『雷王と羊飼』  ある日ある時の物語である。  かつてセップ島にアナスターシャという青い竜がいた。  竜はもっとも強い獣だ。獅子も虎も竜の前では無力に等しく、竜と相打つ獣は存在しない。人とその眷属だけが自らの名誉のため、あるいは自虐的な悦びを満たすために竜に戦いを挑む。しかしセップ島の長い歴史の中で人が竜に打ち勝った話は数えるほどもなく、だからこそ竜はセップ島の支配者であり、それに異を唱える者はいない。  アナスターシャはその頂に立つ強き竜だ。  彼女が翼を開けば空は轟き、吐息は雷と化す。蒼い鱗は常に紫と白の電光を帯び、雷雲を引き裂いて飛ぶ姿はまさに雷の王と呼ぶに相応しい。故に多くの雄竜は彼女を娶ろうと牙爪を立て、数え切れぬ騎士は彼女を討ち取ろうと剣を突いた。島に住む誰もが知る、かの英雄さえ彼女を騎乗として招こうとしたのだ。  が、彼女は全てを退けた。  誰の力にも屈せず、従わない。気高き雷王アナスターシャは支配する事も、支配される事も嫌った。  これは竜アナスターシャの物語の一つである。     春     ある雨の降る朝。  アナスターシャは己が羊に変じたことに気が付いた。 『なんて独創性のない!』  アナスターシャは驚くよりも怒り、なにより嘆いた。竜がその身体と能力を失うことは、想像を絶する恐怖である。それはアナスターシャとて例外ではない。否、誰よりも強いからこそ彼女の動揺は深刻だったに違いない。  最強の獣だった彼女は、今では獅子や虎にも勝てない。もしも人に見つかれば聖夜の晩餐で食われてしまう。そんな最期、惨めな最期は嫌だ。  だからアナスターシャは住み慣れた洞穴より飛び出し、駆け出した。竜体ならば羽ばたき一つで十里を駆けただろうが、羊体は十里進むのに四半刻もの時間を要した。山の斜面を駆け下りる最中も絶望と悲しみで頭の中が一杯だったが、不思議と理性は残った。  誰がこのような真似を?  アナスターシャは考えた。彼女を狙うものなど数限りないが、このような呪いを仕掛けた者は分からない。並大抵の魔法など、竜の碧鱗がはね返す。その碧鱗を乗り越えてアナスターシャを呪える者がこの世にいるのか?   いる訳がない。  胸中でアナスターシャは断言した。この世にそのような強きものがいれば、彼女の耳に届かぬはずはない。 『では神か!』  見たこともない者の名を口にした。  神、いけ好かない奴、造物主と呼ぶものもいる。だが彼女は、その考えを直ぐ否定した。  情けない。  一瞬でも神の存在を信じようとした己に腹が立ち、勢い余ったアナスターシャは斜面を転げ落ちた。岩と石だらけの山の斜面も、全身を覆う羊毛で大したけがも無い。それでも転がっている途中、彼女は情けなさに涙が出た。悔し涙を流したのは生まれて初めてのことだ。 『情けない、情けない、情けない!』  羊と化したこと。住み慣れた山より逃げ出したこと。自分が化けた原因を神に求めようとしたこと。あまりの悔しさにアナスターシャは目の前に羊飼いの若者が現れたことさえ気付かず、泣き続けた。 『なにが雷王だ、私は今や無力な羊ではないか』 「ごめん」  若者は頭を下げ、涙と鼻水で汚れたアナスターシャの羊顔を綿布で丁寧に拭き、上等の香油を塗った。花弁を煮詰めた香りに彼女は泣くのを止めた。 「あなたを羊に変えたのは俺です」  若者の言葉にアナスターシャは驚く。  目の前の若者は二十歳を過ぎるかという外見で、南部では珍しい、藍と紅で染めた麻織りの衣服を着ていた。金銀の鎧を着込み仰々しい口調がやかましい騎士に比べれば、若者の印象は地味極まりなく、自らを飾るという行為について無頓着とさえ思える。  どう見ても騙す側の人間ではない。  若者は話した。 「俺は眠っているあなたの背を開き、はぎ取った竜革を鎧に仕立てました」  剣の腕で功を立てようという妹のために、あなたの竜革を頂いたのです。  若者はそう言うが、到底信じられる話ではない。石英の杖も短剣も持たずに不可思議な力を使う人間など見たこともないからだ。まして人間の使った魔法で竜の姿が変わったなど、彼女が納得出来るはずもない。  ただの夢想家か?  アナスターシャが唖然としていると、近くの繁みより三匹の山鬼が現れた。山鬼は人と羊の匂いに誘われてやってきたのか、何の躊躇も無く彼女と若者を襲う。  