『満たされし日々』  空は青く、海より吹く風は心地良いものだった。  海原より照り返す夏の日差しは眩しくて、洗濯物も良く乾きそうだった。 (乾いてくれないと、困る)  大きな籐篭いっぱいに洗い終えた衣服を詰め込んで、エリスは唸った。籐篭に負けないくらい彼女のお腹も膨らんでいたが、それは慣れているので問題ない。エリスの横を、やはり衣類を詰め込んだ籐篭を抱えた少年少女が歩いていく。銅色の髪に、少し尖った耳。少年少女はエリスを心配そうに見つめている。 「ママ、大丈夫?」「こっちのかごも、僕たちで運ぶよ」  ママと言われて、エリスは何故か嬉しくなって少年少女       自分のお腹を痛めて産んだ子供をぎゅっと抱きしめた。子供達は母親の行為に驚いたが、負けずに強く抱きついてくる。 「……ねえ、今度の赤ちゃんは男の子だといいね」  少年が、エリスのお腹に手を当てながら呟く。少女は少年の頭を軽く叩き、馬鹿ね次も女の子に決まっているじゃないと笑った。 「だって、ずーっと妹ばかりじゃないか。僕は弟が欲しいよ」 「じゃあ女の子だったらどうするのよ」  少女は少し泣きそうな顔で詰め寄る。少年は腕を組んで唸ったが、 「妹が増えるのは嬉しいよ。でも妹が増えすぎると、僕とパパはますます肩身が狭くなっちゃうじゃないか」  少年が言うと、少女とエリスは声を上げて笑った。 「そんなに肩身が狭いなら、パパと一緒に羊を追えばいいじゃない」 「嫌だよ、パパって僕に喧嘩の仕方とか教えようとするんだもの」  僕は野蛮なのは嫌いなんだよと少年が恥ずかしそうに言い、エリスの抱えていた籐篭を受け取って歩いていく。まだ十歳になったばかりだが、大人顔負けの力があるようだ。 (あの子が一番、父親似かな)  そう考えると、何故かおかしくてエリスはくすくすと笑った。そういえば自分が求婚した時の彼は、丁度あの子くらいの歳だったか。こうして子を産み育てるようになってわかることだが、自分は大それた事をしたものだとエリスは苦笑する。  ひょっとしたら、もうガールフレンドがいるのかもしれない。 (妹君や、狐面の娘あたりには気をつけねばな)  永遠の時を生きる女性達は、きっとこの子が成人するのを待っているに違いない。あるいは既に何らかの手を打っているのだろうか。 (もっとも双子の妹にも勝てない坊やだから、杞憂かもしれないな)  成人する前に、せめて剣の使い方くらいは教えておいた方がいいのかもしれない。以前彼はこの子を楽師にしたいと言っていたが、優しすぎるこの子には旅の楽師は辛いかもしれないとエリスは考えた。もっとも普段兄を苛めている妹が、その実兄べったりで離れようともしないのを見ると、家に留めておくのも危険かもしれないと考える。 (ああ、これが母親というものか)  自分を産んだ女性は、忌み者を見るかのように自分を扱った。  乳母は優しかったが、大きな戦で命を落とした。  父と兄弟は、古き妖精の血を得た自分を戦場に招き、その力で人々を導こうとした。自分は己の血を肯定するため、そして乳母の仇を討つために戦った。いつしか国は大きくなり、自分は耳なが王女と呼ばれるまでになった。古き妖精の血を引く耳なが王女。貴く、しかし子を残せるとは考えていなかった。  それが。 (毎年最低一人で。ええと、これが十年目か)  何という生命の力か。  かつて古き妖精たちは己の血を残せずに滅びたと、彼は言った。今も深き森に住まう数少ない妖精の生き残りは、望んでも子を得られぬ身体を嘆き暮らしている。種としての限界を迎えていた妖精の血だから自分には子を産めないかもと覚悟さえしていた。  それが。 (犬や猫ではないというのに、まったく……)  笑みがこぼれる。  生活は決して楽ではない。王宮での暮らしなど夢のようだ。だが、今の暮らしこそ窮屈な王宮時代に夢見ていたものだ。喧嘩もする。こういう暮らしに疲れることもある、それを否定することは出来ない。彼は、相変わらず厄介事に巻き込まれることもある。  だが永遠の生を共に過ごそうと誓ってくれた男は、後にも先にも彼しかいない。  いつか子供達に、彼と過ごした旅の日々を語って聞かせよう。  お前達の父母は世界中を歩き回ったのだと。  誰も見た事のない世界を旅したのだと。 「どうしたの、ママ?」 「本当に……そんな日が来ればいいものだな」 「ママ?」  横を歩いていた少女が立ち止まる。 「お腹、痛いの?」 「痛いのは私の胸だ」  エリスは己の腹に手を当てた。先刻まで膨らんでいたそれは、今では跡形もない。草原も、海原も、青空も、全てが霞のように消えて闇に溶ける。少女は引きつった顔で半歩退き、いやいやと首を振る。 「ママ、お願いよ……お願いだから」 「私も願いたい」  目を閉じるエリス。  少女も消えた。  何もかも消えてしまった世界で、ひとりエリスは涙を流した。  どこか遠くから声が聞こえた。  全身が痛い。それでいて力も入らない。途切れそうになる意識の狭間を縫うように、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。  何度も、呼んでいる。  泣きながら、自分の身体を揺さぶるように誰かが叫んでいる。肉の焦げる臭いと、土埃の臭い。エリスが重い瞼を開いてみれば、わずかに歪む視界の向こうに青年がいた。  彼は泣いていた。  おそるべき獣達の王を前にしても眉一つ動かさず、異界より来たという神に対峙しても一歩も退かなかった彼が。  泣いている。  舞い上がる土埃に涙が混ざって、顔は泥だらけだ。出逢ってから彼のこんな表情を初めて見たエリスは、彼がどうして泣いているのかわからなかった。 「……ねえ、あの訳分からない歯車の化け物は」 「とっくの昔にぶち壊したよっ」  涙声で青年は叫ぶ。今更のようにエリスが手を動かせば、全身に包帯や薬草が巻きつけられているのが分かる。それだけではない。癒しの力が全身を包んでいるのが分かる。 「よかった、生きててくれて」  心の底から安堵の息を吐き、青年は涙と泥でぐしゃぐしゃになった笑顔を見せた。魔法を使えないはずの若者が果たしてどのような奇跡を起こしたのかエリスには分からない、だが青年が何かをしたという確信がある。 「本当に、良かった」 「ねえ……ニコラス」  泥だらけの頬を手で拭う青年。 「私のために泣いてくれたのか?」 「う、うん」 「わたしの事が愛しいから、泣いてくれたんだよな? 喪いたくないから、泣いてくれたんだよな?」 「……うん」  逡巡の後、少し我に返った青年は小さく頷いた。 「じゃあ今すぐ結婚しよう」 「……」  さすがに青年は沈黙した。 「せめて子作り」 「あー、その」 「バンバン産むぞ、私は。喧嘩することもあるけど、きっと仲の良い家族になれると思うのだ」  死にかけているというのに、妙に力強く拳を握りエリスは微笑んだ。