶ月かかと落し以外使ったためしのないシュゼッタの、容赦のない魔法の力にヨセフは思わず感心して声をあげ、その声を背中越しに聞いたシュゼッタは口元をわずかに緩め「ふん、わたしの手にかかればこんなものよ」と髪をかき上げた。  が。 「あ、でも効いていないみたい」  の一言で動きを止め、信じられないような目で街道の先を見た。ヨセフの指差す先を見れば、宙に浮かび交差する白黒の双剣。凝視して、それを構える女剣士の姿が視界に飛び込んでくる。  金色の髪に碧の瞳。動きやすい革鎧を服に重ね、凛とした眼差しでヨセフとシュゼッタを見つめていた。 「……これが妖精の礼儀ですか?」  女剣士は白の石剣を道に突き立てた。凍っていた地面は、それだけで元に戻る。女剣士の身体や衣服には霜の一片すら付着してはいない。しかし突風は通過していたようで、それほど長くはない彼女のスカートは盛大にひるがえり太腿が露わになる。反射的にヨセフは息を呑みシュゼッタはヨセフの顔面に裏拳を叩き込み、だが女剣士の持つ双剣や容姿の特徴などを観察し、しばし唸る。 「ひょっとして」 「はい」 「君は……アレかしら?」 「まあ、アレです。今はナニがアレなんですが」  女剣士は肩をすくめ、石剣を腰帯に差す。事情を掴めぬヨセフは剣士とシュゼッタを交互に見て、とりあえず最悪の事態だけは回避できたのだと理解すると胸を撫で下ろした。 「ニコ・ハワドです、よろしく」  女剣士ニコは、自分より四つほど年下のヨセフの手を握る。細長く華奢でありながら無駄なく鍛えられたニコの手にヨセフは驚き、吹く風にニコの金髪が顔にかかって赤面する。 「よ、よよよよよよよろしくお願いしますニコさん。でも、本当に驚きました」 「隠れててごめんね」 「いえ、そうじゃなくて」  シュゼッタとは別種の美女であるニコに「なあに?」と見つめられ体温が確実に上昇するのを感じつつ、ヨセフは慎重に言葉を選んだ。 「俺が知っている、白黒双剣の使い手は……その、ニコラス・ハワドって名前の男性だから」 「間違ってないわよヨセフ」  のぼせ上がっていたヨセフの背後で冷ややかなるシュゼッタの声。「へ」と間抜けな声を発するヨセフに、ニコはゆっくり何度も頷いた。 「先週まで、僕は間違いなく男だったもの」 「う、わあ」  と叫ぶしかないヨセフだった。  街道の先にある宿場町、宿屋も兼ねた一軒の飯屋に彼らはいた。  大きな樫のテーブルには耳なが王女エリスと人形師フランツが先に座っており、ヨセフと一緒に陰鬱な表情で口から魂を漏らしつつ何事かを口走っている。ひとりシュゼッタだけがニコの身に起こった事象と彼女達がなすべき事柄について高い関心を示していた。 「なるほど、伝え聞く『恐るべき獣』の啓示ね」 「正しく言えば、命令です」  それに僕は既に報酬を頂いてしまったので、ただ働きですし。  ニコが苦笑すると耳なが王女は「…あぅ」と呻く。 「しかし」笑いを噛み殺すシュゼッタ「命令を遂行するための呪いとはいえ、慣れない女体では色々苦労しない?」 「んー、でも人材をスカウトする時は便利でした。とても」 「なぁるほど」  胸を押さえてうずくまっているフランツとヨセフに憐れみの視線で一瞥し、やれやれ男というのはこういうのにも弱いのかとシュゼッタは漏らした。 「鯖になっても挫けなかった奴が、女になった程度でうろたえる筈もないか」  と。  それは手の平ほどの、小さな石板だった。  黒曜石に似た素質のそれは完全な状態ではなく、断片である。表面には文字と思しき精緻な記号が刻まれているが、顔を近付けなければそれと気付くことのできないほど非常に細かいものだった。 「これを届けるのが、仕事です」  これと言われ、彼らは一様に顔をしかめた。 「どこへ?」  耳なが王女の問いは至極もっともだったので、フランツもシュゼッタもヨセフまでもがそろって頷いた。 「そもそも、これは何なのだ」 「預かり物です」  至極真面目にニコは返す。 「ひょっとして」 「はい」 「……まさか」 「うん」  石板を木綿の布に包み、懐に収めるニコ。 「届けるようにって預かったはいいんですけどね」  細かいこと聞く前に姿を消しちゃって。  あははははー。  可愛らしく笑うニコラスを見て、四人は「駄目じゃんそれ」と突っ込まずにはいられなかった。  世界が現在の形を得る前の話である。  天地を結ぶ巨樹を植えた「恐るべき獣」は、世界を管理する二人の魔女にこう言った。 『樹は世界を結ぶものであり、世界そのものである』  今では知りようもない事情によりその地を去らねばならなかった「恐るべき獣」は、世界を完全に支配するための律を二人の魔女に伝えようとした。世界を創造せし獣の力を自由に引き出し、世界のあり方を自在に作り変えるための律を獣は用意したという。  しかし。 『だからどうした、このすっとこどっこい』  宵の魔女はあっさり「恐るべき獣」を成敗し、暁の魔女と共にその骸より竜と妖精を生み出した。よって「恐るべき獣」が持つ世界支配の律は何処かに失われてしまった。 「……と、ここには書いてある」  人形師フランツは壁画に刻まれた古代の文字を解読した。  そこは廃棄された地下都市の深奥で、魔法学舎の人間がその存在自体を知らぬ遺跡だった。 (多分)  確証はない。  人形の修繕等に関しては絶大な自信と実績を持つフランツだが、古文書の解読や過去に存在したとされる文化への理解は、ニコラスより数段劣る。