『灰色の朝』  杖がある。  節の多い樫の材の端に玉を埋め、金鉄の装飾を施した杖だ。牧童が持つ真っ直ぐな杖と違ってところどころの太さが異なり、玉を埋めた辺りでは銀杏葉のように材が広がり金鉄の装飾が埋め込まれている。杖の表面は丁寧に磨かれ金鉄の表面にはまじない言葉が刻まれており、琥珀を煮溶かしたニスが塗られたそれは芸術品としても価値の高い代物だった。  杖がある。  それを持つのは十代後半の青年だった。その青年は右手で杖を持ち左手を杖先の宝玉に添え、意識を集中させている。魔法使いにとって杖とは魔法の力を顕現するための道具であり、まじない言葉を魔法の力に換えるための触媒である。 「えいやっ」  まじない言葉を唱えて杖を掲げ、青年は意識を解き放った。短い掛け声と共に杖の宝玉はわずかに輝き、金鉄に刻まれた文字に光が滲む。その様子を青年は息を呑み、額に汗を流しつつ見守った。杖先に宿った爪先ほどの光は一気に膨らんで一抱えほどある光球となり、その光球は膨らんだ時よりも勢いよく弾けて消えた。  シャボン玉のように。  杖先には既に輝き無く、それを持つ青年の額より滝のように汗が流れている。その一部始終を観察していた者、すなわち魔法学舎の導師達の額にもまた汗と     それに青筋が浮かんでいた。 「まじない言葉の構文は完璧、発音にも問題なし」  初老の女性導師が引きつった笑顔で言った。 「精神集中については学舎生徒の中でもトップクラスでしょうな」  禿頭の導師が沈痛な面持ちで続いた。残る導師数名は言葉もなく唖然としながら、青年と共に杖の先端を凝視していた。  どうして?  彼らはそう言いたげであった。魔法を使うための手順に問題はない。魔法を使うための力は間違いなくあるというのに、青年の持つ杖の先からは彼らが望むものは何も出てこない。  沈黙が、ただ気まずいばかりの沈黙が生じる。  苦笑いを浮かべたり、何故こんなことになってしまったのか頭を抱えたり、これはこれでいかなる現象が起こっているのかと感心していたり。導師達の反応は様々で、それはそれで個性的だった。青年はというとしばし己の杖を見ていたが、やがて薄暗い部屋の一番奥に座っている男に視線を移した。周囲の導師より立派な衣服に身を包んだ男はため息を吐き、できるだけ平静であろうと無駄な努力を試みた後にこう告げた。 「……実技試験は失格だ、ニコラス・ハワド」 「はい」  ニコラスは短く答え、頷いた。 「これで4年連続、君は実技試験に失敗したことになる。たとえ筆記で高い成績を示しても、一切の魔法を使えないのであれば意味はない」 「はい」 「君が無価値な人間だとは思わない」  ただ、魔法使いとしての適正に欠ける事は否めない。  男の言葉にニコラスはやや間をおいて「はい」と答えた。 「魔法学舎の規定に従い、君を放校処分とする。48時間以内に事務手続きを済ませなさい」 「わかりました」  はっきりとした口調でニコラスは言い、杖を壁に立てかけた。その表情に変化は無く、しかし導師達の同情めいた視線には気付かぬふりをしてニコラスは頭を下げると退室した。    灰色の雲たちこめる、朝の出来事だった。  終わってみれば実にあっけないものだった。  空になった下宿の部屋、寂寞としたその中央でニコラスはしばし立ったまま呆けていた。退学のための手続きも全て済ませ、世話になった人への挨拶も一通り終えている。  こんなものか。  悔しいとか悲しいとか、そういう気持ちがもっとあるとばかり思っていた。十四歳の時に故郷より連れ出され、それから四年間を過ごしたのだ。出会った友もいる。別れた友もいる。故郷の村では体験できなかった様々のことがあった。生々しい人の生と死を目の当たりにして、それでも決して動じない己の心に気付きもした。  こんなものなのだろう。  ニコラスは納得した。自分は最初から最後まで、魔法使いではなかったのだ。古い書物を解読しても、遺跡を探索しているときも、数多の魔物を従えたときでさえ魔法使いとしての自覚に欠けていた。 「とほほ」  納得はしたが、それでもがっくりと肩を落とす。  理屈ではない。心が動いたわけでもない。