『うつくしきひと』  その昔、人形師になる前のフランツはバルゼット子爵家の嫡男だった。  彼は将来を期待された若者で、知識と教養を身につけるために学舎の生徒となり、そこで沢山の学問に打ち込んだ。彼にとって不幸だったのは、彼が魔法使いとしての素質に恵まれ、勉学をそこそこ愛していたことにある。  フランツには若く美しい婚約者がいた。  小さい頃からの付き合いではあったが、彼女への愛情はなかった。歳の差もあったし、彼女はフランツの弟と仲が良かった。彼女の両親は娘の不貞を嘆いたが、大切なのは両家の結びつきなのだからとフランツは淡々と答えた。  実際、フランツは彼女を抱いたことはない。彼女もまた許嫁を前にしてこう言った。 「私は、あなたの家柄と結婚するの」  二人の関係は、フランツが勘当されてあっさりと終わった。貴族の娘は新たに嫡男となったフランツの弟に乗り換えて、そのまま悪びれもせず結ばれた。二人はフランツの目を盗んで逢瀬を重ねていたので誰も咎めることもせず、最愛の人と家を手に入れた貴族の娘は哀れにして愚かなフランツを笑ったという。  フランツが都の郊外に館を構えてしばらく経った頃、都から来た学舎時代の知人から噂を聞いた。  バルゼット子爵夫人として社交界に華々しく登場した彼女は、夫よりも目立ち、貴族とはこうも華麗なる生活を送っているのかと都の人々の噂になっているという。 「なんというか凄いね」  白と黒の石剣を腰帯に差した若者は茶を飲みながら、そう告げた。 「掛け値なしの美人だし、野心を隠そうともしない。上を目指した発言が多いのは、歴史の割に体制が若々しい紅の国では」 『上手に立ち回り実績を残せば大きな結果を残せる、ですな』 「今のところは見た目の綺麗さで押し切ろうとしているからね」  それができる若さと美貌を自覚しているのだから、ある意味で才能の使いどころを理解している。若者とカエル執事は唸るようにして頷き合い、フランツは興味なさそうに金鉄製の修繕道具を動かした。貧乏暇なしと言うわけではないが、寝る間を惜しまねばならぬほどに治すべき人形達は多い。 『元は妻になるべき女性だったのでしょう?』 「親が勝手に決めた婚姻ではあるがな」 『悔しくはないのですか』  カエル執事の声は、案外真剣だ。フランツが勘当されねばカエル執事は彼に遭うことなく壊れていただろう、そのことを理解していながら尋ねた。 『財産とか地位とか名誉とか、ついでに幸せな家庭とか持ち逃げされたようなものでしょうに』 「羨ましくはあるが、悔しくはない」  仕事の手を少しばかり休め、ぬるくなった茶をあおるようにして飲みながら、まるきり別世界の出来事を語るような表情のフランツである。 「思うに私はこういう暮らしの方が向いているのだろう」 『骨の髄まで貧乏性ですからな、フランツ様は』  笑顔のまま返る執事を踏みつけつつフランツは「否定はしない」と寂しそうに呟いた。    十年くらいの時が流れた。  バルゼット子爵婦人は女性としての盛りを迎え、当然のように盛りを過ぎた。自らの美にこだわり、子を産むと身体の線が崩れるからと妊娠を執拗に拒み、若さを保つためのありとあらゆる方法を模索しつつ社交界の主であろうと振舞った。  子を残す必要のあった若い子爵は周囲の勧めもあって二人目の妻を迎え、可愛らしくはあったが引っ込み思案で地味な印象のある若妻との間に何人かの子を設けるに至った。子爵婦人は若き妻を「子孫を残すためだけに買われた哀れな女」と決め付け、屋敷においてはメイドの一人として扱った。  更に五年ほどの時が過ぎた。  人の身は残酷である。かつては美の化身と自負しその容貌を持って社交界に君臨していたバルゼット子爵夫人の顔には老いの徴が隠しようもなく現れるようになっていた。