人形を修繕していく過程で自然と古文書等に慣れ親しむようにはなったが、積極的に遺跡を巡り発掘を続け発見したり封印しているニコラスほどの業績はない。 (確実な解読を行うなら、ニコラス本人がやるのが一番だ)  なんとなく悔しいが、それが現実だ。  今まで一人で幾つもの遺跡を発見し、信じられないような出来事に巻き込まれてきたのが探索者ニコラスだ。かつてニコラスが発見した遺跡の財宝を狙い、学舎の重鎮が暗殺者を雇ったことさえある。 (……あいつは何故、私に声をかけたのだ)  何か大切なことを見落としているのかもしれない。  壁画を見つめ、フランツは黙考した。  地下都市は、何人たりとも寄せぬ聖域ではなかった。 「尾行されていたというのもあるだろう」  耳なが王女は使い慣れた弓より弦を外し、魔法の矢筒を片付ける。一呼吸で十の矢を次々と放つ強弓は襲撃者達の眉間を正確に貫き、幸薄き最初の敵が剣の間合いに届くまでに百の兵を撃ち抜いた。その敵でさえヨセフの剣戟を受けて胴体を両断され、怯む数十人の集団はシュゼッタが唱える魔法に飲み込まれる。  百数十名の兵士。  それをわずか三名が滅ぼした。兵を統率する将は退く時を誤った事、敵対する者の力を軽んじたこと、その三人に対して戦争の常識が通じないことを死の直前に理解した。  将を含め襲撃者の多くは純白の外套に金糸の刺繍を施し、金銀で飾った長柄の槍で武装していた。セップ島ではあまり見かけることのない衣装なのでヨセフは首を傾げるが、耳なが王女は眉を寄せ将の亡骸を睨む。 「太陽神の崇拝者だな」  死体の衣服を剥ぎ取ったシュゼッタがぼそりと呟いた。人間至上主義を唱え、多種族が住まうセップ島では危険思想として見なされることが多い。彼らは公然と半妖排斥を唱え、碧国の有力者たる耳なが王女を敵視する。旅人である妖精シュゼッタも何か嫌な思い出があったのだろう、太陽神の紋章を襲撃者の衣服に見出すと露骨に不機嫌そうな表情を浮かべる。 「シュゼッタ、心当たりある?」 「あっても教えない」  奥歯に毒まで仕込んで襲ってきた狂信者を不気味に思いつつ問うヨセフに、シュゼッタは冷たく返す。 (どちらにせよ、あまり好ましくない展開だ)  シュゼッタは虚空を睨み、奥歯を噛み締めた。  耳なが王女は考えていた。 (ニコラスは、あの石板が何であるのかを理解している)  知らなければ、この遺跡に来ようとはしないだろう。「恐るべき獣」の言い伝えが壁画に残るこの地下都市を選んだのだ。それはおそらく正しい認識である。 「だがな、ニコ」 「どうしたの? 妙に改まっちゃって」  女剣士ニコは、耳なが王女を心配そうに見る。 「この地下都市へ我々を連れてきた理由は何だ、ニコラス」 「それは……『恐るべき獣』の情報があるから」 「他にも遺跡はあるだろう。何故、ここなのだ?」  それはとても真剣な眼差しだったので、ニコラスは返事をするまで数秒の時間を要した。 「話すと、とても長いよ。どうして僕がこの遺跡を探したのか」 「そうか」  短く言葉を切る耳なが王女。彼女は沈黙し、崩れかけた石壁の一つを指差した。ブロック状に切り出した石を組み合わせて作った石壁には、刃か何かで刻んだのであろう簡素な紋章が彫り込まれていた。 「羊と、双剣?」 「探索した遺跡にお前が好んで刻む紋章だ」  その言葉に。  女剣士ニコは笑顔のまま動きを止める。耳なが王女は大きく息を吐き、額に手を当てた。 「貴様はニコラスではない」  それだけがわかっただけでも収穫としよう。  たとえ竜であろうと射竦めるほどの視線と声を、耳なが王女は発したという。  その使者は、魔法猫の城で偉そうにふんぞり返った。 「卑小にして小賢しくも知恵と力を蓄えし猫の王よ、わが神の下僕として奉仕する名誉を貴様たちの一族に授けてやろうではないか」 『ていっ』  玉座で胡散臭そうに人間の口上を聞いていた魔法猫ファルカは、宝石のついた杖を使者の側頭部に叩き込んだ。攻撃されることを全く予測していなかった使者は高笑いしたまま昏倒し、側に控えていた衛兵猫たちが無言でそれを運んでいく。 『大臣猫、これで何度目であるか』 『今年に入って既に二十四度』  長毛の猫がずり落ちた眼鏡を上げながら、短い黒毛のファルカに申し上げる。 『転移の魔法をもって侵入しておりますな』 『異界者はかくも不躾者ばかりであるか』 『さて』  猫王のぼやきを聞かなかったふりをして大臣猫は咳払いを一つ。質素ながらも趣味の良い城では仔猫たちが遊んでいたり、社会見学と称して女教師猫に引率されて騒いでいる。まったく厳粛なはずの城は賑やかであり、ファルカが使者を蹴倒した時など仔猫たちは拍手喝さいでこれを観賞していたほどだ。 『同様の誘いが川ネズミの集落や、沖合いの鯖共にもあったそうです』 『愚かな』 『左様で』  おそらく無事には済まなかったであろう太陽神の使者達が迎えたであろう末路を想像し、ファルカは狭い額をポリポリと引っかく。立派な冠は王様の証だが、ファルカはそれを面倒に感じていた。  その時だ。 『王様』  城の扉を開けて、旅装束の三毛猫が駆けてきた。おそらく長い間旅を続けていたのだろう、海産物の干物を鞄に詰め込めるだけ詰め込んで、しかしそんな荷物など大したものではないと胸に一振りの短剣を抱いて三毛猫はやってきた。  それは白銀に輝く美しい短剣だった。  