自覚症状の乏しい己の言動にニコラスは逆に驚き、我ながら情けないと嘆いた。その気持ちを振り払うように首を振り、床に置いた黒革のナップザック、つまり唯一の荷物を手に取る。そのときには気持ちの切り替えは済み、もはや立ち止まることも振り返ることもなく下宿を出た。  都はいつも通りだった。  日が完全に昇るまでまだ少しの時間があり、空の半分を覆う灰色の雲のため普段よりも通りは薄暗い。下宿のある市場の辺りでは、家鴨や子豚を捌く血の匂いが大鍋の湯気に混じって漂っている。毎朝のように錬金術師の弟子達が新鮮な臓物を求めて市場を駆け回り、酔い潰れた男達が道の脇に転がっていた。  あと半刻も経てば最初のパンが焼き上がる。  そうすれば朝市にあわせて都の門が開き、門の外で一夜を過ごした旅人や、これから旅立とうとする者が近場の食堂に駆け込むのだ。噴水のある公園まで足を伸ばせば、散歩中の老人や簡単な運動で汗を流す若者もいるだろう。  いつものようにニコラスは都の通りを歩いている。旅に出ることの多いニコラスはいつものように食堂に入り、いつものように簡単な食事を済ませようとした。馴染みのウェイトレスが「今度はどの遺跡を探すのさ?」と声をかけるので、ニコラスは茹でた芋を頬張りながら 「学舎を辞めたから里帰りする」  と答える。ごく普通の受け答えだったのでウェイトレスは「ああ、そう」と軽く流して店内を忙しく動き回り、数分経ってから物凄い形相で駆け寄るとニコラスの胸倉を勢い良く掴み上げた。 「何よそれ、あたし聞いていないわよ!」 「言ってないもの」  口の中の芋を飲み込んで、答えるニコラス。周りの客、特に常連客でもある遺跡探索者や傭兵たちはなにごとが起こったのかと驚いた様子である。 「店の親父さんには昨晩のうちに挨拶済ませたし」 「あたしには!」 「いま済ませた」  あっさり答える。ニコラスより少しばかり年下の、黒髪のウェイトレスは拳を震わせ顔を近づけた。 「あたしの副業どーしてくれるのよ!」 「そう言われても困る」  副業で情報屋を営むウェイトレスの都合など、ニコラスの知った話ではない。定食を平らげたニコラスは、血管浮き出るほど掴んだウェイトレスの手をあっさり解いて席を立ち、馴染みの客に「またね」と手を振る。 「またな」  彼らは飯を食ったまま手を振り返し、ニコラスは数枚のコインをテーブルに置いて店を出る。 「待ちなさいよ、せめて今後の予定だけでもー!」 「ていっ」  追いかけようとするウェイトレスに、八方より食器が飛んでくる。職業柄慌ててそれらを受け取るウェイトレス、その隙にニコラスは通りに飛び出して姿を消した。  草原の真ん中に、細い切り株が一つあった。  辺りの草は既に刈り取られていたので、その切り株は遠くから見ても目立っていた。ニコラス・ハワドは切り株の前に立ち、その先にある小さな村を眺めている。  彼の故郷だ。  数年経っても変わらない。いや、その景色はニコラスが物心つく頃から何も変わりはしない。春夏秋冬の移ろいはあっても、それだけだ……なにごとも変わりやすい都とは、時間の流れから違うのかもしれない。何故か救われた気分になって、安堵の息を吐く。 「何も変わらないな、山も……」  川もと言いかけて。  ニコラスの表情が強張った。見れば村の辺りは変わりないものの、その周辺地形が驚くほど変化している。山はえぐれ、地は裂け、岩は熔けてガラス状になっていた。人力でこれほどの事をなそうと思えば果たしてどれほどの労力が求められるのか、想像するだに頭が痛くなる。 「山も川も、変わってしまったな」  あはははと乾いた笑い声を上げ、帰って来なきゃ良かったと呟いた。 「まさか、あのオテンバ」  ニコラスは嘆き、腰に手を当てて叫ぶ。 「サージェリカ!」  草原を渡り、山にこだまするニコラスの声。  一分が経過した。  まず土煙が上がり、金色に輝く三百頭の羊が現れる。羊達は突進に等しい勢いでニコラスに向かって駆けつけて、停止もせずにそのままニコラスの胸に飛び込んでくる。一頭一頭の突撃は山鬼どころか竜さえ無事では済まないが、ニコラスはよろめくこともなく笑いながら羊達の頭を撫でたり叩いたりしている。  更に一分が経過した。  