腕のいい料理店は、扉を明ける前にそれと分かる。  上等なバターの焦げる香り、熱したバターと共に膨らむ野菜や魚の匂い。清潔なキッチンで、手入れの行き届いた調理器具と適切な技術だからこそ出せる芳香がある。  どれ一つ欠けても、それは生まれない。  気持ちのいい料理店は、扉を明ける前にそれと分かる。  頻繁かつ丁寧に行われる清掃。適度に広く、不便さを感じさせない駐車スペース。そして来訪者に対する適度な挑発。  客が気圧されてしまうのでは、店構えに意味はない。空腹と興奮の意思を込めた拳を叩き付けるために、料理店の扉は存在する。  こうして期待に胸膨らませ、心地よいほどの空腹による胃の痛みを抱えながら、客は客としての本分を全うすべく料理店に踏み込む。  そして見る。 「おかえりなさぁい、ご主人様☆」 「ちがうちがう。ここ風俗喫茶と違うから」  やたらと露出度の高いメイド服を着た女性が金髪碧眼のウェイトレスに後頭部を叩かれている。  そんな漫才みたいなやりとりは、たとえミシュラン三ツ星の名店でも目撃できるものではない。目撃したくもない光景ではあるが。  ふらん・ちゃいるず(仮題)〜細腕ファミレス繁盛記  この世の多くの事象には原因と結果が存在する。  どれほどささやかな事でも、どれほど理不尽な出来事でも。  たとえば。  今まさに潰れようとしているファミリーレストランがここにある。ここを含めた店舗を任されたエリアマネージャーは店内の様々な要因――接客態度や客層などのデータを洗い直し、それらに問題がないことを理解した上で、数度深呼吸をし、ちらと窓の外を見た。  喧騒。  むしろ怒号という言葉が相応しい賑わい。混沌とも呼べる無秩序には残念ながら一定のルールが見て取れる。簡単に説明するならば、食欲と暴力の二つが。 「アイヤー!」  辛うじて聞き取れる単語は、エリアマネージャーを脱力させる。窓の外では飛び交う皿と包丁の嵐を潜り抜けるように、真白いチャイナ姿の少女がくるくる開店しながら料理を運んでいる。  そこは間違っても店舗などない。  商店街のアーケードの下、どこぞより持ち込んだ百を超える丸椅子に簡易テーブルを置き、そこに客を座らせている。運ばれているのは鶏出汁で炊いた中華粥とつけ合わせの具、それに日本人好みに調味した点心が数種類。当然のように違法出店であり、調理場を兼ねた屋台の傍らにはいつでも逃げ出せるように原付自動車が控えている。百名の客に次々と粥を盛った器を置き料理の皿を並べつつ、飛んでくる包丁などをアルマイトの盆で受け流す少女。コック帽ならぬ真白のハンチングを目深にかぶった彼女の表情は読めない。  その一方。 「天下の往来で勝手に商売始めるんじゃない、この■■■■■!」  少女に攻撃を仕掛けるものもまた少女であった。こちらは白ブラウスに濃紺のタイトスカートとエプロンといういかにも喫茶店の店員ですと主張する格好であり、虚空を掴むようなし草の直後に袖口より夥しい数のデザートナイフを取り出してニンジャ漫画もかくやという勢いで次々と投擲する。  その勢いは棒手裏剣よりもマシンガンと呼ぶべきものである。数瞬までチャイナ少女がいた場所を射抜くように、テーブルだろうが客の指の間だろうがお構いなしに突き刺さる。たまに流れ弾がファミレスの壁に突き刺さり、運が悪いと断熱材や壁紙ごと貫いて店内に飛び込んでくる。  そういう運の悪い一本が、エリアマネージャーの目の前にぽとりと落ちた。手入れされてはいるが、決して高いわけではない、ホットケーキ用のデザートナイフである。 「……撤退しよう」  エリアマネージャーの決定に異を唱えられるような人材が、この店に残っているはずはなかった。  半年前に潰れたファミリーレストランが、ここにある。  交通量の申し分ない、国道沿い商店街の一角に店舗はある。  国鉄駅や高速道路インターチェンジまでの距離は適切で、アーケード商店街を囲むのは規模こそ標準だが戦前より存在する住宅街。  近くにコンビニは複数あれど、競合する飲食店は驚くほど少ない。  