『異聞耳なが王女』  さてさてセップ島には人の興した国が二つある。  碧・紅と名付けられた二つの国は山と森で隔てられ、そこそこ仲良くやってきた。  なにしろ人はセップ島の支配者ではない、覇を唱えでもすれば東西南北より竜をはじめとする【恐ろしきけものたち】が一斉に襲いかかり全てを灰にする。南には雷王の名を持つ竜が、東には魔女の名を持つ人形姫が住まう場所。それがセップ島なのだ。  だから二つの国は本当に慎ましやかに、それこそ互いに助け合って国を少しずつ豊かにしていった。紅の国では荒地を耕し豊かな実りを得て、碧の国では地を掘り金鉄を鍛え、時には内戦を起こしたり悪徳領主を放蕩王子が成敗したり。そうやって民の数を増やし、時折襲い来る厄介な物事で数を減らしたりした。  その碧国に、【耳なが王女】と呼ばれる娘がいた。  いかなる神の悪戯か、今は既に滅んだ古き妖精の血がその身に顕れてしまったこの娘。王の娘としてこの世に生を受けたは良いが、なにしろ古き妖精ゆえの体質か、十年たっても二十年たっても一向に老けず体力も知性も衰えはしない。剣を振るえば並み居る騎士を薙ぎ払い、術法を論じれば城に仕える老賢者も舌を巻く。真紅の髪を後ろに束ね、青銀に輝く鎧を身につけた王女の姿は、かの雷王さえ従えたという【赤帝】の生まれ変わりではないかと噂された。もちろん、その容姿も美しい。彼女が剣を掲げればそれに従う騎士の数は十や百ではないから、王様も迂闊には彼女を排除できない。その気になれば王位などいつでも奪えるものを、自分は現場で生きるのが一番というのだから代々の王様は耳なが王女に頭が上がらないのだ。 「代々とは言っても、父と兄それに甥の三人ではないか」  耳なが王女は頬を膨らませる。王を立てようと政治の一線より退こうと思えば謀反を企ててはいないかと不安がられ、では結婚して身を落ち着かせようかと考えても周囲が納得してくれる相手など見つかるはずもない。 (ああ、不毛だ)  いっそ戦場で命散らそうかと思っても、どれほどの相手ならば自分を殺してくれるのか。 (ああああああ、腐っていく)  耳なが王女エリス74歳。  まさか生娘だとは言い出せない春だった。    ある夏のこと。  耳なが王女は『暴れ竜』を退治するために、とある村を訪れた。聞けば山鬼を食らい尽くし、毎日のように暴れているという。 「雷王が身罷られたという噂は本当なのだろうか?」  豪奢な鎧兜で身を固め、王女は雷王の名をいただく偉大なる竜の領地に踏みこんだ。暴れ竜は、この偉大なる竜の領地で人々を苦しめているという……それが本当なのかを確認する必要もあった。王女は軍馬に乗って草原を進み、数分と経たずに凍りついた。  目の前には、一匹の巨大な竜。  全身を輝く紫の鱗で包み、左右の瞳は紅と碧に分かれ、ばりばりと雷を周囲に放っている。その大きさたるや彼女の住まう城の尖塔よりも高く、翼を広げたその身体は空を覆い尽くさんというほどだった。 『あんぎゃあ』  竜は吠える。  軍馬は立ち上がり、耳なが王女は振り落とされる。重い鎧を身につけた割に素早い動きで降り立つ王女だが、竜はその鉤爪で王女のマントをつまんで持ち上げる。 『あんぎゃあ?』  まじまじと竜は王女を観察する。金鉄で飾った鎧を突つき、やや尖って長い耳を撫でるように触れる。 『あんぎゃあ』  竜はなにかを訴える。しかし竜の言葉など理解出来ない耳なが王女は混乱するばかり。すると竜は王女をつまんだまま、あーんと大きな口を開けて運ぼうとする。魔法を唱えようとするも、混乱していては魔法は生まれない。正に絶体絶命のその時である。 「人様を食べてはいけないと言っただろっ!」  疾風よりも速く。  一人の少年が弾丸のごとき勢いで現れて跳躍し、地上十数メートルにある竜の頭を蹴り上げた。竜はそのままぐらりとひっくり返り、宙に舞う耳なが王女の手を少年は掴んで着地する。少年は牧童風の衣装で、驚くことに十歳にも満たない幼さだった。少年は王女に怪我がないことを確認すると、むくりと起きあがった竜を前にして胸を張りこう言った。 「どーしてお兄ちゃんのいう事が聞けないんだっ」 『あんぎゃあ』  竜がなにか言い返す。少年は王女を見て頷き、もう一度大きな声を上げる。 「このおねいさんは確かに耳が長いけどやっぱり人間だし、甲羅みたいなのは鎧だから人間なんだぞっ」 『あんぎゃあ』 「馬もダメっ、このおねいさんの大切な友達なんだから」 『あんぎゃあ』  竜は肩を落とすと何処かへ飛び去っていく。牧童の少年は耳なが王女がぽかーんとこちらをみているのを見て、なにか怪我したのかと思い慌てて近寄った。 