大臣猫は『あれは』と息を呑み、ファルカは玉座より飛び出し三毛猫が抱える短剣を凝視した。三毛猫は偉大なる猫の王を前に緊張していたが、それ以上の使命感を持っているのだろう決意を秘めた目で王を見ると短剣を差し出した。 『ニコラス殿より言葉を預かっております』  ファルカは無言で頷きその先を待つ。 『深き森の奥にて出会った彼は私に短剣を託し、こう申されました。 「太陽の神が、獣の律を奪おうとしている。今しばらくは旅を続けられないので、友の証をお返しする」  と』  直後、彼は太陽神の使徒に襲われ、私はこうして帰還した次第であります。  三毛猫より短剣を受け取るとファルカは三毛猫の両肩をがっしりと叩き『良くぞ報せてくれた、礼を言うぞ』と力のこもった声を発し、続いて大臣猫を見た。 『止めても無駄である』  真紅のマントを旅装束に王冠を山高帽に変え、猫の王ファルカは言う。しかし大臣猫は背筋を伸ばし、こう返した。 『偉大なる王よ、あなたはこう宣言する義務があります。 「猫の国の住民よ、我と共に戦え。かつて猫の国を救った男を、今度は我らが助けるのだ。我らは誇り高き魔法猫である」と。  さすれば我らは喜んで魔杖を掲げ、ニコラス様の下へ共に馳せ参じましょう』  大臣猫の言葉に、控えていた家臣や兵士が一様に頷いた。  女剣士ニコは、限りなくニコラスその人だった。  髪の色、瞳の色。基本的な容姿の造作。所持する知識。嗜好。戦闘技能、それに装備。ニコラスを良く知るはずの耳なが王女でさえ、そう考えていた。 「お前はニコラスではない」  耳なが王女の言葉は、地下都市に響き渡る。それほど離れていなかったフランツやヨセフは驚き、シュゼッタは「ふむ」と唸る。 「だが、敵ではない」 「……はい」  ニコが微笑む。 「それだけは信じてください」  直後。  百数十名分の骸が突如として粘液状に融け、一つの姿になる。原形質の水溜りは幾度も形を変え、一呼吸の間に再び形を得た。地下都市の天蓋にさえ達しようかという巨大なる肉人形がそこに現れ、建物を崩しつつニコに襲い掛かる。 「ニコラスは、無事なのか?」  魔杖を構え肉人形に立ち向かうフランツの問い。ニコは「わかりません」と言葉を濁すが、 「連中が襲ってくるということは、ニコラスもこの世界も未だ無事だということです」  と、続けた。それを聞くやヨセフは剣を抜き、他の面々も肉人形に武器を構える。 「これを打ち滅ぼせば事情を伝えましょう」  ニコの言葉を合図に、彼らは肉人形に戦いを挑んだ。  かつて神は力なき娘だった。  太陽の化身たる娘は、生まれたばかりの人間という種を抱え世界を彷徨うだけの存在だった。娘は種が絶えないよう己の全てをかけてこれを守り、人もまた太陽の娘を愛した。少しずつ増えていく人は娘の力となり、娘は少しずつそれを蓄えた。  神は考えた。  自分は弱い存在だ。だが、人が増えれば少しずつ力が強くなる。百人より千人、万人より億人。命尽きた人の想いさえ己の力となるから、娘は多くの人を増やそうとした。人ならざるものが邪魔になれば、それを退けた。それを押し通すだけの力が娘にはあり、人々も娘の願いを聞き届けた。  山が邪魔になれば、山を切り崩し。  魚が欲しければ、海を底よりすくい上げ。  いつしか大地には人以外の何者もなく、空は崩れ全てが破滅しようとしていた。 (私は何を間違ったのだろう)  神たる娘は考えた。  考えて、直ぐにそれが無駄であると考えた。神たるものの力をもってすれば壊れかけた世界を元通りにすることも不可能ではなかったが、自らが愛しもしない者のために力を使うことなど愚かしいと思ったのだ。 (大丈夫、次の世界はとても丈夫)  娘は空を越えて、新しい世界を見つけていた。  そこは美しくも恐ろしい獣が作り上げ、二人の魔女が守る世界だった。娘は新しき世界に人を導き、新しい国を作った。神たる娘と人々は、この新しい世界もまた彼女達のためにあると考え、人という種を守護する女神はこの地でも受け入れられるに違いないと思っていた。  故に。  太陽の女神がこの地においても絶対であろうと、彼らは努力した。努力して、それが如何に困難な作業であるのかを理解した。  理解したが、納得はしなかった。  仕方がないので彼らはこの世界で絶対的な力を手に入れようとした。それこそが自分たちと世界にとって幸福だと信じていたからだ。  人間は、死ねば肉の塊になる。  腐れば、骨になる。  焼けば、燐を含む灰が一握り残るだけだ。  今までそう信じていた。耳なが王女も、フランツも。シュゼッタも、ヨセフもだ。肉を得た命というのはそういうものだから、それに応じて医術や武術が組み立てられている。たとえ尋常ならざる力により動き出す死人の類でも、焼き尽くせば骨になり灰と化す。言うなればそれは世界のゆるぎなき律だった。  それが。 「手短に話します」  女剣士ニコは、巨大なる肉人形が突き出した拳をわずか三本の指で受け止めていた。厳密に言えば百数十人分の骸が寄り集まった肉人形の繰り出す攻撃の全てが、ニコが突き出した三本の指によって防がれていた。  それどころか、ニコが三本の指を鉤爪のようにして繰り出せば肉人形は簡単に引っくり返る。 「ニコラス殿は石板を預かったのです」 「それ、手短すぎ」  そもそも石板ってのは何だよと問われ、ニコは己の懐に納めていた漆黒の断片を取り出す。そこに刻まれていた無数の紋様は今や蒼い輝きを帯び、ニコの身体に吸い込まれると彼女の金髪や碧眼を暗黒色に染める。