草原を這うように、一人の少女が現れた。紫の髪を後ろに結い、赤子を背負った少女だ。身につけた衣装はニコラスが着ているものに良く似ているが、あちこち踏まれたり焼かれた跡があり、手足が痙攣している。十より少しばかり年上といった印象の少女はいろんな意味で疲れ切っており、対照的に少女の背にしがみついた赤子は元気一杯だった。 「……サージェリカ、さん?」 『きゅう』  予想しなかった義妹の状況にニコラスは戸惑い、周囲の羊達を見る。 「なにがあったんだ」  めえええ。  羊達はサージェリカの背でわきゃわきゃ騒いでいる赤子を向いて啼く。赤子の髪は濃い藍色で、歯はまだ完全に生え揃っていない。赤子が着ているのはかつて自分も袖を通したことのある代物だったし、なによりも赤子には義父母の面影がある。サージェリカと違って父親似だとニコラスは感じ、とりあえず力尽きたらしい義妹の背中より赤子を抱き上げた。 「はじめまして、僕はニコラスっていうんだ」  赤子は嬉しそうに声を上げ、サージェリカの代わりにニコラスにしがみつく。ニコラスは空いた左手で、草原に倒れ伏したままの義妹の肩を揺さぶった。 「なあサージェリカ、この子を僕にも紹介しておくれ」 『ううう……その子は私とニコラスの、愛の結しょ      』  容赦のないかかとの一撃がサージェリカの後頭部を踏みつける。 「せっかくヒトの言葉上手になったのに、笑えない冗談しか吐けないのはお兄ちゃん悲しいゾ?」 『うううううう、半年前に生まれた弟です』 「僕はなにも聞いていないが」 『言ってしまったら既成事実に使えないです!』 「踏め」  めええええええええ。  ニコラスの言葉に三百頭の金毛羊はサージェリカを次々と踏み潰していくのだった。  ニコラスは再び羊を追い始めた。  羊を飼うのは好きだ。  草原で時間を過ごすのも、嫌いではない。時間の流れ方、時の過ごし方を取り戻すのに戸惑いはしたが、それも最初の数日だけだった。空を見上げ雲や星の動きを追い、鳥や獣の声に耳を傾け、風と水の流れを感じ取る。 『うううう、あたしはもぉ駄目っす』  サージェリカは力尽きていた。かつてニコラスがそうだったように、父母は生まれてきた赤子の世話をサージェリカに任せたのだ。 『あたしが赤ちゃんの頃は、すっっっっっっっっっっっごくおとなしくて可愛らしかったのに。このガキってば泣くし騒ぐし髪引っ張るし』 「自分の弟をガキ呼ばわりするな」  育児ノイローゼに陥りかけていたサージェリカを蹴倒し、新しい弟の世話も手伝うようになった。エリクと名づけられた男の子は生まれたときから人の姿で、ニコラスの主観のみで判断するならば義妹よりもよほど育児が楽だった。  なにしろプラズマの息を吐かない。空も飛ばない。山犬も山鬼も食べない。家畜に手を出さない。義兄を三時のおやつと誤解して噛み付くこともしない。 「おまえ、よくこの姉さんに育てられて無事だったなあ」 「だぁ」 「そうか。父さん似だもんな」 『あああああああああ、さっぱり二人の会話が理解できないですっ』  羊や鳥、果ては人語を解さぬ竜とさえ意思の疎通が可能なニコラスである。赤子と話をするなど朝飯前であり、エリクはほんの数日でサージェリカよりもニコラスに懐く始末だ。姉として、それ以上に女性として何か重大な部分を否定されてしまった気がするサージェリカだが、彼女としては弟にニコラスを奪われたにも等しい状況の方が問題だった。自然、ニコラスは弟妹の面倒を共に見ることとなり、それを見た村人達はこれ幸いにと牧童達を押し付けて「羊の飼い方を教えてやっておくれ」と頼み込む。  そうして最初の三ヶ月が過ぎた。  ニコラス・ハワドが故郷に帰還してから半年が経過した。  何事もなく。  羊を追って草原を駆け、時に野の獣を蹴散らし、そうやって毎日を過ごしていた。大きな事件を起こすでもなく、また巻き込まれるわけでもなく、平々凡々なる村人としてささやかではあるものの幸せに暮らしていた。  それだけに。 「貴様、何を企んでいる」  確かに、そう考える者がいても不思議ではなかった。  たとえ魔物の軍勢に誘拐されようと、その状況を逆手にとるのがニコラスである。