もしも彼女が歳相応に智を蓄え徳を積んでいれば周囲より敬愛される寡婦として存在できただろう。だが彼女は奔放な少女でありすぎた。自らの若さと美しさを不変のものと考え、それに固執していたのだ。 「父が逝去された以上、あなたを子爵家に置く理由などありませぬ」  新しく子爵家を継いだ若者は、かつての子爵夫人にそう告げるや全ての財を取り上げ屋敷より追い出した。若き子爵にとって彼女は実母をいじめ抜いた女であり、亡き父と結ばれながらその子を産むことを拒み続けた愚か者である。  せめて子のひとりでも設けていれば話は変わっただろうに、彼女は薬を飲みまじないを用いて子種をことごとく潰していたのだ。夫であった前子爵も病に倒れる頃には見舞いにも訪れぬ夫人を見限り、財という財を若妻と子供たちに与えるよう手配していた。  社交界もまた冷淡であった。  かつて彼女が美しかった頃にもてはやしていた貴族達は、子爵家の愚かな騒動を知るや手のひらを返し、まともに面会さえしなかった。幾人かの物好きが彼女に救いの手を差し伸べようとも試みたが、子爵家に対抗するかのような散在ぶりに手を焼き、いずれも数日と保たずに追い出すことになった。  そうして何もかも失って、彼女は人形師フランツの屋敷に転がり込もうとした。  人形師として大成していたフランツは、下手な貴族など比較にもならぬほどの名誉と財を知らずの内に得ていた。人形を治す術は彼以外に長けた者はなく、古の時代よりの宝物として人形達が大事に扱われているセップ島なので、人形の修繕が絡めば一国の主でさえフランツには頭が上がらない。彼はそういう堅苦しくもややこしい権威であることを好まぬ変人だったので、いかなる相手であろうと丁寧に接し、ますますの徳を積んだ。 「昔は結婚の約束をしたでしょう、そのよしみで厄介になるわよ」  もと子爵夫人はフランツの同意も求めず、かつての子爵家よりも立派な屋敷に居つくことを考えた。周囲にはこれ以上ない執事である人形達が控えており、使う暇もなく蓄えられていた財は彼女の物欲を満たすには十分すぎる額があるはずだ。 「そうだ、結婚しましょう私達」  もと子爵夫人はそれがとても素晴らしいことだと口にして、呼び鈴を鳴らした。 「どちらさまでしょうか」  出てきたのはカエル執事ではなく、年頃のきわめて美しい娘だった。削りだしたような紅玉色の長い髪は光沢を有し、その色彩は瞳にも宿っている。気品と若さを同時に持った娘は、黄金羊の毛を織って染めた衣服に袖を通し、物珍しそうにもと子爵夫人を見た。 「あなたこそ、誰よ。とにかくフランツを呼んで頂戴」  近所に住む村娘とは思えない。  もと子爵夫人は不快感と困惑を隠そうともせず、娘を見た。紅玉髪の娘は人形師の名を聞くや恥ずかしそうに頬を赤く染め、それから屋敷中に聞こえるような大きな声で叫んだ。 「あなたー、お婆様がお見えになってますよー」 「誰がいつ君の夫になった」  反応は即座に。  投げるものがないからとカエル執事が宙を飛んで娘の後頭部に叩きつけられ、程なくして人形師フランツが、二十年前と変わらぬ姿で現れた。それが化粧や衣服による若作りではないことは、声の張りや身体の動きを見れば明らかだ。 「フランツ様が私を抱いてくれればその日から私はフランツ様の妻ですよ」 「あの男を義父呼ばわりする結婚生活など願い下げだといっているだろ」 「ですから親子の縁など求めてくださるのならいつでも切ると申しているではありませんか」  娘とフランツは仲の良い兄妹か恋人同士のように罵り合い、その一部始終を見たもと子爵夫人は、フランツに名乗り出ることもせずそのまま屋敷を去り、そのままセップ島の歴史より消えてしまった。