尋常ならざる事態にシュゼッタは息を呑み、続けて起こったことを見て言葉を失った。  ニコが触れた肉人形の部位が変化したのだ。  石化の類ではない。石化ならば、肉に『地』の精を過剰に注ぎ込む魔法のそれとして理解することが出来るし、石化の魔法は既に試した。九割方が石になった時点で肉人形は爆発的に膨れ上がり、再生したのだ。斬った時も焼いた時も、肉人形は瞬時に再生した。  だが、目の前で起こったことは何であろう。  肉人形を構成するおびただしい量の腐肉が瞬時にして青黒い塩の塊へと相を変え、そのまま崩れ落ちてしまう     おそらく人並の心を宿していたら、この肉人形は発狂していたに違いない。その光景を傍観するだけの耳なが王女達でさえ、心を平静に保つことに必死だったのだから。  わずか数秒。  それだけの時間で巨大なる肉人形は塩となり、地下都市に降り積もる土埃と混じってしまう。再生することはない。元素の属性を注ぐのではなく、物のあり方そのものを根本より造り替えてしまう力。そんなものは彼女達が知る限りセップ島には存在しない。  やがて訪れた静寂を破るかのように、ニコは手を叩く。 「再構成」  呪文ではない呟き。それと共に土埃に混ざった塩が盛り上がり、今度は塩から肉へと急速に再生を果たす。ただしそれは腐肉の肉人形ではなく、耳なが王女達を襲撃してきた太陽神の崇拝者達としてだ。身体に一切の怪我はないが、彼らは意識を失いひどく疲労した状態で倒れている。おそらく槍を持つどころか立ち上がる体力も持ち合わせていないに違いない。 「尋常なる技では、ない」  慄然として耳なが王女は言葉を漏らした。  ただ死人を蘇らせたのではない。  およそ理解することさえ拒みたくなるような、おぞましき力により人の形を失い肉人形と成り果て、その上で塩と化した者を文字通り再構築したのだ。それも百数十人が一時に。  たとえ魔法の奥義を究めた者とて、生命操作は容易な業ではない。まして呪文を唱えたわけでもなく、触媒も用いず、霊薬も無い状況下でこれと同じことを真似できる者がいるとは思えない。都にて人ならざるものに祈りを捧げる僧侶や、元素を司る精霊の司祭とて同じだ。  人である限り、否、たとえ竜の眷属であろうとも果たして再現が可能だろうか。  それがわかるから、術法に通じる耳なが王女は慄然とした。フランツも、それを理解しているから言葉が出ない。 「……ニコさんが海水浴に出かけたら大変なことになりそうだね」 「それはとても同感だけど、今ここで言うことじゃないと思うんだ。わたしは」  魔法に詳しくないヨセフの感想に、頷きつつもかかと落しを食らわせるシュゼッタがいた。  その日、紅国の農夫はいつものように陸稲の手入れをしていた。  実りは例年並の    つまるところ豊作が期待される出来合いで、この調子ならば酒米として小人達に卸す量も増やせそうだった。まったく小人というのは実に器用なもので、焼き菓子だろうが醸造酒だろうがとびきり上等のものを作るのだ。 (この分なら、週明けにも刈り入れかね)  頭を垂れる稲穂を穏やかな目で眺める農夫。すると道の向こうより、金色の鎧兜に身を固めた立派な兵士達が山吹色に輝く稲穂の海をかき分けるようにして進む。それは、まるで舞台劇の一幕のようだった。 「おお、これはこれは」  長く生きるものだと思いながら農夫は兵士達を見送った。兵士達は立派な兜や盾に太陽の紋章を記しており、誰もが理想に燃えた輝く瞳を持っている。  兵士を統率する将が農夫の前に立ち、農夫に綺麗な金貨を数枚与えてこう言った。 「稲穂が渡るべき道を、鋼が無理強いして通る。許されよ」  わずかに会釈して言うものだから、農夫は慌てて首を振る。 「道は生きる者の肉を運び、死せる魂を運び、流れる時に標を与えるものです」 「ならば農夫よ、道は太陽の輝きも通る事を知ってほしい」  髭をたくわえた将は兵の列に戻る。  さて、しばらくしてのこと。  畑仕事を終えた農夫が茜色の空をぼんやりと眺めていると、丘の向こうよりボロボロになった兵士たちが逃げていくのが見えた。輝く鎧兜や盾は無残にも打ち砕かれ、あるいは正視に堪えない愉快な落書きで原形をとどめず、面白い髪型になって泣き叫び悪態をつきながら逃げていく兵士達は農夫の存在などまるで無視して、走り去っていった。その様子に驚きつつ何事が起こっているのかと眼を丸くしていると、兵士達がやってきた丘の向こうからにゃあにゃあ賑やかな声が聞こえてくるではないか。 「……猫?」 『その通りであーる!』  農夫の背後で声がする。  驚いて振り返れば、立派なマントを着て山高帽をかぶった魔法猫が立っていた。猫は見事な魚の干物を一束農夫に渡し、頭を下げた。 『無粋なことで道を汚す、許されよ』 「無茶はやめておくれよ?」 『世界を救うには、多少の無茶も必要である』  が、そんなものは身勝手な理屈であるな。  魔法猫はすまないと詫び、猫の刻印が施された金貨を数枚農夫に渡した。その頃には、魔法の杖を掲げ立派な武器を持った数千の魔法猫と魔物、それに色とりどりの竜たちが一軍となって道を進んでいた。  それはまさに地獄絵図というか、巡回牧師たちが唱える終末論の世界そのものだった。  しかしながら。  太陽の兵を追う彼らは勇ましくも、どこか滑稽な軍隊だったと農夫は述べている。 