たかだか魔法学舎を放校されたところで、半年も故郷の牧村に留まる理由などどこにもない。少なくとも都でのニコラスを知る者の多くは、彼が半年も故郷に留まっていることを知って驚き、あるいは怒り、うろたえ、混乱している。 「もう一度問う、貴様は何をたくらんでこの地に留まっている」  その客はニコラス本人の意思を聞く前に断言し、問答無用とばかりに刃を突きつけた。そこは草原の真ん中で、ニコラスは焚き火を起こし薬茶を煮込んでいた。金毛の羊達はのんびりと草を食みながら、若者の様子を見守っている。  血気盛んで直情的な若者は良く磨かれた両刃の直刀を引き抜いて、その切先をニコラスの鼻先数センチにまで突きつけている。それほど使い込まれていない革の胸当てとブーツを身につけて、若者は叫ぶ。 「答えろ、ニコラス・ハワド!」  若者の周囲には、やはりただの旅装束ではない姿格好の数名が立っている。明らかに彼らは過剰武装で、まっとうな旅人ではなかった。ニコラスは溜息を吐くわけでもなく煮出した薬茶を素焼きの器に注いで口に含み、眼前の刃など気付かぬかのようにそれを飲み干す。 「ここから南に半日、海に出た先の島に奇妙な建物があるんだ」  囁くように、ニコラスはぼそりと言った。若者も、その仲間も息を呑み耳を傾ける。 「この半年、暇をみては調べて廻ったんだけど」 「ど?」  身を乗り出す若者。 「その先を知りたければ直接行って見るといい」 「お、おお」 「建物の中身には手をつけていないし、金目の物もあるかもね」 「おお!」  若者たちは目を輝かせ、南に向かって走っていく。もはやニコラスのことなどどうでもいいように、一目散に駆け出していく。金毛の羊はめえええと啼き、ニコラスは二杯目の薬茶を飲み干した。  十数分後。  草原の南方より悲鳴が聞こえてきた。若者の怒号、金属を打ち合わせる音が草原に響く。山犬と山鬼たちの唸り声がそれに続き、唸り声の数は一呼吸ごとに増える。若者達の叫びは悲鳴に変わり、絶叫となる。  音を遮る木も山もなく、彼らの叫びは八方に響き渡り、そして沈黙が訪れた。ニコラスは茶を煮込む鍋を片付け、側にいた羊の数頭の頭を軽く叩くと南を指差した。 「散らしてきておくれ」  と言えば、羊はめええと頷いて南方に突進する。百頭の羊がこれに続き、一分も経たぬ内に山鬼たちの悲鳴が今度は聞こえてくる。もっとも南方の草原で何事が起こっているのか大した興味があるわけでなく、ニコラスは焚き火を始末しつつこう漏らした。 「そろそろかな」  もっとも、彼の呟きを耳にした者はいない。  ただ金毛の羊がめえええと答えるのみである。  草の茂る丘に、大きな岩があった。  空の蒼、草の緑に挟まれて目立つ灰色の巨岩は数里離れていてもよく目立つ。村で生まれ育った牧童達はその岩を目印に羊を放ち、そして追いかけていた。  が。  ニコラスが知る限り、その岩は数年前、少なくとも彼が学舎に招かれた時まで存在しない岩だった。 「なんで誰も怪しまななかったのだろう」  と問おうとして、その言葉を飲み込んだ。  この牧村では常識外れの出来事が数多く起こっているし、自分を含めた家族が非常識の中心であることを痛いほど理解していた。事実、彼の妹が暴走するたびに辺りの地形が激しく変わるから、丘の上に石ころ一つ現れたところで今更ながら誰も驚かなかったに違いない。 「まあ、そういうこともあるだろう」  養父でさえ呑気な答えを返した。養母に至っては、 『あら、そういえばそんな物もあったわね』  と惚けたものだ。義妹・義弟は最初からそのようなものを気にしない様子なので、結局のところ丘の上の岩を怪しんだのはニコラス一人だった。だから故郷に戻った彼はまず丘に登り、翼を広げた竜よりも大きな岩の前に立ってこう言ったのだ。 「君は何者なのさ?」 『ただの石だが』  どこに口があるのか、巨岩はニコラスの言葉に即座に反応した。  しばしの沈黙。 「岩が喋るのか」 『羊は啼くではないか』  巨岩は笑い、ニコラスはそれもそうかと頷く。すると岩は『おいおい、そんな事で納得するな』と真面目に呟き、小刻みに揺れた。  岩は己が何物であるのか忘れたという。 