まずい。  アナスターシャは直感した。竜の体ならいざ知らず人間にとって山鬼の怪力は脅威である。鎧兜を身につけた騎士なら撃退することも出来るだろうが、武器も持たない羊飼いの若者では相手にならない。  私もここまでか?  彼我の戦力差は圧倒的だ。山鬼の朝飯として終える生涯など屈辱的だが、現実は受け入れるしかない。  ところが若者は一匹の山鬼の首をつかみ、そのまま背に廻り込むと首筋に右手を当てた。その手に現れた『ファスナー』をつかんで一気に引き下ろせば、開かれた山鬼の背より羊がごろんと転げ落ち、残った山鬼の革はするすると縮んで小さな手袋人形に化けた。  これにはアナスターシャも山鬼達も驚いた。彼女は若者の言葉が真実だったことに、山鬼達は同胞が実に美味そうな羊に化けたことにだ。若者が新たなる羊の尻を蹴飛ばすと羊は驚いて茂みに消え、残った二匹の山鬼はかつての同胞を追いかけて消えた。 「これで信じてもらえますか」  信じるも信じないも。 『お前は神とやらなのか?』 「いいえ、俺はただの羊飼いですよ」  恐ろしくなって声を震わせるアナスターシャに、若者は静かな笑みを浮かべた。     夏     ある日差しの強い夏の昼下がりだった。  かつてアナスターシャだった羊は白詰草の葉をもぎゅりと頬張りながら物思いに耽っていた。  餌を食らうだけの日々は退屈以外のなにものでもない。眼前に広がる草原そのものが羊の糧で、餌を求めて動き回る必要もない。だから考え事をする時間は十分にあった。  考える時、眠る時、アナスターシャは若者の傍にいた。羊飼いが羊と共に在るのは当たり前の話だが、彼女は朝昼晩の区別なく若者と行動を共にするようになっていた。  アナスターシャは自らの境遇を嘆いた。雷王としての誇りは高かったが、現実を認めねば生きていくことは出来ない。彼女は嘆くことが日課であるかのように、諸悪の根源たる若者の傍らで悪態をついた。 『雷王の栄光も過去のものか。草食の青竜が何処の世界にいるというのか』 「ここに」  愚痴を言われるたびに若者は返し、視線を外す。悪意はないが、慰めにもならない。  妹が武功を立てれば竜革は返ってくる。  若者は約束した。人間の誓いなど何の意味もないとアナスターシャは考えたが、それにすがるしか生きる理由がない。 『風の流れ、雲の動き。竜体の頃は自らの力で支配していたものだがな』  考えることに疲れると、決まって彼女は空を見上げ自嘲気味に呟く。以前は眼下に見下ろしていた雲が、今は果てしなく遠い。 『お前達はこんなものと日々付き合ってきたのか』 「自然を捻じ伏せられるのは竜くらいです」  雲の名前、風の行方。星の動きから四季の移ろい。若者は請われるまま、アナスターシャの問いに答えた。若者は驚くほど博識であり、変わり者だった。人はみな摩訶不思議な力を有するものかと彼女は考えもしたが、若者が特別なのだとすぐに理解できた。なにしろ若者の手が触れれば虎も熊も背中にファスナーが現れ、それを引き下ろせば中から羊が抜け出すのだから。  生き物だけではない。  若者が望めば石や木にもファスナーが現れた。石の革をはぎ取れば紅玉が、木の革をはげば琥珀の塊が現れた。そのどれもが竜体の頃の彼女が目にした事もない大きさと輝きを持っていた。 『お前は何者なのだ』  何度その問いかけをしただろうか。  元素の力を操り自然を捻じ伏せる竜の一族でさえ、若者のような芸当は出来ないのだ。アナスターシャはそれを知ろうとした。 『竜を羊に変える人が何処にいるというのだ』 「ここに」  短く、少し寂しそうに若者は答えた。石の革に琥珀を埋めこめば石は芽吹き、木の革に紅玉を埋め込めば木は鋼より硬くなる。アナスターシャはぞっとした。この若者が望めば全ての生き物の『律』を狂わせてしまうことも可能で、   その事を若者は理解していた。竜さえ持ち得ぬ力を背負う業をだ。草木を操るだけの土地神など比べ物にならない力の男が、羊を追い生計を立てている。  若者は言う。村人は彼の力を知らない。彼の弟妹の誰もこのような力を持っていない。しかし力を持たぬ者は戦場では生きてはいけない、だから戦場に出る妹のため竜革をはぎ取って鎧に仕立てたのだ。  若者はこうも言う。羊を飼うのに特別な力など要らない、少しばかりの辛抱強さと羊への思いやりがあればいい。