市場調査のいろはを以って語るのであれば、そこはきわめて優良な物件のはずだった。 「残る四十七文字で駄目だし出されたんでしょうね」  テナント募集の看板が掲げられた空き店舗の中で、渡会健一は素っ気無い感想を口にした。市役所職員の名札をつけた作業服姿の健一は埃っぽい店内を一瞥すると嘆息し、放棄されていたビールケースの一つをひっくり返して椅子代わりに腰掛けた。 「健一君、残る四十七文字ってのは?」 「さすがに会社説明会ではそこまでは教わりませんでした」  付き添いで参加した中食産業のセミナー内容を思い出し、あれほどまでに強気で自信満々だった人事担当者の顔が脳裏に浮かぶ。契約農家からの産地直送体制を誇りにしていた  商店街の会長と顔見知りというただそれだけの理由で部署違いにもかかわらず案件を押し付けられた健一は、その場ののりと思いつきをバケモノじみた行動力で実行していく市長とその犠牲者達に自分が加わってしまったことを自覚し、がくりと肩を落とした。 「同規模の店舗を他所に構えるよりも、半値近い価格で土地が提供されたと聞いてます」 「うちは小売は充実しているけど外食が弱くてね」  同じようにビールケースに腰掛け、健一に向かい合う壮年の男が肯いた。健一の母と同級生だったという商店会長その人であり、空き店舗の管理人でもあった。 「職人肌の定食屋に、凝り性の珈琲屋。芸術家きどりのケーキ屋――味はどれも一級品だが、一見さんは怖がって暖簾も潜れない店ばかりだよ。だから、ファーストフードでも構わないから、気軽に立ち寄ってもらえる食べ物屋さんに来て欲しかったんだけど」 「今まで三軒誘致して、最長で半年でしたっけ」 「店を始める時はみんな乗り気だったんだがなあ」  店はあっけなく潰れた。  営業に問題があったわけではない。重大な事故が起こったわけでもない。マニュアル通りに処理する限り、一切の落ち度が見つかることはない。 「なんでだろうね」 「半端なんですよね、ここ」  中学高校と、この商店街を通学路にしていた健一は当時の記憶を思い出しながら指を折りつつ考えを口にした。 「ここの商店街で構えている店は、どれもこれもホンモノですからね」  暑さしのぎにと途中の店で買ったラムネの瓶を商店会長に見せながら、答える。良質の山葵が育つ銘水で仕込んだというラムネは戦前より変わらぬ柔らかな甘味が特徴である。 「こういうものに慣れ親しみ味を覚えた人が、この辺りには多い。飲み放題のドリンクサービスですら、評判は芳しくなかったそうで」 「贅沢だなあ」 「同じ値段を払うなら、ラムネ一本を手に道端で駄弁るのがここいらの若者ですよ」  なるほどと商店会長もまた自らの手にあるラムネ瓶に視線を落として納得した。 「安いだけでは駄目か」 「ええ。この商店街に足を運ぶような客を相手に半端なモノでは話にならないんじゃないのかと――」  だから、ここでそういう商売は成り立ちませんよ。  喉まででかかった言葉を飲み込んで、視線のみを商店会長に向ける。状況証拠と顧客やバイト数名より聞いた程度の情報で正確な分析が出来たとは思えないが、  意見を求められた別の男、上着を脱いだもののスーツ姿の若者は自販機で買ったばかりのスポーツドリンク缶を開けながら、窓越しに商店街を覗いた。 「周りの住宅街は独身向けアパートが少ないし、一戸建てに住んでいる家庭の多くは子供がいますけど半分以上が進学や就職で家を離れてます。交通量は多いですが道路周辺の整備が半端なんで朝夕の渋滞寸前の混雑では途中に立ち寄って食事する気にもなれません……バイトの時給も低めだから深夜バイトのフリーターすら近寄りませんよ」 「でも商店街には、それなりに客が入っているんだけどなあ」  首をかしげ、男は唸る。市内の反対側からもわざわざ足を運んで買い物に来る客がいるほど、商店街は賑わっている。だからこそ最初にファミレスの出店を決めた企業は多大な期待を寄せていた。 「そりゃあ、うちの商店街はね」  若者も相槌を打つ。 「個性化と高品質化を以前より訴えて行動してましたから」 ふらん☆ちゃいるず