「とりあえず可憐な少女ではなさそうだね」 『貴様はそういうのが好みなのか』  いや、そういうのはお腹いっぱい。  ニコラスは即座に返し、己の拳を強く握る。岩は沈黙し、その後に自分をどうするのかと尋ねた。天然自然に存在するまっとうな代物ではないと自覚しているのだろうが、だからといって岩はそれ自体では何もできなかった。  ただそこに存在し、知覚するだけ。  そう考えれば無害に違いなかったが、妖物の類であれば存在するだけで周囲に悪影響を及ぼすこともある。義妹や義弟ならば問題ないだろうが、もしも瘴気を吐き出せば多くの村人は無事では済まないし、内に瘴気を溜め込んでいるとすれば叩き壊すこともできない。  困った。  故郷に帰って、このようなものに遭遇するとは。 「僕としては、君をとっとと片付けたい」 『抵抗するぞ力いっぱい』  巨岩の言葉がどこまで真実なのかニコラスには分からない。それは見た目こそ普通の岩塊で、かといって精気が宿っているわけでもない。魔法学舎であれば膨大な資料を駆使して調べ上げることも可能だろうが、それも今となっては無理である。 「君はこれからどうしたい?」 『この地に在る。それだけの話だ、飽きれば別の目的も生まれよう』  偉そうに巨岩は告げる。  かくしてニコラスは故郷の村に留まり、羊を飼い牧童や弟妹の世話をしつつ巨岩について調査を進めることにした。資料もなく、また家業の合間を縫っての調べ物だけに事は容易には進まない。義妹は隙あらば甘え、義弟は無邪気に抱きつき、養父母は新婚時代と心身共にまるで変わらず、村長の妻は年頃の良い娘がいるのだからちょいと結婚でもしてみないかねと攻撃を仕掛ける。  少しずつ調査は進む。  魔物たちに頼んで各地の知り合いに手紙を送って情報を集め、金毛の羊に指示して牧童や村人を巨岩より遠ざけ、耳なが王女の部下と称する間諜にはかくかくしかじかという事情なのでしばらく村に留まると言伝を頼んだ。集まってくる情報の八割は使い物にならず、残る二割についても巨岩の正体を明らかにするためには不十分だった。  そうして数ヶ月が過ぎると、妙な噂が流れてきた。  曰く、ニコラス・ハワドが何事かを企んでいると。  確かに事情があって故郷の牧村に留まっていたのだが勘違いした駆け出しの遺跡探索者達が村を訪れるに至り、ニコラスは己に残された時間が少ないことを悟った。 「そろそろかな」  確証を得るには至らなかった。それが自身の限界であると認めざるを得なかった。  その朝ニコラス・ハワドは旅支度を済ませると家族に短く挨拶した。  養父母は気付いていたらしく弁当と携帯食を手渡し「今度は早目に帰ってきなさい」と抱擁した。義弟はしがみつきながら泣きじゃくり、義妹は自らもまた旅に出ようと準備を始めたところで両親に引き止められた。  半年かけて金毛羊の数を倍に増やし、飼育の極意に関して村の牧童達に余すことなく伝えた。  村の若者が隣村の娘と結婚式を挙げ、それに立ち会った。  赤子を産んだ幼馴染の村娘を祝い、赤子のために名を考えた。  半年間、彼は一人の村人として故郷に居た。それが予定外の滞在だったとしても、久しく忘れていた何かを心身に満たす充実した時間だった。だから村を発つ朝、彼はいつものように丘の上に登り灰色の巨岩に挨拶した。 『行くのかね』  短く岩は言う。  ニコラスは頷き、丘を越え海に出て都に向かうと答えた。 『残念だ』 「僕もだ。君が何物なのか知りたかったし」  巨岩には瘴気の類は宿っていなかった。半年かけて知り得たことは僅かだったが、村人に害のないことは彼を安心させた。 『推測で良いから、私の正体について貴様の意見を聞きたいな』  岩は問う。  いつものように淡々と、感情のない声で。それは世界の真理を探求する賢人のようであり、世の全てを拒絶する隠者のようでもある。ニコラスは空を見上げ、地に視線を落とし、しばし何かを考えるように腕を組んだ。それは彼が何かを企んだり或いはろくでもないことを思いついたときの癖だったが、本人はそれを意識することはなかった。  ニコラスは周囲を見て、少し神経質に何度も見渡して咳払いすると、気まずそうに囁いた。 「……見えてますよ、ファスナー」 『! 