「人の王よ、これは人にとって悪い話ではない」  使者は王を前に、慎重に言葉を選んだ。  碧国を束ねる王は、太陽神の使者を名乗る男を前に先刻より黙ったままであり、耳を傾けているのかどうかさえ定かではない。使者と家臣は、それぞれ立場と主義を異にしながらも共に王の顔を見るより他が無かった。 「太陽の女神が絶対者となれば、人の国は栄えましょう。これ以上無いほどの繁栄と究極的な平和を約束します」  それは本心だったので使者は熱弁を振るう。人の国を味方につけることは太陽神にとって不可欠のことであり、崇拝者にとって仲間が増えるのはこの上ない喜びだった。 「この国にとって損はない筈です。人にあらざるものが跋扈し、畑を荒らし民を襲う現状を憂い嘆く気持ちがあるのならば      我らの同志ではありませんか」 「……貴殿は道草を食ったことがあるかね」 「はあ?」 「道端に生える、名もなき草だよ」  碧国王が面白そうに言うので太陽神の使者は呆気にとられ、家臣は「おお」と応じる。何の意図が隠されているのか訝しげる使者は家臣に視線を向けるが、家臣もまた使者がいかなる答えを返すのか興味を抱いている様子だった。 「道草で、ありますか」  何と答えればよいのだろう。  使者は逡巡し、しかしこれ以外のものはないという考えに至り胸を張って宣言した。 「我ら神の従僕は、滋養満ち甘美なる果実を神より賜ります。道端の草など食う必要も、その意味もありません。王も神の愛を受け入れれば至上の美味に魂を震わせることができましょう」  これしかない。  使者は完璧な解答を出したと確信した。見ていた家臣は「ほう」と声を上げ、高い関心を示す。 「では食ったことが無いと」 「至上の美味を知ってしまえば、他の物など食す気も起こりませんな」  なるほどそれは正論かもしれないと王も頷く。 「飽きの来ない味かね」 「それはもう、比類なき美味であります」 「たったひとつの味で、君たちは満足できるのか」  王の問いに家臣たちは息を呑む。太陽神の使者は「決して飽きない味ですぞ」と弁明する。 「万人が毎日飽きずに味わえる代物でありますぞ」 「私が知る限り、飽きずに済むものといえば水と空気くらいだな」  神の信者は霞でも食って生きているのかねと穏やかに問えば、信者は言葉に詰まる。 「一つだけの神、一つだけの教え、一つだけの美味」  とてもつまらない話だ。  王は神の使者を城より叩き出し、このときより太陽神の崇拝を禁じるようになった。     それは不完全な代物だった。  完全に及ばぬ出来ではなく、そもそも明確に欠けたるものが存在している代物だった。ひとつひとつの形はどれとして均一ではなく、それどころか厚みさえ異なっていた。唯一それが同種のものと判断できるのは、限りなく純粋な、まるで夜の闇を凝集したような石で造られていたからだ。 『これを汝に託す』  数え切れぬほどの断片を並べ、限りなく美しく果てしなく恐ろしい獣は言った。 『壊してもいい。己のものとしても構わない。断片は汝に無限の智と力を与え、その使い方を理解すれば汝は我らと同等の存在となる』  そして汝は使い方を理解しているだろう。  囁くように、諭すように。  獣は言った。 『では後を任せたぞ』 「まてやナマモノ」  恐るべき獣は立ち去ろうとするが、ニコラス・ハワドはその尾をむんずと掴んで片手で振り回す。竜ほどもある獣の巨体はあっさりと宙を舞い床に何度も叩きつけられ、獣は悲鳴を上げた。 『こ、こらっ。仮にも造物主に連なる一族に対して失礼であるぞ!』 「やかましい」  抗議を上げる獣を一言で黙らせるニコラス。 「アレを放置すると大事に至ることを、僕は知っているぞ」  獣は息を呑み、視線を逸らせる。 『……我には何のことかさっぱりだな』 「誰がアレを狙っているのかも、最後の一片がある場所も、僕は知っている」  獣は驚き、ニコラスを見た。獣は『では持って来てくれ』と言うが、ニコラスは首を振る。 「僕が取りに行く間に、あんた逃げそうだし」 『当然だ』  あっさり獣が白状するのでニコラスは懐より「ファスナー」を一つ取り出して獣の背に貼り付け、それを一気に引き下ろした。  するとどうであろう。  金鉄で覆われた獣の背が割れ、そこからニコラスに良く似た少女が現れる。抜け革はしゅるしゅると縮んで金鉄の革服と成り、短いスカートやブーツなども現れる。 「……な」  己の身に起こったことを今ひとつ理解できなかった獣の少女は、白く細い手で己の身体をぺたぺたと触り、硬直する。ニコラスは笑顔で手鏡を見せ、少女は初めて全てを把握した。 「なんじゃァ、こらァあああっ!?」 「全部終わったら元に戻すから、それまで助力よろしく」  紹介状や手筈などを考えつつ、ニコラスは有無を言わせなかったという。  その朝、魔法学舎は騒然としていた。 「わーっ、魔法猫の大群がぁぁぁぁぁっ!」 「おわぁぁぁぁぁぁぁ、全身武装の竜族がぁぁぁぁぁぁぁっ!」 「ぃいやあぁぁぁぁぁっ、赤裸々な秘密を握った魔物の軍団がぁっ!」  夜明けと共に人知を超えた種族が集い、魔法学舎を占拠していた。人間の魔法使いたちが何事かと事情を知ろうとし、あるいはこれはまたとない好機であると魔物に契約の成立を求めようとするが、彼らはそれを無視した。望めば日没を待つまでもなく学舎を壊滅し都を滅ぼせるだろうに、彼らは誰も傷つけず、しかし何も言わず学舎の前庭に集まっていた。  その数、実に数万。  