『はつゆめのはなし』  ある夜のことである。    旅の剣士ヨセフの前に小柄な娘が現れた。  夜闇を水で溶いた淡墨色の肌に白色のまっすぐな髪は、尋常なる人のそれではない。  ヨセフ本人に心当たりはなく、しかしどことなく師として仰ぐ妖精の女に似た面影の娘は、殺意も敵意も示さず、ぼろぼろと涙をこぼしていた。  捨てないでください、  わたしを捨てないでください、と。  深い黒曜石にも似た色彩の衣服が、娘の身体を包んでいた。零れ落ちる涙は、黒曜石よりなお深い色の真珠となって寝床の敷布に跳ねた。娘は膝を折り、上体を起こしかけたヨセフの腰をまたぐような姿勢で泣いていた。  傍から見れば売女がはしたなくも腰を振る様にも似ている。  ヨセフは小さく嘆息し寝台に腰掛けると、幼い頃に弟をそうしたように娘を膝に乗せ、前髪をかき上げるように娘の額に手を触れた。 「いつか定まった形を得て世界に根を張るそのときまで、共に旅をしようと誓ったぞ」  ヨセフの言葉に、娘の肩が小さく震える。  部屋の片隅に視線を向ければ、鬼蓮花の紋様を刻んだ漆黒の長剣が、淡く光っていた。貴婦人のような優雅ささえある長剣は、剣士たるヨセフの手に渡ってから幾多の化生を討ち滅ぼした。 「どちらも大事なものだ、捨てることなどしない」  途端、  凛という硬く澄んだ音と共に娘は漆黒の小剣となり、寝台の上で一度跳ねた。剣士は、鞘に納まったその小剣を枕元に置き、久しぶりに身を預ける寝台の感触を楽しむことにした。 「……という夢を見たのです」 「ほほう」  あくる日のことである。  ヨセフが旦那と呼んでいる若者は、実にしょっぱい顔で剣士の話に耳を傾けながら、何度か大きく頷いていた。知り合って数年経つはずなのに一行に老ける気配のない旦那はヨセフのよき理解者であり、その日も幾つかの相談事を解決するために待ち合わせをしていた。  再会したヨセフはさっそく前夜に見た奇妙な夢について話し、旦那はそれを聞き終えると、剣士の背後すなわち露店が並ぶ石畳の広場を指差した。 「夢なのかい」  そこでは果たしてヨセフの描写した通りの小娘が、盗賊娘のエリザベスと取っ組み合いの喧嘩を繰り広げている最中だった。少しばかり視線を動かせば、二人の娘のどちらが勝つのか賭けを仕切る、黒衣の貴婦人の姿もある。  旦那は、深い深い溜息の後、もう一度だけ尋ねた。 「夢なのかい」 「夢ですって」 「夢だよなあ」  わーははははははは。  剣士と旦那はからからと笑い、慣れた動きでその場から逃げ出した。