馬鹿な、しっかり継ぎ目は      』  隠したはず、と驚き慌てる巨岩にすかさず蹴りを入れるニコラス。巨岩はごろんごろんと丘より転がり、天地を逆さにして止まった。  岩は、それはもう大きなものだった。  大きいということはそれだけで大変な代物であり、たとえ軽石のごとく孔だらけであっても尋常ではない重さとなる。ましてその巨岩はひどく重く、そして硬い石で出来ていた。いかに不意を衝き行動しようとも、一個の人間が蹴り転がせるものではないのだ。  それをニコラスは蹴り転がした。  丘の斜面を転がる瞬間、岩は己の身が宙に浮いたことを自覚した。だから岩は己が天地逆さになって困惑するよりも先に、己が転がり落ちたことを驚いた。 『何故』  ごく当然の反応である。 「蹴ったから」  旅装束のニコラスは、何を当たり前のことをと言わんばかりに素っ気無く返した。 『どうして』 「本当にファスナーがついていたら面白いじゃないか」  だから、探すためにひっくり返した。  至極あっさりと言う彼に、巨岩は言葉を失う。だがしばらくの後に笑い出し、その身を震わせた。 『……継ぎ目はあるが、ファスナーはついていない』 「継ぎ目も見当たらないよ」  ぺたぺたと岩肌に触れ、訝しげるニコラスに『ここを押してみろ』と巨岩。言われたままに岩肌の一点を押せば、寄木細工のように岩の一片が内側へと沈み、それを起点に岩の全てが非常に細かなモザイクとなりぱたぱたと内側に折りたたまれていく。  折りたたまれる度に、モザイクは細かなものになる。指先ほどの賽の目が十度折りたたむ内に砂粒よりも細かなものとなって動き、灰色の石は無数の黒と白の粒子に分かれていく。  驚くニコラスの目の前で、竜よりも大きく遥かに重たかった巨岩は白黒一対の石剣に姿を変えた。  刀身から鍔・柄に至るまで、その全てが石で作られている。短剣よりは長く、儀礼用細剣より少しばかり幅広のそれは、限りなく純粋な白と黒の輝きを放っている。 『驚いたか、ニコラス』  これが儂の正体だと石剣が唸るように震え、驚いたと彼は素直に頷いた。 「何かが化けていたとは考えていたけど、こんな正体とは思いもしなかったよ」 『ぬははははは、驚けおののけ』 「うん、本当に驚いた。それじゃ」  ひとしきり驚いたニコラスは満足そうに何度も頭を下げ、そのまま立ち去ろうとして 『待てい』  と石剣の鍔に引っ掛けられてすっ転んだ。予想だにしなかった出来事にニコラスはなす術もなく草原に突っ伏し、顔面を強打する。 『極上の剣を前に大の男が素通りか、貴様の目は節穴か?』 「よく言われる」  むくりと起き上がったニコラスは石剣を手に取る。騎士や傭兵が振るう長剣ではなく、旅人が護身用に持ち歩くものと大きさは変わらない。 『儂は極上の剣だ』 「そうかもね」 『極上の剣なのだよ』  うん、わかった。  ニコラスは納得し、地面に石剣を置いた。そうして再び立ち上がり、立ち去ろうとしたところをやはり石剣の鍔に引っ掛けられて転倒する。 『かーっ、貴様は極上の剣を置き去りにしたまま旅立つのか!』 「……ひょっとして、連れて行けと」 『この村にも飽きたのでな』 「じゃあ通りすがりの行商人に売りつければスリリングでバイオレンスな体験を連発できると思うんで」  ちょいと呼び出してくるよと立ち上がりかけたニコラスを、石剣の鍔と柄が一気に払う。三度転倒したニコラスは這ったまま石剣より離れようとするが、今度は棒倒しのごとく石剣が刃を彼に向けて倒れてくる。寸前で避けたニコラスだが、目の前の小石が出来たての柔らかいチーズであるかのように真っ二つに切断されるのを見て硬直し、観念したかのように黒白一対の石剣を腰のベルトに引っ掛けた。 「重さや切れ味は変えられるよね」 『極上の剣であるからして肯定である』 「これからの生活、当面の目的はないけどそれでも構わないね」 『極上の剣であるからして貴様がなすべき当面の行動を導いてやるのである』 「金に困ったら売り払うから」 『……極上の剣ではあるが肯定できないのである』  こうして魔法学舎を追放されたニコラス・ハワドは呪われた石剣に魅入られて、再び遺跡探索者として活動することになった。