ほとんどが魔法猫とはいえ、猫の魔法は人のそれを超越している。百に満たない竜族は未だ大人になっていない若者ばかりだったが、それでも一国を一瞬で灰燼に帰すことができるだろう。学舎にとって理解できる戦力は一千に及ぶ魔物の軍団だったが、その戦力を理解しているからこそ学舎の人間は絶望的になった。  いずれも人間には制御不能の力である。 「彼らは何のために?」  都の民は、英知を誇る学舎の者がそんなことさえ答えられないことに驚いた。逃げるべきか、それとも留まっていいのか。それさえ回答できない学舎の導師たちは笑いものになった。日が西に傾くまでの短い時間に、学舎は百年以上をかけて築いた威信と魔法使いとしての評価を共に失った。  やがて西の空が茜色に染まる頃。  旅装束の男女が、白い衣を着た娘と共に学舎にやってきた。娘が雷皇女サージェリカその人だったので市民は歓声を上げ、旅装束の男が出奔した王子ランドールだと気付いた警備兵や学舎の導師たちは騒然とする。 『やあ』  魔法猫の先頭に立っていたファルカが、王子ランドールに声をかける。ランドールは外套を脱ぎ、魔法猫や魔物そして竜族の順に集った者たちを見た。 「待たせました」  王子ランドールは彼らに深々と頭を下げる。 『なに、それほどの苦ではない』  竜の若者が淡々と返す。 『各地で敗走した神軍は兵力を結集し、遺跡都市にて最後の一戦に全てを賭ける模様です』  狐面を胸に掲げた魔物の女が頷き、我らもまた其処へ赴くつもりですと続けた。短い会話だったものの、そこにただならぬものを感じた学舎の導師たちは王子ランドールの前に立ち、一体何が起こっているのかと、まるで餓鬼のように外聞など気にもせずに尋ねた。  王子は仲間たる異形の衆を見る。彼らは黙し、王子の判断に委ねた。 「強いて言えば、そう」  慎重に言葉を選び、かつて紅国の王位を有していた青年は苦笑した。 「……痴女ですね、諸悪の根源は」  その言葉が出た途端。  魔法猫や魔物はもちろん竜族までもが腹を抱えて笑い、意味のわからぬ導師たちはますます困惑したという。 「で、僕はニコラス殿の指示に従い各方面に太陽神の行動を警告する書簡を届け、最後の断片を捜索すべく皆さんに」  手伝っていただこうとニコラスさんの姿を真似て接触を。  そこまで言いかけて女剣士ニコは周囲の事態に気がついた。  人形師フランツは鼻血を噴いて倒れ、剣士ヨセフは呆気に取られ、妖精シュゼッタは血の涙流しながら「あんた婚約者の教育少しは考えなさいよッ、造物主の一族にあんな真似してどーすんのよっ!?」と錯乱し、耳なが王女は「はうあうあうあうあうあうあうっ」と謎の言葉を口走っている。そういえばニコラスが「できれば正体を気取られない方が好ましい」と言っていたのを思い出し、そういうことかとニコは納得する。 「まあ僕も造物主の使い走りで動いている身ですから」  とは言うもののフランツは意識を失っているしヨセフは呆然としているしシュゼッタと耳なが王女はあーでもないこーでもないとうろたえているので、ニコの話に耳を傾ける者は誰もいなかった。正確に言えば縛り上げた太陽神崇拝者たちがいるのだが、彼らは相変わらず意識を失ったままである。 「……細かいことは皆さんに聞くようにって、ニコラス殿に頼まれていたんですけど」  ああ、こりゃしばらくは駄目かもしれない。  恐るべき獣の眷属たる女剣士ニコは溜息を吐き、では一人でも探しますかと地下都市の中を彷徨った。  その戦いについて、紅国を出奔した王子ランドールが語ったとされる言葉が歴史書の中に記されている。 「あれを戦争と呼ぶことは出来なかった。  その場に居合わせたもの。魔法猫も、魔物も、竜族も、そしてそれ以外の全てが同じ気持ちを抱いているだろう。  太陽神の崇拝者達は士気高く、また見知らぬ道具で武装した彼らは隠し持っていた戦力に絶大な自信を持っていた。なるほど、彼らには『爆発と共に鋼の矢を撃ち出す石弓』や『炎の息を吐き出す長槍』がある。もしも彼らが私の祖国を攻めていれば、おそらく陥落することはなかったものの甚大なる被害を受けていたに違いない。  だが彼らは喧嘩を売る相手を間違えた。  険しい山の頂、そこに建てられ打ち棄てられた遺跡都市を要塞としたのは、彼らの理屈では正しい選択だったのかもしれない。もし祖国の将軍がこれを見れば、十人余の兵さえ横並びにさせることも難しい山道の険しさに舌打ちし、攻城の投石砲さえ届かない分厚く高い城壁に絶望感を抱いたのかもしれない。  繰り返して言おう。  彼らは喧嘩を売る相手を間違えたのだ。  音の速さで撃ち出される鋼の矢も、肉を焦がす炎の息も、前線に立つ竜の鱗を傷つけることは出来なかった。空間を越えて現れる魔物にとって、分厚い城壁など何の意味もなかった。人ならば十名も並べぬ細い道も、魔法猫ならば数十匹がずらりと並び、彼らは我らの想像を絶する大魔法を組み立てる事が出来た。  鋼を沸騰させる竜の吐息を。  魔物たちの超常的な法術と武術を。  魔法猫たちの愉快にして凄絶なる魔法を。  太陽神の崇拝者達は嫌というほど思い知っただろう。なにしろ数十年前、この地に現れ全てを飲み込もうとした異形の神々を討ち滅ぼした力だ。剣や長槍では百年かけても突き崩せぬ城壁も、それらの力を前にしては弾指の間ほども保ち堪えられなかった。  彼ら、つまり異界より来たという神の崇拝者達は恐慌状態に陥った。