他人より多くのものを識り、より大きな力を持っていたとしても、羊の前では何の意味も無い。 「それがいいのです」  若者は笑う。笑顔の意味を考えるアナスターシャだが、答えは出なかった。     秋     海原も草原も夕暮れの紅に染まる秋。  若者の妹が村に帰還した。竜革の鎧を着た彼女は戦場で華々しい功績を立て、数えきれないほどの勲章と、それに見合うだけの冨と名声を手に入れたという。金銀に輝く鎧を身につけた幾人もの騎士を従えた彼女を、村の誰もが歓迎した。 「上等の羊を」  英雄の帰還を喜んだ村長は若者に命じた。 「お前が最も大事にしている羊、アナスターシャを宴の主菜としよう」  村の若い衆がこれに同調し、特に年頃の娘達が、アナスターシャを丸焼きにしてしまおうと言い出した。若者は困り、他の羊では駄目かと訴えたが、彼に密かな想いを寄せていた村の娘が強く反対した。  若者の両親は、最高のもてなしをするのが家族の務めだと説いた。 「ではその前に竜革の鎧を返して欲しい」  若者は妹に約束を果たすよう強く望んだ。妹は鎧を返さず、代わりに袋いっぱいの金を若者の目の前に積んだ。一生を遊んで暮らせるだけの黄金が、そこにはあった。村人の誰もが黄金の輝きに目が眩む。  竜革の鎧は返せない、だからこの黄金を鎧の代金として受け取ってほしい。と、若者の妹は胸を張り偉そうな口調で言った。  約束が違うと若者は唸る。だが若者の言葉を遮り、村長は良い支度金が出来たと喜び、お前も良い歳なのだから嫁を迎えてはどうかと言い出す。村人の全てがそうだと騒ぎ始め、誰も若者の言葉に耳を傾けようとはしなかった。  なるほど。  若者の横でアナスターシャはその一部始終を見た。鎧を包む美しい碧鱗は不可思議なる輝きを放つ、この竜革の鎧の前では金銀で装飾した鉄の鎧など赤錆びた鉄屑にも等しい。  なるほど。  若者の妹は鎧を返す気など微塵もない、それは人として正常な反応なのだろう。アナスターシャは視線を若者の妹に向けたが、怒りを覚えることはない。かつての己の姿を見るかのように、むしろ憐れみさえ感じて嘲笑った。 『なるほど、お前はかつての私なのだ。なんと醜い姿だろうな』  言って、そして息を吐く。竜の力に溺れたものの姿を見て、心底そう思った。力への憎悪ではない、力におぼれた愚か者への憎悪だった。 『竜の力が傲慢を導くのなら、私は無力なる羊のまま焼き殺される事さえ誇りに思おう』  村人と騎士は驚いた。羊が人の言葉を話したことに驚き、幾人かの騎士が輝く鋼の剣を鞘より抜いた。 「何故剣を抜く?」  若者は努めて静かに訊ね、静かに怒りの感情をみせた。村人の誰もが知らない、気付くこともない殺意を若者は見せた。彼の怒りに気付き、これを理解することが出来たのはアナスターシャだけである。  無知なる騎士は若者の問いには答えず、鋼の刃をアナスターシャに振り下ろす。刃は彼女に触れる寸前、束ねた麦藁に姿を変えた。騎士の持つ剣と槍もまた麦藁の束に姿を変えた。  起こった事を理解できず硬直する騎士を、若者は容易く薙ぎ払う。雷光より速く動く若者は竜革の鎧に触れ、現れたファスナーを引き下ろした。煌びやかな鎧は竜の革に戻り、若者は竜革で羊を包み込む。  若者の妹が、やめてと叫んだ。しかし若者は小さく首を振った。若者もまた己の妹に対して怒りを覚え失望を感じていたのだ。 「約束を果たそう、雷王アナスターシャ」  言うや一条の雷が天地を結んだ。  騎士も、若者の妹も雷に吹き飛ばされた。天空に現れた青竜、雷王アナスターシャの姿に村人は恐怖した。立ち上がった騎士の一人が逆上し、村人の一人より短剣を奪い若者の首に突き立てようとしたが、振り上げた刃は別の雷に打たれ灰と化し、袋いっぱいの黄金も灰となった。愚かな騎士は、拳を振り上げたまま意識を失った。  竜たるアナスターシャは大地に降り立つ。翼を広げれば雷鳴が轟き、騎士も若者の妹も両耳を押さえて倒れた。  誰も竜に逆らうことなど出来はしない。 『竜の革は確かに返してもらった』 「妹は戦場で功を立てた。あなたのお蔭です」  若者は深深と頭を下げる。アナスターシャは辺りを見渡し、空に向けて大きく吠える。天地を割らんばかりの雷鳴が轟き、全てが紫と白の輝きに飲みこまれた。