「おねいさん、おねいさんっ!? どこか具合が悪いのですか!」 「胸が」  苦しそうに胸元に手を当て、耳なが王女は小さな声で呟く。少年は王女の額に手を当て、物凄く熱を帯びていることに気付いて驚く。よく見れば頬も赤く、視線も虚ろだ。若いと評判の少年の義母より確実に年上っぽそうな耳なが王女の様子に、少年は心配そうに訊ねる。 「胸の骨を折ったのですか?」 「違う」王女は息を詰まらせた「胸が……きゅんきゅん、痛いのだ」  耳なが王女の熱い視線の意味を少年が理解するのはもうしばらく後のことである。  はじめての恋という訳ではない。  しかし今までにない感覚に耳なが王女は戸惑いを隠せなかった。十に満たない少年の笑顔を見れば胸は高鳴り、その手が己の額に触れるとそれだけで気を失いそうになる。 (何故だ、何故なのだ!)  少年は、王女を救った。  恐ろしい竜を蹴り倒し、竜と心を通わせて退かせた。そんな芸当はどんな騎士にも、魔法使いにも真似できないことだ。何の見返りも求めず、王女が無事であるのを確認すると少年は羊の群を連れて去ろうとした。 「待ってくれ!」  少年の裾を掴むように、王女は手を伸ばして叫ぶ。少年はくるりと振り返り、笑顔で応えた。 「はい?」 「名を、そなたの名を……教えてはくれないか」  沈黙が生じた。  上目遣いで見つめられ、少年は首を傾げる。その仕草に王女は頬を染め、息を呑んだ。少年は王女の目を見つめ返し、こう言った。 「ニコラス・ハワドです」 「ニコラスか        良い名だな」  最後に残った理性を振り絞り、王女は笑顔でニコラスを見送るのだった。  以来、耳なが王女は村を頻繁に訪れるようになった。  暴れ竜の話は誤解であり、彼女が村に来る必要はない。だから王女は適当な理由をでっち上げては村を訪れ、ニコラス少年を探した。  まさに至福の時間。しかし物事には限度があり、王女がひねり出せる『理由』は既に尽きていた。いよいよ最後かと思ったとき、王女は藤篭にシュークリームを沢山いれてニコラスと草原に出かけた。ふんわりサクサクのシューに、たっぷりのカスタードとホイップクリームをいれたシュークリームはとても甘く、それを初めて食べたニコラスは驚いた。 「すんごい美味しい」 「そうか。それは良かった」  笑顔に頬を緩ませ、耳なが王女はさりげなく問う。 「なあ、ニコラス。私のこと、好きか?」 「うん、すきー」  シュークリームに夢中になりながらも子供ならの素直さで少年は頷く。王女は気絶しそうになったが、なんとか踏みとどまって二つ目のシュークリームを手渡した。 「わたしもニコラスのこと……好きだぞ」 「うわー。じゃあ好き好きだね、ぼくたち」  くらっ。  確実に意識を失った王女だが、執念で復帰しニコラスの手を握る。頬が赤い、体温が上昇しているのが分かる。手の平が汗でぬれているのを自覚する。 「私のことが好きなら、結婚して欲しいのだ」 「けっこん、って?」 「好き好きの相手がすることなんだよ」 「うーん」  言葉の意味がよくわからない少年は困惑し、王女は切り札を出した。 「もう一個、シュークリームをあげよう」 「うん、わかったー。結婚するー」  まぐまぐまぐ。  幸せそうにシュークリームを頬張るニコラスの横で、これ以上ないという幸福感に包まれたまま耳なが王女は気絶した。  さてその帰り道。  ニコラス少年と耳なが王女の前に一人の若者が現れた。この若者外見こそ人間に似ていたが、額から竜の角が、背より翼が生えていた。 『ニコラス・ハワドだな』  ただならぬ雰囲気の若者は偉そうな態度で告げた。 『お前の妹、オレの嫁にする』 「寝言は寝てから言え、この性犯罪者」  さくっ。  若者と耳なが王女が共に血を吐いて膝をつく。 「僕の妹は年端もいかない子供なんだぞ、それをイキナリ一方的に結婚相手にするなんて正気じゃないぞっ」  さくさくっ。  更に若者と耳なが王女が血を吐き突っ伏す。 「大体、年齢差とか本人の気持ちを無視して一方的に決めるなんてマトモじゃない。さっさときえろ、この異常性欲者」  竜人の若者は退散する。 「な、なあニコラス。今の言葉は……?」  ざくざくと見えざる刃に貫かれた感じの耳なが王女が、おそるおそる少年に尋ねた。少年は良くわからないという表情で肩をすくめ、こう答えた。 「妹を狙うヒトが現れたら、こう言いなさいって。義母さんと義父さんが教えてくれたの」 「意味は、わかっているのか?」 「ぜーんぜん」  とニコラス少年は悪戯っぽくわらったそうな。めでたし、めでたし。