十万を越えるという彼らの結束……彼らが主張するところによれば『信仰心』は数日間保った。  わずか数日間である。  篭城を主張したという将軍が先ず同胞を裏切って我らに内通し、間もなく彼らが立て篭もる遺跡都市で大規模な粛清と内部分裂が起こっているのを確認した。我らが牙爪を突き立てるまでもなく彼らは組織としての機能を喪失し、我らの力を恐れるあまり保身を求め太陽神への信仰を棄てた。信仰のため故郷たる世界を滅ぼしたという彼らが、あっさりと、今度は神を棄てたのだ。  我らは呆れた。  棄てられた神に同情もした。  しかしながら……我らが彼らを赦す理由など、微塵たりとも存在しなかった」 「常識的に考えれば、あそこだろうな」  我に返った人形師フランツは地下都市の中央を指差した。走っても数分要するような道の先、石英を多く含む岩の天蓋を支えるかのように、至極太く立派な塔がそこにあった。 「魔女や獣を信仰する人間は、例外なく塔を建てる」  彼らの主張を信じるならば、塔こそは巨大なる樹であり、世界を結ぶ御柱なのだという。故に彼らは何処であろうと塔を建て、獣や魔女を祀る。 「造物主の遺産なら、さぞや拝み甲斐があっただろうな」  皮肉を込めてフランツが呟くと、意識を失い縛られていたはずの兵士達が全員立ち上がる。おそらく関節を外したか小刀でも隠し持っていたのだろうか、彼らは腰に手を当て高笑いをする。 「情報提供感謝する、愚鈍なる異教徒よ! 断片は我らが神の力となろう!」  わーははははははは。  将軍は笑い、百数十名の兵士が遺跡都市の大通りを駆けて行く。その勢いたるや先刻まで肉塊だったとはとても思えないほど俊敏であり、耳なが王女たちは呆気に取られて彼らの動きに反応できなかった。 「追いかけないと、拙いですかね」 「放置して良いと思うね」  動き出そうとしたニコをフランツが止める。どうして、とばかりシュゼッタやヨセフが不思議そうに見るが彼は肩をすくめてこう言った。 「ここはニコラスが探索した遺跡だからな」  その直後。  都市の大通りを駆ける兵士達の頭に金だらいが落下した。  きっかり人数分。いずれも脳天を、寸分狂わず全く同時に直撃したのである。  ごわわぁあああん。  音は一つである。  水を湛えた金だらいは立派な凶器だ。多くの兵士はそのまま首を折り、それを免れた者も例外なく転倒した。がらんがらんと石畳に金だらいが転がり、その様子にフランツを除く四名が、唖然とする。 「なんなのよ、あれ」 「見た通りのものだろうな」  なんとか言葉を発したシュゼッタに、しみじみとフランツは頷く。 「……こんな、屈辱をッ」  ずぶ濡れになり立ち上がった将軍は足下に転がる金だらいを掴み、憤怒の形相で石畳に叩きつける。  刹那。  百数十個の金だらいが爆発した。  地下都市の基盤に影響を与えず、しかし冗談のように大きな爆発が兵士達を飲み込んだ。爆風が止み黒煙が晴れた時、百数十名の兵士達は一人残らず煤だらけになって倒れていた。炎に飲み込まれたのではなく、音と衝撃で意識を失っているようだ。 「ああいう奴なんだよ、ニコラスは」  苦虫を噛み潰したようなフランツの表情がやけに印象的だったと。  剣士ヨセフは後に語っている。  そこは空に限りなく近い都市だった。  白と黒の石で覆われた都市は、セップ島ではあまり見られない様式で造られていた。精緻なる彫刻、天文に通じているからこそ意図的に配置したであろう石の獣たちが都市の至るところに存在している。  星を識る魔法猫たちがこれを見れば、 『ほほう』  と感嘆の声を発するに違いない。魔法猫だけでなく古の文明に興味を抱く者ならば、この都市がどれほどの意味を持っているのか驚愕すると共に理解できるだろう。  その中心にニコラス・ハワドはいた。  都市の中心には青空に向かって伸びる白亜の塔があり、正面の階段に彼は腰を下ろしていた。いつものように麻織の旅装束を身につけて、羊飼いが持つような樫の杖を傍らに置いている。今は白黒の石剣もなく、その代わりにニコラスは無数の石片を組み立てている。  それら漆黒の石片は、造物主の遺産と呼ばれる代物である。わずか一片であっても手にすれば世界の律を歪め、己の思うがままに世界を変える力を秘めている。その石片を無数に所有しているニコラスは、客観的に評価するならば限りなく絶対者に近しい位置にあった。しかも彼は石片の使い方を理解しており、望みさえすれば恐るべき獣の一族ですら従わせることも不可能ではない。  が。  ニコラスは実につまらなさそうに石片を組み立てていた。無数の石片は形とて一定ではなく表面に刻まれた紋様も様々である、それらに刻まれた紋様には一つ一つ特別な意味が存在していることをニコラスは理解していたが、それが果たしてどれほどの情報量を持っているかを考えて彼は気が遠くなっていた。 (造物主は、ここに世界の律すべてを刻み記したのか)  ニコラスが知っている律だけでも数限りない。  そこに、未だ人の知りえない律が刻まれているとしたら? すべての律を理解し、それを支配することがいかなる意味を持っているのかを考えてニコラスは大きく息を吐き、動かしていた手を止めた。  それは一個の球だった。  石片を、それ自身が望む形へと導き組み立てたところ、ニコラスやニコが予想していたような石板ではなく漆黒の球がそこには在った。小振りの西瓜のような、両手でつかめるほどの石球。