音と光の激しさに人々が再び倒れ伏す中で、若者だけが微動だにせず竜を見上げた。  轟音が終わり長い静寂が訪れた後、アナスターシャは若者に向い頷いた。 『世話になった』  騎士が、村人が、若者の妹が驚き顔を上げた。竜が人に頭を下げるなど聞いたこともなかったからだ。だが若者もアナスターシャもそれ以上は何も言わず、竜はそのまま再び空に向って飛び去った。  若者の妹は己の浅はかさを悔やみ、村を去った。     冬     雪深い夜。  山奥の洞穴で竜アナスターシャは眠っていた。  眠っていても彼女の意識は鮮明で、遠く離れた物事さえ容易に識ることが出来た。  竜革の鎧を失い、名誉も失った若者の妹のため、その窮地に幾度か雷を降らせた。どこかで力弱きものがよほどに困っていれば、目覚めて赴き力を貸すこともした。草木を食らい、それでも生きていけることを知り、肉食を少しずつ減らしていった。  それ以外は、若者のことばかり考えていた。  一体何者だろう? 考えては意識を飛ばし、若者を見つめては答えを探ろうとした。しかしアナスターシャはそれを得ることは出来ず、ますます若者のことを考えた。  若者は彼女を解き放つため、隠していた力を見せた。村人は困惑したが、彼は態度を変えない。避けるもの罵るものがいたが、彼はただ静かに微笑むだけだ。  そんな若者を見て彼女は理由もなく心を痛めた。  時が進み、聖夜を迎えた。  不幸なる偶然か国中を流行り風邪が猛威を振るい、村でもほとんどの人間が病に倒れた。ただ一人無事だった若者は大切な羊を全て手放し、その金で薬を買った。彼は文無し同然となったが、何も言わず薬を全て村人に分け与え看病を続けた。村人は生きる喜びを噛み締め、若者に感謝した。春になったら全てを水に流そう。誰もがそう考えた。謝って、何とかして償おう。誰もが誓った。  若者が倒れたのは、その直後の事だ。  村人の命を奪い損ねた病魔の悪あがきか、誰よりも重い風邪に彼は冒された。薬は既に尽き、金もない。若者に出来るのは村人を遠ざける事だけだった。  このままでは彼は死んでしまう。  現実を村人は理解していたが、薬の名も知らず薬を買う金も無く、己の無力を知った。遠巻きに若者を見守り、彼に死の安息が訪れるのを待つしかない無力を呪った。  アナスターシャは全てを見ていた。  言葉では説明できないない衝動が彼女を突き動かした。薬が何物であるのか、彼女は理解している。病に倒れた人間を癒す方法を、彼女は全てを見て知っている。  自分なら若者を癒すことが出来る。  気付けば彼女は雷に姿を変えて各地に飛び、薬草を集めていた。集めるだけ集めた薬草を抱え、彼女は村に至った。  アナスターシャは焦燥し、何かを強く願った。ありもしないと思っていた神にさえ祈った。強く、強く、強く。若者の事だけを考え、そして願う。『邪魔なものすべて』を脱ぎ捨て、薬草の束を抱え彼女は走り出した。     再び、春     一人の騎士がいた。  剣の腕に自信があり、幾つもの戦場を生き抜くだけの実力と運に恵まれた。彼は自らの力を試すため、また噂に聞く雷王たる青竜の力を知るため、雷王の住まう山を訪れた。  騎士は山鬼の群を易々と切り払い、雷王の洞穴に至る。そこで彼が見たものは、少々意地の悪い仕掛けと、最深奥に至った者を称える碑文だ。  竜アナスターシャはもはや存在しない。  碑にはその事実が短く書かれていた。騎士はひどく落胆し、山を降りる。遠い北の領地へと帰還することを決めた騎士だが、あまりに疲れていたので近くの村を訪れ、そこで一杯の水と簡単な食事を求めようとした。  村に至ると、小さな結婚式が行われていた。  幸せそうな若い花嫁が、年頃の村娘や子供達に祝いの花を配っている。騎士は馬より降りて遠くより見物していたが、花嫁は彼の前にも現れ、白く小さな花を捧げた。  白詰草の花だ。  百合のように豪華な花弁ではない。が、爽やかな愛らしさが白詰草の花にはあった。騎士は感激し、こう言った。 「あなたに雷王の加護と祝福を」  青い髪の花嫁は微笑み、村人は歓声をあげる。  上等の葡萄酒と羊肉を振舞われ、騎士は先刻までの失望感をすっかり忘れ領地へと帰還した。  かつてアナスターシャと呼ばれた竜がいた。  美しく気高い彼女は、今もそこで幸せに暮らしている。