女剣士ニコが回収したという最後の断片も入っており、完全なる球体は石畳より僅かに浮いてゆっくりと回転を始める。 『これがあれば、絶対者になれるのか?』  いつの間にか。  ニコラスの前に一人の少女が立っていた。その髪は燃え盛る炎であり、黄金に輝いている。純白の衣装は輝く髪に負けぬほど美しい。彼女が異界より来た女神アポロダインなのだろうと、ニコラスは即座に理解したが表情は変わらなかった。 『わたしは絶対者にならねばならんのだ』 「どうして」 『わたしが誰よりも偉大な存在になれば、ヒトは滅びの運命を回避できるのだ』  少女はニコラスの問いに、さも当たり前のように返す。ニコラスは天を仰ぎ、しばし後に下を見る。 『わたしは闇を払い、ヒトの心に光を与えたいのだ』  ニコラスは黙考する。  それを肯定の意と判断した少女は歩み寄り、石球を持ち上げた。直後、石球は少女に吸い込まれ、少女の瞳と髪が漆黒に変わる。世界を構成する律の全てが、女神たる少女に吸い込まれていくのをニコラスはただ見つめていた。  少女の変化は、心臓が十度動く間に完了した。  羽化した蝶の如く両手を少しずつ広げ、握る拳に力を込め少女は厳かな口調で告げる。 『わたしは、光の絶対神!』 「さて」  感情を込めずニコラスは疑問を呈した。  少女は、否、女神アポロダインはニコラスを凝視した。  絶対者となった彼女に対して疑問を持つことがどれほどの罪悪なのか、彼は理解していないのだろうか? 今や彼女こそ世界の秩序であり、彼女の意思で世界の律は自由に変わる。そのことを人間の中で最も理解しているのが、このニコラスという青年ではなかったか。 「何故だと思いますか」  心を見透かすように、空の一点を眺めつつニコラスは言う。 『考える必要もない』  そうだ。  自分は絶対者なのだ。少女はそう考え、この無礼な青年を世界より消してしまおうと力を行使した。光の絶対神たる自分は、反逆者を裁かねばならない……それは彼女が以前棄てた世界でも行っていたことだった。指先より光の矢を放てば人間の身体は肉片さえ残さず蒸発してしまうだろう。  ところが。  指先からは、蛍ほどの光さえ出なかった。少女は驚き、何かの間違いと考え再び光の矢を出そうとした。三度四度と繰り返し、光の矢だけでなく自身が扱う様々な奇跡を起こそうとして     すべてが失敗に終わった。石板の力を行使しようとしても、何も起こらない。 『何故だっ』 「何故だと思います?」  先刻と同じ問いをニコラスは繰り返し、少女は息を呑んだ。 『貴様は偽の石板をわたしに与えたのか?』 「あなたが僕の話も聞かず勝手に取り込んだのでしょう」  おかしい話ですよねと苦笑すれば『屁理屈を!』と少女は吠える。 『貴様は人類救済の機会を己の手で握りつぶしたのだぞ、光の絶対的救済を貴様は!』 「遺産はね、間違いなく本物なんです」  ニコラスは指を鳴らした。  直後、少女の足下より無数の影が八方に伸びる。それらは闇でありながら輝いており、少女の動きとは無関係に蠢いていた。 「始まりの獣は、世界の律をすべて石板に封じ込めていたんです」 『すべて?』 「ええ。あなたの大好きな光も、大嫌いな闇も一緒に」  ニコラスは微笑み、足下の影は宙に伸びて少女の四肢に巻きつく。 「太陽神としての資質を、あなたは自分の手で棄てたんです」  少女の身体が少しずつ、足下の影に飲み込まれ沈んでいく。ニコラスの言葉に少女は愕然とするが、それでも懸命に逃れようともがいている。 『な、ならば石板の力を行使できないのは何故なのだっ』 「ああ、それは」  腰まで影に沈む少女の前に、ニコラスは白と黒の石剣を突き立てた。その刀身に刻まれた紋様は造物主の遺産と瓜二つで、石球にはなかった蒼い輝きを発している。 「たかが一介の『端末』ごときが『本体』を差し置いて好き勝手出来る訳がないでしょう?」 『!』  かつて女神だった少女は生まれて初めての絶望を味わい、美貌を引きつらせたまま影の中に飲み込まれて消えた。後は不気味なほどの静寂が残るばかりである。 『哀れな話だ』  石剣が唸る。 『ほとぼりが冷めたら、信者もろとも北国にでも放り出せば良いのだな?』 「お任せします」 『それにしても』 「はい」  一呼吸の間を置いて石剣は続けた。 『望めばお前さんが世界の支配者になれるだろうに』 「羊飼うのに、そんなもの必要ありませんから」  素っ気なく答えるとニコラスは大きく息を吐いた。  太陽神の謀が潰えたと知り、竜族がまず故郷に帰った。  王子ランドールの一行も再び旅に出た。  魔物たちはいつものように姿を消したが、狐面の女が未練がましく残ろうとしていたので魔物たちは少しばかり苦労していたようだ。 『これを再び預けておくのである』  魔法猫の王ファルカは白銀の短剣をニコラスに託し、自らの国に戻った。数千の魔法猫たちはニコラスに様々な土産物を押し付け、あるいは署名などをねだったりしながらもファルカの後を追い猫の国に帰還した。  人形の修理が途中だったのだと、フランツは一足先に姿を消していた。ニコより報酬を受け取っていたシュゼッタたちも今はいない。そのニコも「恐るべき獣」としての本性を取り戻し、今はいない。 「それで、何があったのさ?」 「さて」  同業者の問いに、ニコラスは首を傾げるのだった。  それからしばらくの間、耳なが王女がにやけたり幸せそうに惚けたりする姿が各所で目撃されるのだが。それはまた別の話である。